#7話 禁忌の味
書棚の奥にしまった『ノート』を取り出す。まだ騎士候補、つまり学生だった頃に必死で勉強した魔術基礎のノートだ。普通の学生は遅くても半年で終わるのに、実技が始まらないから三年以上続けた。
ノートを開くと、赤、青、緑の様々な色の染みが見える。染みの下にびっしりと書かれた説明。様々な魔獣の心血由来の魔力触媒を試した結果だ。すべて無駄になったが、シフィーの触媒の色を見ただけで劣化の可能性に気が付いたのはこのおかげということにはなるか。
久しぶりに開いたが色は健在だな。そう思ってノートを捲る。あるページにひときわ大きな赤い触媒の染みがある。染みの中心が指先の形に色あせているのを見つける。
リーディアの指の跡だ。五年前だから彼女が十一歳のときか。魔力が欠片も流れないことに焦っている俺は凹んだことを覚えている。
パタンとノートを閉じた。
シフィーに貰った実験サンプルとエーテルをテーブルに置く。微かに曇って見える青い染みに視線を向ける。そして、地下室で写し取った『テキスト』を広げる。
「何をやろうとしてるんだか……」
俺は今から、色がついているという共通点だけで、染料と魔力触媒に対して全く同じ分析をしようとしてるのだ。もし騎士に成れていたらこれ自体を魔術への冒涜だと思っただろうか。
…………いや、昔からそこらへんは空気読めなかったな。魔術よりも魔術基礎の理論の方に興味を持ったりしてたし。心血以外から魔力触媒が取れないかとか考えてたしな。
そういえば、名門の子として城の地下に鎮座する結界器を見せられた時も、生意気なことを言ってあきれられた。そういえば、あの時はリーディアも一緒だった……。
「いいさ、ただの思い付きをちょっと試すだけだ」
苦笑する。この実験で失うものなどない。もちろん、シフィーのことを考えたらうまくいくに越したことはないけど、失敗して元々の実験だ。
というか、実験なんて失敗の方が多い。ファノシアニンを精製するのだって、どれだけ失敗を繰り返したか。
『テキスト』の写しの中であるページをめくる。そこに書かれた道具を用意する。といっても必要なものは底の浅い平らな皿と、そこに渡す木の棒だけだ。
これは錬金術の実験の中では極めて単純なものだ。色素分離と呼ばれる分析用のもの。
染色工房で知ったことだが染料は色の組み合わせで作られる。ちなみに赤、青、黄色を混ぜると黒になる。これは魔力触媒も一緒だ。昔、やけっぱちになって混ぜたことがあるからわかる。ちなみに、同じ三色でも魔力の光は全く違う。結界が白いのは三色の魔力すべてを使うグランドギルドの大魔術だからだ。
さて、素子論の考え方からすれば、三色の染料はそれぞれ違う色の粒だ。三色の粒が黒い色になってしまったように見えても、実際には異なる色の粒が混じっているだけということになる。
そして、もしこの三色の物質が色だけでなく別の性質、例えば粒の大きさが違うとしよう。ならば、その性質の違いで一度混ざった色を再度ふるい分けることができる。単純で論理的な話だ。
棚からインクのように黒い液体を取り出した。レイラの工房の赤、青、緑の染料を混ぜて黒にしたものだ。短冊状に切った紙の左端、シフィーの触媒の横に黒い色素を一滴置いた。一瞬盛り上がった黒い粒は、紙にしみ込み小さな黒の点になる。同じくらいの大きさの黒と青の二つの点が紙の上に並んだ。
浅めの四角い皿にシフィーから分けてもらったエーテルを引き、その上に木の棒を渡す。そしてその木の棒にサンプルを付けた方を下に紙の端を浸す。
文官なら日々の仕事で思い知るが、水のような液体は紙にしみ込む。そして、せっかく作った書類を台無しにして仕事が増える。
黒と青の二つの色の点をしみ込んだエーテルが通過する。すると円形だった色の点は水の流れに押されるように楕円形に延びていく。
じっと経過を見守る。まずは標準サンプルである黒インクだ。楕円形になった黒い色は、だんだんと三つの色に分かれ始める。先端の方から赤、青、緑だ。これはエーテルに流される染料の素子を紙という細かい篩にかけたようなものだ、エーテルに押し流される三種類の粒は、その大きさに従い分離される。
