1 プロローグ
職業花屋店主、二十二歳。
性格は優柔不断な意気地なし。……彼氏なし。
頑固で、真面目なことだけが取り柄です。
——最近、自分の人生、このままでいいのか、真剣に悩んでいます。
*
あれ……私なんのために働いているんだっけな。
働いていると、妙な思考のエアポケットに落ちてしまうことがある。今は作業中だったはずなのに、自分が今何をやっているのかわからなくなって、一時停止。
一度落ちると、ぐるぐるぐるぐる。永遠に落ちて、気がついた頃には、どうしようもない虚無に体を抱き込まれてしまって、無意味に時間を奪われてしまう。
——いけない、いけない。こんなエアポケットに捕まっている場合じゃないんだった。今日は週に二回ある、花桶の水交換の日だ。早くしないと、お客様がわんさか来店する五時のピークタイムに差し掛かってしまう。
花屋にとって、お客様が会社から自宅に帰宅する、夕方から夜にかけての時間が一番の稼ぎ時だ。帰り道にふと花屋に目をとめ、急遽プレゼントとして花束をお求めになるお客様もいる。水換えなんかさっさと終わらせて、今日のお得品、デイリーブーケの補充をしなくっちゃ。
ぼけっとして手が止まってしまった分の時間を取り戻そうと、身長155センチの私の、腰ほどの高さがある水がたっぷり入った桶を勢いよく持った途端、腰にピキィ! と痺れるような痛みが走った。
ぎゃー! あわやぎっくり、手前。
「ゔ! あ、あぁ〜……。やば。めっちゃ腰痛いんだけど……」
二十二歳の娘が出すセリフではない干からびた言葉が口から漏れる。その声を聞いた五十代のベテランパートさんが眉を下げて、笑いながら声をかけてくる。
「店長、大丈夫〜? まさかぎっくりやった?」
「ぎっくり腰ではなさそうですけど、バックヤードからサロンパス持ってこようかな……」
代わりに桶、移動しといてあげる、という力強さと優しさが滲む、ベテランパートさんの言葉に甘えた私は、どっかのばばあのように腰をトントン叩きながら、バックヤードに移動する。バックヤードの棚に置いてあった母の代から使っている、木製の薬箱をパカりと開けて、目当ての湿布を取り出す。
封を開けた瞬間、つんと鼻につく、湿布の薄荷じみた、独特の匂いが鼻をくすぐる。それを嗅ぐだけで、少し痛みが和らぐ気がした。
んもう……もっと頑張らなくっちゃ。こんなところで、時間食っている場合じゃないんだから。
よいしょと、シャツの裾を捲り、腰に湿布をべちんと勢いよく貼る。
「よーし、夕方までに水変え、終わらせるぞー!」
*
私は駅から少し離れた場所にポツンと存在する、寂れた商店街の中にある、花屋の三代目店主だ。
先代であるお母さんは私が十八歳の頃に亡くなった。それからずっと私は、この店の店主をしている。
お母さんは女手一つで私を育ててくれた、パワーに満ち溢れた人だった。
花屋の仕事と子育てを両立させるのは、大変な苦労があったと思う。花屋の仕事は過酷だから。
市場が開くのは朝の七時。店から市場まで車で三十分くらいかかる。それに加えて家事もしなければならないとなると、遅くても二時間前には起きなければならない。
そこから店先に立ち、営業を続け、闇が商店街を支配してしまう時間まで仕事を続けなければならない。
古くからのお母さんの知り合いは「もう少し営業時間を短くしたほうがいいんじゃないの?」って言ってくれていたみたいだけど、お母さんはそれを押しのけて、働きづめてしまうような、仕事一筋な人だった。
休むことを知らない働き者具合を見て、不思議に思った私は、いつの日か、お母さんに尋ねたことがあった。
「ねえ。どうして、そんなにがんばれるの?」
「そうねえ……。あんたと花が大好きだからかなっ!」
