#閑話 商人の心配 & #12話 黒い疑惑
「ワインの醸造過程についてはある程度理解できました。その泡蓋というのが興味深いですね」
ワインの醸造で発生する灰汁の話を聞き、クリスティーヌは言った。火入れ前に除かれたそれが次の醸造に加えられるという彼の言葉に目を輝かせる。
「入手は可能でしょうか」
「次の醸造に加えるのはごくわずかであったはずです。組合にはワインを扱う商人もおります。殿下の元に届くよう手紙を書かせていただきます。ご帰国の際にお持ちください」
「それは助かります」
いつも微笑みを忘れないクリスティーヌだが、今日はハッキリと浮かれているのがわかる。まるで思わぬ贈り物をもらった若い娘のようだ。母都市の要人を突然迎えた立場の彼としては望ましいことである。ワインのことも手紙一つで恩が売れるのなら安いものだ。
リューゼリオンに独自の麦料理があるなど知らなかったことだが、料理のことは彼の専門外であり、失態でもなんでもない。
「本日招かれた文官の方から得られた情報とか」
「ええ。とても興味深い話が出来ました。これだけで来たかいがあったと思うほどです」
「それは宜しゅうございましたな」
クリスティーヌはそういってニコリとする。よほどそのパンケーキとやらが舌に合ったらしい。クリスティーヌの滞在もあと少し、このまま無事に帰国してもらえれば、降ってわいた重荷も下せるという物。
だが、そんな彼の前でクリスティーヌは俄かに表情を真剣なものに変えた。
「ただ、少し気になる情報も得られました。旧ダルムオンに関することです」
…………
「黒い血を持つ魔獣ですか?」
「そうです。あなたたちは旧ダルムオンを通過するときは傭兵を雇っているのでしたよね。そういった魔獣について何か知っていることはないですか?」
「『黒』という言葉が気になるのです」とクリスティーヌは言った。彼は考え込む。ラウリスの大商人として、骨董品収集に関わっている彼は昔の歴史についての知識もある。
「魔獣については傭兵に対処を一任しておりますので……。我々の商船は奥には入らないように気を付けておりますから」
商人はラウリス ー ダルムオン ー リューゼリオンをつなぐ水路の地図を示した。その経路は今回クリスティーヌがたどったものと同じだ。ここに来るまでは何の問題もなかったと聞いている。
「となると旧ダルムオン猟地の中央から西側に関係するのでしょうか。グンバルドが我々の知らない情報を持っている可能性は十分あります。黒い魔獣がなんなのかはともかく、旧ダルムオンに入り込んでいる可能性を考えなければなりません。仮に彼らが旧ダルムオン都市に旗を立て、管理下に置いたといえば今後の交渉が難しくなります」
クリスティーヌはじっと地図を見る。リューゼリオンからダルムオンを経てグンバルドに向かう川、そこから分かれた支流が旧ダルムオンを通って、再び西へと向かっている。
「た、確かに……」
今回彼女が突然動いたのも、そういったことになる前に手を打つという意味が大きいことは、彼も理解している。どう判断すべきか、彼は考える。
「そういえば、デュースター家から得られた情報では旧ダルムオン跡に魔蜂が巣を作っているとのことです。巨大な巣で周囲はとても近づけぬ状態だと。魔獣には東も西も有りません。いかにグンバルドでも秘かにというのは困難なのではないでしょうか」
「魔蜂の大規模な巣ですか……。なるほど、それならばひとまずは安心でしょうか」
「はい。私としても今後はそれを含めてより詳細な情報収集に……」
彼がそう請け負おうとしたが、クリスティーヌはじっと地図を見ている。
「そうですね、黒い魔獣のことも気になります……」
「殿下?」
「ええ、決めました。帰りは予定を変えて、西の水路を経由してみることにします」
彼女の指したのは、旧ダルムオンの中心近くを流れる川だ。北に旧ダルムオン跡を望むことができる。
「そ、それはあまりに危険では。例の魔蜂の縄張りに近いではございませんか。殿下の御身に何かあっては……」
商人は額の汗を隠さずに止める。彼らにとって彼女を失うことはあまりに大きな打撃だ。ラウリスの王宮と騎士院への最大の伝手を失うことを意味する。
「将来的にグンバルドと交渉するなら、私自身が現地を踏むことは意味を持ちます。もうこんな機会はないかもしれません。魔導艇に乗って通過するだけなら可能でしょう」
仮に交渉の場でグンバルド側が「自分たちは旧ダルムオンのことをこれほど理解している」と切り込んできても、「私も訪れたことがありますが」と返す。それがラウリスの王女となれば効果は大きい。これが外交という交渉だということは彼にも理解できる。
「確かにあの御船ならばそうでございますが……」