単純に考察すれば、赤が一番網にかかりにくくどんどん流され、緑が一番網に引っかかり移動を妨げられることになる。もう一つわかることは、赤、青、緑の色が混ざって黒という色に変わったのではなく、そう見えているだけだという証明だ。
素子説のかなり重要な証明だ。ただし、これについてはすでに知っていることだ。錬金術で言う対象物。つまり、実験そのものがうまくいっていることを示す指標にすぎない。
問題は隣の本命サンプルである。その移動は黒い染料よりもゆっくりだ。
青色触媒はいくつかのバンドに分かれている。その半ばにひときわ太い青い楕円がある。おそらくこいつが触媒の主成分だ。ごくりと息をのむ。いや、まだ期待するのは早い。
焦る心を落ち着けて待つ。
青い一つの楕円はその前後で色合いに差を示し始めた。流れの先の方がきれいな青になり、後ろの方が曇った色に見える。
思わず息をのんだ。さらに待つ。ついに曇った青のバンドは二つに完全に分離した。
完全に上までエーテルが染み切った紙を引き上げ、下から布で液体を吸い取った。そして、ランプの前に透かして色を確認する。
目の前に示された二列の線のパターン、実験結果をじっと見る。青い色素に見えたものは、はっきり二本のバンドに分かれている。『ノート』と比べる。上はきれいな青色、これは正常な青色触媒の色に見える。そして、そのすぐ下の曇ったバンド。これは魔力を流し続けたことで劣化した青色触媒の色だ。
綺麗な青いバンドと、曇った青のバンドは見た目の量の差が大体4対1くらいだ。魔力触媒の劣化は魔力の伝達を妨げる。単純に考えればこの触媒は二割がた劣化している。
普通は一割も劣化すれば使わないので、これは明らかに質の悪い、おそらく古い触媒だ。昔は僅かな色の違いで見分けていた触媒の劣化度合いを、俺は今ハッキリ視覚化させた。それも、魔術を用いずにだ。
思わず固唾をのむ。面白いじゃないか。
もちろん、魔力が使える騎士はこんな手間をかけず感覚でわかる。判断の精度は実際の魔力の効率や成功率で測れるのでずっと実用的だろう。それでも、彼らは今俺が知ったこの事実を知らない。
何かを見た、知ったという高揚。それが心にしみ込んでくる。いや、それ以上かもしれない。
「なんだ、魔力触媒なんて言っても………………。なんだ、これ」
だが、浮き立つような気持ちは視線を下に動かした時、一瞬で霧散した。
「まてよ。これはダメだろ」
ごく細い緑色のバンドが見える。それはほんの僅か、曇った青色のバンドに比べても半分もない。だが、その意味するところは深刻だ。
魔力は色ごとに反発し合うので、異なる色が混ざることは魔術の実行に致命的なのだ。三色の魔力を使う結界ですら、その魔術陣は三色に分かれていた。
触媒の劣化などよりもずっと深刻だ。色が決まっていない本当の初歩の練習用ならば、劣化した廃棄しかけの触媒でも練習に使えないまではいかない。だが、相反する色を混ぜるのは完全に……。
これが本人のミスならいい。シフィーはまだ自分の色が決まっていないから。複数の色の触媒を同時に扱ってるうちに混ぜてしまったとかだ。
だが、白いくせ毛を振って、必死にこれを調整してた少女の姿が脳裏によみがえった。掌に爪が食い込んだ。真面目な彼女がそんなミスはしない。
「許せないな」
目が見えず、暗闇の中手探りでもがく人間の足元に石を置くようなものだ。
「……待て、まだだ。冷静になれ。結論を急ぐな」
掌に食い込んだ爪を解く。確かにそれっぽい結果だ。だが、この緑のバンドが本当に別の魔力触媒である証拠はないのだ。魔獣の血液の中にたまたま緑色の成分があっただけ、その可能性はある。
もっと言えば、この青色が魔力触媒の主成分だということすら推測だ。
だが、すぐに方法があることを思いついた。
ヒントはさっきのノート。リーディアが曇らせた触媒の色だ。シフィーは不完全でも魔力を流すことはできるといっていた。なら、彼女自身に試してもらえば解決する。
明日はリーディアの婚約者候補の最後の一人、カインが実習から帰ってくる。学院で話を聞く約束だから、その後でシフィーのところに寄ればいい。