そう言って、弾けるような笑顔で私を抱きしめたお母さんだったけれど、きっと相当無理をしてたんだと思う。自分が店主になった今なら、その苦労がわかる。
お母さんが亡くなったのは、私の高校の卒業式の日だった。
その日は、まだコートは必要だな、と思わせる肌寒さが残っていた。だけど、空には雲がひとつなく、空気が澄んでいて、絶好の卒業式日和と言えるお天気だった。
正直なところ私はお母さんに卒業式に来てもらいたかった。
だけど、卒業式シーズンは花屋の繁忙期だった。私は子供の頃から花屋を手伝っていた経験から、それを把握していた。
お母さんは一度も、私の卒業式に参加できたためしがない。
その年も例に漏れず、いつも通り。お母さんは朝早くから、私の卒業式と同じ日に卒業式がある、近隣中学校から発注された、卒業生全員に贈られるチューリップの包装に追われていた。
「お母さん、卒業式行ってくるね」
最後の制服姿に身を包んだ私を見て、お母さんは「まあ……あんた、いい顔するようになって……もう大人だ」と呟いてから、私の姿を下から上へ、目を細めながら眺めた。感慨深そうなお母さんの姿をみて、私はこそばゆくなる。
「今日、卒業する私になにか言うこと、ある?」
そう尋ねると、お母さんはうーんと少し考え込むような表情を見せた。
「これからいろんなことがあるだろうけど……。あんたならできる! がんばってね!」
なんだか調子はずれなエール。
笑いが込み上げてくる。私は眉を寄せながら「頑張るって何を?」と不貞腐れるように言って、玄関を出た。その時のことは今でもはっきりと覚えている。
式が終わった後、私は友達と話す暇もなく、学校を飛び出して店に戻った。今頃、お母さんは片付けにてんてこまいになっているはずだ。少しでも手伝いをしたい。そう思っての行動だった。
チリンとベルがなるドアを開け、店の中に入ると私はすぐさま違和感に気がついた。いつもと違う。
空気の流れが不自然に滞っていて、不気味なほどに静かで、ドアベルが鳴ったら必ず聞こえてくる、いらっしゃいませーという明るい声がない。
いつもなら、このタイミングで「なーんだ! 紡か〜! お客様かと思ったじゃない」と困った顔をしたお母さんが出てくるはずなのに。
——嫌な予感がした。
私はまるで熱帯雨林のように観葉植物が置かれた店内を縫うように小走りで走って、バックヤードへと向かう。
「お母さん!」
……いた。なんだ、寝ているだけか。
お母さんは人一人がやっと入れるくらいの、狭いバックヤードにいた。売り上げ帳簿をつけるパソコンが置かれた机に突っ伏していたのだ。
まったく……。今日は忙しい日だったし、きっと疲れていたんだな。カーディガンでもかけてやろうと、お母さんに手を伸ばす。
「ちょっと。仕事中に何寝て……」
息が止まった。お母さんの背中は弾力を失っていた。
感じたことのない、不可解な感触に何事かと思った私は、お母さんの顔色を見る。
「え……なんでこんなに白いの……?」
死んでいる。
本能的に理解してしまったけれど、それを信じたくなくて、お母さんを乱暴に揺らす。
「お母さんっ! お母さん! お母さん!」
金切り声が店内に響き渡る。
私の精神の平衡を欠いた声に気がついた、お隣の文房具屋さんの奥さんが、焦った様に店に飛び込んでくる。そして、お母さんを見て救急車を呼んでくれた。
でも結果は前記の通り。
お母さんは死んで、私は一人ぼっちになった。
私は高校卒業後、大学への進学が決まっていたけれど、母が死んだことで進学を諦めざるをえなくなった。花屋は自転車操業だったため、貯金は雀の涙。働かないと大学はおろか、生きていくことさえ、ままならない経済状況だったのだ。
