#10話:前編 姫君の秘密の図書館
2020年6月7日
前回の投稿について。
予約投稿の日付を間違えたため、いつもの木曜日ではなく水曜日に投稿されました。
9話を読み飛ばしている方がおられたら申し訳ありませんが一つ遡ってください。
窓の向こうに黒い湖面が見える。宵の頃を過ぎても光を失わない街と対照的だ。昼間はその広さが開放的な明るさを際立たせたが、逆に夜になると深い闇のようだ。遠くを見つめていると飲まれそうになる。
窓から離れ机にもどる。ここは文官棟で俺に宛がわれた客室だ。机上には書き散らかされたメモと図が散乱している。
ゴンドラ運行が終わる夕方ギリギリまで整備ブースでエンジンに取り組み、上にもどってその日のデータをまとめて、次の日の実験の計画を立てる。ここ数日それを繰り返している。
また一つ紙くずが出来た。まるで湖の岸を左右にさまよっているだけで、一歩も前に進めていないような気分だ。
ちなみに、シフィーは自分の部屋だ。今頃疲れて眠っているだろう。彼女は頑張ってくれている。進まないのは俺の実験計画が原因だ。問題は明白なのに、打開策が浮かばない。
エンジンのスピードを上げるためエンジンに蓄えられた透明な魔力の螺旋回転を強めねばならない。半月型の三色の魔力触媒の模様の大きさを変えたり、間隔を詰めたりして螺旋回転を速めることは可能だ。だが、螺旋回転が速まれば速まるほどエンジンが蓄えた透明な魔力を早く消費してしまう。グランドギルドの作り出した最適のバランスに全く及ばない。
ならば模様を変えるかといえば、それは全くの一からの研究になる。魔力測定器の力を借りても到底間に合わないだろう。
書きかけの紙を握りつぶし、もう一度立ち上がる。岬の下から三組の光が太湖に向かう。白い航跡は魔導艇のものだ。反射的に魔力消費量を考える。地脈の魔力は無尽蔵だから彼らの運用を縛るのはやはり容量なのだろう……。
ラウリス艦隊のことを今は考えている場合じゃない。一刻も早く突破口を見つけなければならない。大会まであと一月を切り、リーディアの到着はさらに早い。ただでさえ練習の時間が足りないのに、彼女が到着した時にエンジンが完成していなければどうなるか。
暗い湖面から目を引きはがし、もう一度机にもどろうとした時、背後のドアからノックの音がした。ドアを開けると、白いドレスの姫君がいた。
◇ ◇
大図書館のどこまで続くのかという本棚。たどり着いたのは奥に隠れるように存在するドアだ。扉の向こうは、文書保管庫の俺の地下室よりも、広くきれいな部屋。
左右の棚には古い紙の束が積み重なり、その下には引き出しが並ぶ。中央の広い机にはいくつもの書物が開いたまま置いてある。紙の色からおそらく旧時代までさかのぼるのだろう。
なるほど、クリスティーヌの秘密の研究室というところか。異都市の姫君に誘われての夜の密会という、妖しげな雰囲気が、机を見た途端吹き飛んだ。
実際、これから行われるのは互いの状況報告だ。男女の密会ではなく、文官同士の政治的密談である。
「まずは私の方から報告です。リーディア殿下をラウリスが正式にご招待する算段が整いました。私の訪問に対する返礼という形ですから、形式上は対等ということになります」
「なかなかにご無理を押されたのでしょう」
リューゼリオン王家の面目が、騎士院に対して立つ形だ。王女と王女の間のこととなれば、デュースターの口出しも避けやすい。
「こういう言い方は不本意ですけれど、グンバルドの強引さが私たちにとって追い風になっています。とはいえ、予断を許さない状況ではありますが」
「そうでしょうね。太湖から遠く離れたリューゼリオンと手を結ぶだけの価値があるのか、という声は上がるのでしょう」
俺はあの二人の選手のことを思い出しながら言った。
「はい。大会ではそういった懐疑論を吹き飛ばすだけの成績が求められることになります。対等な同盟ということであれば、グンバルドに対抗するためという建前を使っても……少なくとも表彰台。三位以内に入っていただきたいです」
姫君は率直な意見を口にする。彼女がそういうのなら、これでもギリギリなのだろう。
「では、それに関して私の方からも現状報告をさせていただきます。まずは結界器とエンジンの間にあるグランドギルド時代の遺産としての共通点を確認した結果……」
部屋から持ってきたデータを手に、これまでのエンジンの分析について説明する。幸いというか、データの整理だけはしっかりできている。
「透明な魔力に、赤でも青でも緑でもなく、そのどれでもある性質を与える、ですか……」
「要するに騎士が間接的に用いている地脈の魔力を直接用いるのがエンジンの力の源です。ただ、結界と違い外に移動できる形で用いなければいけない。そこで、更にもう一つの技術の存在を考えねばなりません。これはシフィーの発想なのですが、透明な魔力結晶に当たるものを仮定しています」
「透明な魔力結晶……」
「これに関しては現時点ではあくまで仮説ですので、口外なさいませんようお願いします」
俺の話を聞いていたクリスティーヌはかみ砕くようにゆっくりと頷いた。
「……まるでグランドギルドで講義を受けているような気分です。都市が遠い昔の遺産に依存していることについては私も懸念は抱いていましたが、遺産は手が出せぬ物として考えを止めていたようですね」
大きく息を吐きだし、あきれたような顔で俺を見る。だが、その表情はすぐに真剣なものになる。
「しかし、だからこそ実際にその効果を示さない限り、容易に受け入れられないでしょう。私が今のお話を納得するのは、レキウス殿がエンジンを回復させる様や、パンに対する考察を聞いていたからです」
「おっしゃる通りだと思います」
騎士が重視するのは魔術の運用だ。原理云々は響かない。実際に遺産を運用して見せる形で証明して見せること。どれだけ素子論が美しくとも金を作れなかった錬金術が詐欺扱いされたのと一緒だ。ましてや東西対立が迫っている中での交渉なのだから。
「つまり、大会での結果がますます重要になるわけですが……。現状はこれらの原理をエンジンの性能に反映させることについては苦戦しているところです」
「これだけの成果を苦戦というのは不思議な感覚ですが、ラウリスを連盟ごと動かすには……ですね」
「……」「……」
俺たちは沈黙した。難題であることは分かっていた。選択肢はこれしかなかったと今でも思っているが、それは現状を解決してはくれないのだ。
その時、ドアの向こう、図書館の方から小さな鈴の音が一回鳴った。
「現状は理解いたしました。またお話ししましょう。私の方でご用意した方がいいものなどありますか?」
「そうですね……。酒の一つでも、というのは無論冗談です。これまでの大会のタイムがあるとありがたいです」
今そんなものを手にしても敗北感が増すだけだろうが、情報は早めに固めておかなければならない。
「わかりました。用意しておきます。……ちなみにワインは赤と白どちらがお好みですか?」
最後に冗談を交わした俺たちは図書館を出て左右に分かれた。