相手は文官姫と呼ばれていてもラウリスの王女だ。彼が行動を強制できる人間ではない。商人は必死に頭を回転させる。
「しかし、未知の地でございます。万が一のことがあれば大事ゆえ……。いかがでございましょう。その周囲についてはデュースター家が詳しいのですから、デュースター家に案内役を出していただくというのは」
「それは助かりますね。ですが、今後のことも考えるとデュースター家にばかり借りを作るわけにもいきませんが……」
「御心配には及びません。表に出にくい形に整えて見せまする。これまでのお付き合いがございますゆえ」
商人は請け負った。
#12話 黒い疑惑
騎士団本部の窓から出港準備中の白い船を見る。今日はクリスティーヌがラウリスに帰還する日だ。船には荷物が積み込まれている。動いているエンジンを見ることができなかったのが心残りだ。
船に船が積み込まれるという奇妙な光景を見た。船の横腹にはデュースターの紋がある。俺が首をひねっているとシフィーが本部に来た。
「シフィー。どうした、今日は確か……。マーキス殿も一緒か?」
今日は来る予定じゃなかったシフィー。それにマーキス嬢がここに来るのは珍しい、というか普通じゃないことだ。シフィーの学習が騎士団の活動で妨げられていることに学年代表として文句を言いに来たという口実で駆けつけたらしい。
「ウルビウス・デュースターがラウリスの王女の帰路を護衛することになりました。私の両親も直前まで知らなかったから、多分急に決まったことです」
マーキス嬢がいった。確かに見逃せない動きだ。先程積み込まれていた船はそういうことか。だが、なんのためだ。
深刻な顔のマーキス嬢を伴って俺は団長室へ向かった。
「デュースターがクリスティーヌ殿下の帰路を護衛ですか?」
カインも首をひねる。その時、階段を上がる足音がした。今度はサリアだ。こちらも急いでいる。
「本家の、ダレイオスのパーティーが旧ダルムオンに狩りに向かったことがわかった。すでに出発している」
賓客の帰還日にあえて狩りに出発というのは、ラウリスを無視する意思表示だ。剣呑ではあるが、ダレイオスのこれまでの態度なら有り得る。だが、もしも両家の動きが関連したものだとしたら、それは深刻だ。
「いくらなんでもラウリスの王女を襲ったりしないでしょうが……」
カインの言葉に俺もサリアも首を縦に振った。あの船を持つ都市と戦うなんて無理だ。では、何のためにこのタイミングの行動なのか……。俺たちが黙って考えていると、シフィーがおずおずと手を上げた。
「あの、先生。ここに来る前にあの船の近くを通ったら、いやな感じがしました。ほんの少しですけど。あの演習の時みたいな感じでした」
「本当か?」
俺は工房に駆け込み、魔力測定器を取り出す。窓から船に測定器を向ける。測定器のリングがピクリと震えた。慎重に位置を調整する。リングは動いては止まり、また動くを周期的に繰り返している。まるで合図を送っているようだ。しかも……。
「黒い魔力の反応だ」
反応は白い魔力とは正反対だった。
「ラウリスと、いやクリスティーヌ王女と黒い魔力、関係していたようだな」
サリアが固い声で言った。ラウリスの遺産は黒い魔力に関わっている。その動かぬ証拠だ。
俺は黒い魔獣というこちらの探りに怪訝そうな顔をしていたクリスティーヌを思い出す。あの笑顔にすっかり騙されたのか。だが、なぜここで尻尾を出す。
「ウルビウスを伴ったのも護衛とはもはや思えん。デュースターと黒い魔力がらみで何らかのたくらみがあると考えるのが自然だろう。それにダレイオスの動きもある」
「確かに……」
サリアの言葉に反論はできない。では、どうやって向こうの思惑を調べる?
俺は地図を広げた。クリスティーヌがラウリスに帰還する場合、まず北上する。例の演習場のあった場所の近くで川が東西に分かれる。そこを東へ向かえばラウリスだ。
「ダレイオスはどこに向かったか解りますか?」
「旧ダルムオンの西側のはずだ」
二組の行き先は一致しない。本当ならばだが……。それを確かめるには……俺の目は地図を行き来した。
「クリスティーヌ殿下の今の行動は?」
「城で帰還の挨拶をしているはずだ」
「殿下を足止めできますか。例えば王が運河まで見送るとか。その間にこちらはここ、川の東西の分かれ目まで先行しておく。どうでしょう」
「そうですね。少なくともグリュンダーグとぶつかるかは判断できますね。相手があの船を使える以上、そこら辺が取りえる限界でしょう」
「わかった。陛下に伝えよう」
サリアが本宮に向かう。
俺は運河に浮かぶ白く優美な船体を見た。あの純真そうな姿の奥に、黒い何かを隠し持っていたのだろうか……。