店を畳み、建物を売ればいい。そう親戚には助言された。特にお母さんの弟である叔父は店を売るように、しつこく勧めてきた。こんなに悲しくて、大変な状況なのに、彼の表情はどこかニヤついていて、目の中が底がない沼色をしていた。
店を売ればその売り上げの一部が、自分にも相続されると考えているのがバレバレだった。
この店を誰にも奪われたくない。
私は現実と希望をよくすり合わせた結果、花屋を継ぐことを決めた。
それからというもの、私はお母さんが残したこの店を失わない様に、必死に、必死に、必死に……。
がむしゃらに働いていきた。
元々、小さい頃から店を手伝っていたこともあって、一人で店番ができるくらいの技術は身についていた。それでも若いからという理由で見くびられることもたくさんあった。
年上のパートさんに怒られることだってたくさんあったし、取引先に迷惑をかけて頭を下げた回数だって、両手の指の本数でも足りないくらいだ。
そんな苦しい期間をなんとか乗り切って、最近やっとこの店の主人として一人前だと、胸を張って言える様になった。
なのに……。たまに虚しくてたまらない気持ちになるのだ。
あれ? 私、なんのために働いているんだっけ?
母といた、この店を畳みたくない。
母に誇れる自分でありたい。
そう思っていたはずなのに、私の心には、洗うのをしばらく忘れた、花桶の底みたいに、どんどん汚いものが溜まっていく。
水桶の重みで、腰が痛むたび。毎日の水仕事の中で増えていく掌のアカギレを見るたびに。
——街中でなんの責もなく、楽しそうに笑う、同世代の女の子たちを見るたびに。
心がぎゅっと握りつぶされたみたいに、苦しくて、どうしようもなくなる。
素敵な同世代の女性たちが、店の前を通る度に、欲しくても、手に入れられなかったものを、目の前に突きつけられているような気分になってしまう。
もしかしたら、私にもあんなふうに笑っていた人生が起こり得たのではないだろうか。
お母さんさえ生きてさえいれば。
私にも、人生を楽しむ猶予が与えられていたんじゃないかな?
予定通りに大学に入学して、キャンパスライフを楽しめていたら、花屋に囚われない新しい扉を開けていたのではないか。
例えば、秘密を共有できるような甘やかな関係の友人を作ったり。
例えば……心を許せる恋人を作ったり。
例えばだらけの、IFの世界線の妄想を、苦しくなるたびに、数え切れないくらい繰り返した。その度に母への罪悪感が高波のように襲ってくる。
やだ。お母さんが死んだせいで、私が不幸に足を掴まれたみたいじゃん。違うよ。お母さんは悪くないんだよ。
お母さんは、頑張っていた。誰よりも、誰よりも。
違う。誰かのせいじゃない。キャパオーバーになっていたことに気がつかなった私が悪い。
そもそも、同じような状態に立ったって、うまいこと時間を作って友情を育んだり、恋人を作っている人はいくらでもいるんだ。
時間を味方につけられない、要領がよくない。そんな私が全部、悪いんだ。
見てみぬふりをしていた心の澱が、だんだん増えて、私自身を頭から飲み込もうとしていた。その澱に飲み込まれない様に、必死に努力しながら、今日も能面の様な営業スマイルを顔に貼り付けている。
けれど、その能面がいつか、予期せぬ場所で剥がれてしまいそうで、怖い。
そんなわけで最近の私は、憂鬱でいっぱいなのだ。
しかも……私の心の澱を作る原因はそれ以外にももう一つある。
聖女印の花屋さん、はじめてみました〜。
もう書き終わっている小説なので、今日はこれから連続投稿をさせていただきます。
次の更新は12時ちょいすぎくらいです。鬱パートは二話で終わりますので、それまで耐えてください……。
面白いなと思ったらブックマーク、評価などいただけると、励みになります。
完結までお付き合いいただけると幸いです。