異界
異界
暗闇に落ちた意識がゆっくりと浮上する。
焦る事はない、大丈夫だと、根拠はないが何故か信じられる思いと共に弘樹は目を覚ました。
辺りを見回せばそこは自分の車の助手席だった。
シートを倒して寝かせてくれたようだ。
車内のライトがついたままになっており、目覚めたばかりの目には眩しかった。
「無事で良かったわね?」
耳に心地よく響く声音だったが、何処か冷たくも感じるそれが車外から聞こえ、起き上がりつつ目を向けると、大きな革鞄を肩からぶら下げた少女が脇道近くに立っていた。
不思議なことに岩場を転がりあちこち打ち付けたはずの体は痛みを全く訴えなかった。
声の主たる少女の頭上には握り拳くらいの大きさの青白い光が一つ浮かび、ふよふよと漂って辺りを照らしている。
以前の弘樹なら人魂?!と叫び、飛び上がって驚いただろうが、自分にも似た事が出来るんだろうなーと考えた程度だった。
あれほど濃かった霧は綺麗に消え去っていたものの、車や少女の灯す明かりの届かない所は完全に闇に塗り潰されている。
ちらりと時計に目をやれば、深夜二時を少し過ぎた頃だった。
車から降りて辺りを見回せば木々は倒れて道を塞いでおり、あれが夢ではなかったのだと教えてくれる。
「君が助けてくれたのかい?」
問いに少女は小さく頷くと、無言で弘樹に背を向け脇道を歩き始めた。
付いて来いって事か?
弘樹は慌てて少女の後を追いかける。
少女の歩みは決して慌ただしいものではなく、ごく自然に歩いているだけなのだが、その速度は異様なほどに早かった。
先程までの弘樹なら到底追いつけない程の早さで歩く少女に驚きながらも、何故か自身も同様に、疲れすら全く感じることなく付いて行ける事に気付き、より一層驚いた。
脱力感も痛みもなく、何なら家を出たときより気力も活力もみなぎっているような感覚を覚えながら、弘樹は少女に声をかける。
「すまんが教えて欲しい。あの二人はどうなったんだい?それに君は一体誰なんだ?」
弘樹の問いに、少女はスッと右手を上げて脇道の奥を指し示す。
「彼らはあなたより先に目を覚ましてこの先に向かったわ。私は…本来なら教えないのだけれど、貴方になら教えても良いかも知れないわね?」
少女はそう言うと静かな足取りで弘樹の耳元へと美しい唇を近づけ、囁くように己の有り様を告げた。
「私の名前は望月十六那。魔女と呼ばれる存在で、貴方の同類よ、山野弘樹さん」
弘樹の鼻腔に少女の醸す花のような良い匂いが届き、人付き合いが苦手で女性に免疫のない体が緊張で硬直する。
なんならちょっと前屈みになってしまった弘樹。
そんな様を見てクスリと小さく笑いつつ、少女 望月十六那は再び歩き出してしまった。
本気で魔女だよ。
なんかきっと色んな意味で魔女だよ。
てか、何で俺の名前知ってんだよ。
弘樹は頭の中をグルグルさせつつ、十六那の後を追うのだった。
一分ほどで辿り着いたのは広大な岩場などではなく、小さな泉と雨風に晒されてボロボロになった祠のある広場だった。
そこにはマリや誠治、聡の遺体は見当たらず、貴彦と小春が疲れた顔で地べたへ座り込みペットボトルの水を飲んでいた。
二人とも未だにリュックを背負っており、そこから竹刀袋が飛び出していた。
あの中に銅剣や小太刀が入ってるのか。
それぞれ竹刀より短いはずで、納得できた。
何故そんな物を持ち歩いているのかは全く分からないけれど。
「どう?見つかった?」
十六那が二人に声を掛けると、彼等は小さく横に首をふった。
「あちこち探してみたけど、あなたの言う通り、誠治もマリも聡も、それに千尋も何処にも居なかった」
貴彦が答え、小春が顔を俯かせる。
「でしょうね。山野さんが休んでいる間にあなた達には話たけど、先程居たのはここであってここではない所。位相の異なる世界。神隠しの先にある地の一つ。神話伝説おとぎ話に出てくるそんな場所」
ありのままをありのままに伝えている。そんな口調で十六那は語り続ける。
「浦島太郎の竜宮城。常若の国ティル・ナ・ノグ、何でもいいわ。遥かな昔からあると言われている何処かにあるけど何処にも無い場所。それとも招かれなければ辿り着けない場所と言った方がいいかしら。
そこに迷い込めば相当な幸運か加護でもなければ戻ってこれない。
最低でも三人の遺体がそこにあるのなら、並大抵の手段では回収は不可能よ」
二人に声をかけつつも、少女は祠の前まで歩き、長い時と雨風によって薄汚れた観音開きの扉を開いた。
祠の中には紐で封をした木箱が安置されており、十六那はそれを取り出すと封を解いて蓋を開ける。
中には油紙に包まれた面がしまわれていた。
油紙の中から十六那の手で取り出されたのは能面の様にも見える、元々は白い女性の面だったのだろうが、今では所々薄汚れ塗料も剥がれ落ちて傷んだ様子が見て取れる。
「これがこの地の御神体。あなた達が戦い、倒した荒御魂の形代にして本体。もうこの面に大した力は残っていない。でも…憎悪と怨嗟に染まった御霊の象徴であり、死した人々の魂を食らったこれは、あるだけで危険な物になっている」
そっと地面に面だった物を起き、十六那は三人の顔を見た。
「だから、あなた達の誰かがこれを壊さないといけない。これはあなた達にこそ縁のある物。私の手ではなく、あなた達が終わらせてあげて」
古い革製の鞄から短剣を取り出し、三人に向けて差し出した。
「あの…あれを倒したのは貴方です。だから私や貴彦じゃなく、貴方の手で終わらせてくれませんか?」
小春は立ち上がり、弘樹に縋るような目を向けた。
その横で貴彦も立ち上がり、大きく頷いている。
十六那の言葉を信じるならば、あれだけの化け物の原因となった物だ。
恐ろしくもあるだろう。
弘樹は小さく頷いて、十六那の手からナイフを受け取った。
そういやちゃんと名乗ってないな。
おっし!
「俺は弘樹。山野弘樹だ。よろしくな!って事でやるぞ?!」
何故か名前を知っていた十六那を含めた三人に名乗った後、弘樹は地面に置かれた面の額にナイフの切っ先を突き立てた。
面は特になんの抵抗も無くあっさりと2つに割れ、コトリと小さな音を立てた。