2 引かれる方じゃない、引く方だ。
私の心の澱を作るもう一つの要因。
——それは、私の見た目と出自に関することだ。
*
「店長、明日の仕入れ、マトカリ多めに仕入れた方がいいかもしれませんよ。今、水揚げしたんだけど、全然だめ。しょんぼりしょぼしょぼ。明日花束の予約、三件くらい入ってましたよね?」
マトカリ。マトリカリアという花の通称だ。見た目はカモミールに似ていて、白く可憐な小花を茎にたくさんつけるお花だ。どんな色の花束やアレンジメントにもするりと入り込んで、主役をもり立ててくれる、にくい仕事人的ポジションの働き者でもある。
繊細そうに見えるけれど意外と丈夫で、しおれた時も、枝の根元の部分をバーナーで炙ってから水につける——水揚げ処理をすると元気に戻ることが多いんだけど、今回は無理だったらしい。
「じゃあ、明日はたくさん買ってこなきゃ〜」
パートのおばちゃんの顔を見ながらそういうと、じいっと覗き込むように私の目を見てくる。
「……? どうかしました?」
「……ほんと、店長の目って綺麗な色してますよね。ムスカリみたいな、ものすごく濃い青!」
「ははは、ありがとうございます」
そう。私の目は青いのだ。
髪は黒いのに、目だけが青い。集団に混ざっても一発で私の存在を見つけてしまえるくらい青い。
母は黒髪黒目。どう見ても純日本人って感じだったから、多分、私のこの目は父親の遺伝なんだと思う。
でも、私は父親にあったことがない。
もしかしたら、私の父親は外国人なのかもしれない。でも、残念ながら、私は母が死ぬ前に、本当のことを聞き出すことができなかった。
親しい人には綺麗と言ってもらえることも多いこの目の色だけれど、それ以上に怪訝な顔をされることも多かった。小さい頃はたくさんいじめられたし。
鏡を見て、自分の瞳の色が映るたびに、どうして私はこんな目の色をしているんだろうと思ってしまう。
いくら他人が綺麗と言っても、私はこの目のことを、私だけがこの世界に馴染めていない証拠のように感じてしまうのだ。
じゃあ、海外に行って、その目が目立たない環境に身を置けば? と言われたこともあるけれど、それも私にはできなかった。
多分、これは勘だけど、私は海外に行って、青い目の人がいっぱいいる場所に行っても、そこが自分の場所だとは思えないだろう。そんな確信めいた予感がある。
彼らと私とでは、青さの種類が根本的に違う気がしたのだ。きっとこの世界のスタンダードな青さを、実際に自分の目でたくさん見てしまったら、今私が感じている疎外感はもっと増してしまうと思った。
そうしたら、多分、私の心は壊れてしまうと思う。
根本的に私という存在は、この世界に受け入れられていないのだ、と言うことを酷く自覚してしまって。
この世には知らないほうが、生きるために都合がいいことも、たくさんある。
*
——そんな私にとって、花屋という存在はこの世界と私を繋ぐ、唯一の支えだった。
母が残したこの花屋は、私の城で、ここだけが私に用意された居場所の様に思っていた。私を私としてありのまま受け入れてくれている……そんな気がしたのだ。
別に、母はこの花屋を継がなければ許さない、と思ってなんかないだろう。
母は死ぬ前に、がんばって、と一言私に言っただけだもの。
『がんばれ』
その言葉はきっと、私の未来に向かってのエールだ。私はそう解釈した。
でも、死ぬ直前まで、一緒に生活していた母が考える想像上の『未来の私』はきっと花屋を継いでいる。
だから、私はこの店を守ることにした。
私はそれが唯一の、自分の心を守る術だと信じていた。
心を削りながら、心を守る。
それが正しいことだと。
お母さんが守った花屋を、意思を。娘の私が受け継ぐ。
——いいじゃないか。テレビで放映されるドキュメンタリー番組みたいに、美談じみていて、耳心地がいい。
でも、今は本当にそれが正しかったのかもわからない。
一見華やかに見える花屋という仕事はぶっちゃけ、そのほとんどの作業が泥臭くてしんどい。
朝、みんなが起きていないような時間に起き、市場に行って、夜まで帰れない生活。日中は水が入った桶を大量に運ぶ、引っ越し屋さんにも負けないくらいの力作業。
定休日は週に一回あるけれど、講習会だとか、勉強で終わってしまうことも多い。
斜陽産業である花屋として生き残るためには、知識が必要なのだ。
そんな生活を四年間、一人で続けてきた。
もちろんパートさんは雇っているが、彼女たちは私のやることを補助してくれる存在であって、一緒に経営について頭を悩ませたり、精神安定剤の役目を受け持ってくれる人間ではない。
誰にも頼れず、ひた走る生活は当たり前だが、疲れる。
土砂降りの雨を全身で浴びるように、花尽くしの生活が続く。
すると自分が本当に花というものが好きなのかもわからなくなってしまっていた。
今の私の状態は、酒を飲みすぎて、早朝に駅前に転がっている酔っ払いの、それに似ている。
*
翌日。
私は朝早くから茶色いホロ付きの軽トラックを運転して、花のセリが行われる市場へと向かった。
「今日は切り花だから……」
うちの花屋は鉢物と切り花で仕入れる市場を分けていた。
うっかりしていき先を間違えないように、深呼吸をしてからハンドルを切る。
朝早いこともあって、道は混んでいなかった。
特に道が詰まることもなく、愛車の軽トラックは輪切りの竹の間を流れる、流しそうめんの麺のごとく、スイスイと流れていく。
さーて、このまま真っ直ぐ……。調子に乗ってアクセルを強めに踏んでしまった時だった。
「えっ!」
目の前の信号は青のはずなのに、それを無視して横断しようとする自転車が目の前に飛び込んできた。
学ランを着ていたから多分、学生。もしかしたら部活とかで、早く集合しなくちゃいけなかったのかもしれない。だからって、信号無視はダメでしょ‼︎
絶対にブレーキを踏んでも間に合わないっ!
……と、ここまでが一秒。
私は全瞬発力を使って、思いっきりハンドルを切った。
軽トラックはそのまま、ガードレールにぶつかってもスピードを止めず、建物へと突っ込んでいった。
ガシャン、とドンを足して二で割ったみたいな、耳障りな鈍い音が耳に最短で届く。
痛い、よりも先に熱いがきた。その後、じわじわと波打つような痛みが襲ってくる。昨日の腰の痛みと比じゃない。
そしてだんだん、視界が白けて、どうしようもない寒さが体を襲う。
ああ、やばいかも……。私、死ぬんだ。
私は痛みから自分の死を冷静に把握していた。
でも、なんだか。全然後悔が湧いてこない。今までの『頑張って母から受け継いだ店を潰さないようにしなくちゃ』と言う信念が苦しくて辛くて、重く私にのしかかっていたからかもしれない。
——ここで死ねて良かったのかもしれない。遠のく意識の中で私はそんなことすら考えていた。
自分への嘲笑がひしゃげた車内にふっと広がる。
そうして意識を失った私の目は二度と開くことはなかった。
——この世界では。
鬱パートはこれで終了です。次からガラッと楽しくなります。
次は今日の夕方に投稿します。五時ごろを予定しています。