もう…やだ
もう…やだ
呆気なく2つに割れた面はコトリと小さな音を立てた。
その瞬間、弘樹の脳裏に流れ込んでくるものがあった。
何だこれ?!
謎の何かに抗おうとするが、指の隙間をすり抜ける水のように、さらさらスルスルと弘樹の中に流れ込む。
元々あった小さな祠のあった所には、古くて太い御神木があった。
ある嵐の夜、御神木に雷が落ち、その衝撃で木は折れ、一部は炎で焼け焦げた。
その後折れた御神木から一枚の面が作られる。
村人たちは跡地に祠を建て面を奉納した。
時は流れ数百年、保護樹林の中にある滾々と清水湧き出る小さな泉。
その横にある小さな祠。
御神木から作られた面を御神体としている為か、樹木のそれと同じく朽ちて土へ還る運命は然程恐ろしくもないとソレは思った。
高齢化や少子化、迷信めいた事を嫌う者も増え、祠に訪れる者は激減していた。
そんな中、今だ毎週詣りに来る老婆が一人の少女を連れてきた。
老婆と少女は面を作り奉納した職人の子孫に当たる者たちだった。
それからは参拝者が二人に増え、頻繁に訪れては酒や饅頭などを供え、祠や周辺の掃除をしてくれた。
いつしか少女は一人で来るようになり、ある日祠にお参りしつつ祖母の死を報告してくれた。
その後も少女は週に一度ほど祠を訪れた。
そこは少女にとって聖地であると同時に、祖母との思い出の地でもあったのだろう。
祠を通して祖母に語り掛けることもあった。
そして時は過ぎ去り、少女が就職のために都内へと出ていった。
幾日も幾週も誰も訪れぬ聖地。
近い将来存在すら忘れ去られるのではないかと、ソレは仄かに寂しさを感じ始めた頃、とあるサイトにこの祠と泉こそ最高のパワースポットであると噂が広がり、参拝者や来訪者が増え始めた。
近隣の学生や電車やバスを乗り継いで来るのもたち。
書き込まれたサイトの客層もあってか訪れる者の大半は10代から20代の女性たちで、それに付き添う男性の姿も散見された。
突然の活気にソレが喜ぶのは一瞬だった。
元々力の弱く小さき神だった彼女は、私利私欲の念に汚されたのだ。
単に挨拶をするだけの者も居たが、世代的にも恋愛に関する願いは多く、自然とともにあるはずの場が、人間の欲によって穢されたのだ。
ゴミを持ち帰らぬ者もおり、空のペットボトルや紙くずなど、ゴミがあちこちに散らばるようになった。
女神はただ耐え忍び、浄化を司る水の力で少しずつ浄めようとしていたのだが、そんな中、一人の女性が祠の前で自殺した。
それは面を奉じた子孫の少女その人だった。
彼女は良かれと思い、誰も訪れなくなった祠と泉の噂を掲示板に書き込んだ。
それをきっかけに友人もでき、最愛の男性と思える人とも付き合いはじめた。
当初東京での一人暮らしは順調だった。
はじめての仕事、慣れない一人暮らし、さして高くもない給料をやり繰りして、貯金も出来ていた。
彼氏とのデートや友人たちとのちょっとしたやり取りも楽しくて、充実した日々を送っていた。
彼もいつしかアパートを引き払い、彼女の借りている部屋で同棲するようになっていた。
しかし幸せは長くは続かなかった。
彼氏に頼まれてお金を貸した。
彼はその金を使い込み、彼女の友人の一人と浮気をし部屋を出ていった。
そこからは何をやってもうまく行かず、会社を辞め、実家へと戻ってきた。
そして祖母との思い出の地へ久々に訪れて、彼女は己の過ちに気付いた。
清掃などの管理する者すら居ない祠。
人気が上がるに連れてそこは薄汚れ、清々しいはずの泉にもゴミが浮かび淀んで見えた。
都会で得たはずの彼氏に友人、貯金に仕事。
その全てを同じく都会で失った彼女が求めた癒やしの場は、自分の手で穢されてしまっていた。
「もう…やだ」
彼女は少女の様に泣きながらゴミを拾い集めた。
素手のまま泥に汚れ、それでも無言のまま何時間もかけてすべてを拾い集めた。
さして広くもない場所に、よくぞこれだけと思える程のゴミの山が生まれた。
女性は一旦家に帰り、その日の夜に再び祠を訪れた。
小さなポリタンクに入れたガソリンを、ゴミの山と自分にかけて火を放ち、痛みと熱さ、怨嗟と後悔、自責の念すら炎に変えて生きた炎と化した。
女神は何も出来なかった。
最後の信者すら守れずに、目の前で死んでしまった。
死は穢。
血は穢。
ゴミと人とが焼けた臭いが充満したその場所で、女神の中の何かが壊れた。
奉じられた面は乙女の顔を模しており、女神もまた、面を着けた姿を好んでとっていた。
いつしかその額には小さな角が生え、犬歯と呼ぶには大きすぎる牙が生えていた。
数多ある能面の中、その面は生成と呼ばれるそれと瓜二つになっていた。
その瞬間、理解不能な無数の情報が弘樹に流れ込もうとし、ブチッと一方的な繋がりが立たれたのだった。