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#10話 パン

「パンについて思い当たることですか。ぜひお聞かせください」


 クリスティーヌは僅かに体を前に倒して聞いてきた。レイラが横で大丈夫かという顔になるが、そんな大げさなことを言うつもりはない、考えれば誰でもわかることだ。


「今のお話を聞く限り、私も重曹はパンには用いられていないと考えます。ですが同時にパンとこの料理には同様の食感がある」

「はい。ですが、材料を比べるとその食感を生んでいるのは重曹では……」

「ええ。つまり、重曹そのものではなく重曹の生み出す効果が重要なのではないでしょうか。何しろ重曹そのものはあまり美味しいものではありません。量を入れると苦みがでます」


 レシピで一番苦労したポイントの一つだ。重曹を入れると柔らかく焼き上がるが、入れすぎると顕著に味が落ちるのだ。入れなくて済むなら入れたくない材料だ。逆に言えばパンケーキをふわふわにするためだけに使われているということに成る。


 その食感を生む効果はなにか。それは今ある二つの料理を比較すれば解る。


「クッキーを用意できるでしょうか。焼きたてである必要はありません」

「わかりました」


 侍女が用意したクッキーとパンケーキを二つに割る。クッキーは両断というわけにはいかないが、きれいに切れた部分を並べる。そして、ポケットに入れていた虫眼鏡で観察する。


「見てください。クッキーの生地は粉が密に詰まっているのに対して、パンケーキには細かい空洞があります。この空洞が柔らかさを生んでいるのではないでしょうか」

「空洞、ですか?」


 クリスティーヌは首をひねる。


「こういうことですね」


 俺はパンケーキをナイフの腹で押す、大きく凹んだ。ナイフをもどすとゆっくりと回復する。


「見てください。殿下の写された絵を見ても空洞があります」


 クリスティーヌの資料にあるパンの絵を指さす。そこにはパンケーキよりもずっと不揃いで大きな空洞が描かれている。


「そして、重曹の効果なのですが。一つ実験……じゃなくて試作をしてみましょう」


 俺はガラスのカップを一つ借りて重曹と黒蜜を注ぐ。それをかき混ぜてから加熱してもらう。黒い蜜の中に無数の気泡が発生した。これは錬金術で言えば重曹という固体が、気体に変ったことにより生じる。


 これをパンケーキに適応すると、生地の中に重曹の素子が散らばり、加熱によりそれが泡に化ける。細かい泡が生地全体に生じるというわけだ。


 もちろん、これは錬金術だから教えない。俺は心配そうなレイラに目配せをする。


「重曹は加熱することによってこのように多くの泡を発生させるのです。その状態で生地が焼き固められた場合……」

「泡が空洞として残り、そしてその空洞があの柔らかさを生む。そういうわけですか」


 クリスティーヌは何度も首をひねりながらも、何とか理解してくれた。


「なんだか料理のお話ではないような……」


 いや、料理の話ですよ。


「と、とにかくですね。同様の効果を重曹を用いずに作り出すことが、パンを再現するために重要なのではないでしょうか」


 俺の言葉にクリスティーヌははっとしたように資料を探し始める。


「パンの生地を作った後に寝かせる過程があります。確か、その間に生地が大きく膨らむという記述がありました。再現できなかったのですが」

「それです。生地が膨らむということは、中で空洞が発生したことを意味するのでは」

「なるほど。そうかもしれません……。ええっと」


 クリスティーヌが別の紙を探しだす。


「この寝かせるという工程は今の時間で六時間とあります。季節によって変わるので、温かい窯に近づけるなどして調整すると」

「なるほど。やはり流儀が違いますね。こちらのレシピは焼くときに同時に空洞を作る。一方、パンは焼く前に時間をかけて空洞を作る。となると、同じ役割を果たす違う材料があるはずです」

「なるほど、ですね。しかしそういうふうに考えたことがなかったから……。そうだ、一つ気になっていたことがあります」

「それは?」

「ええ、ここの記述なのですが。パンの生地を寝かせているときに酒の香りが立つと」

「酒の香りですか」

「はい。そこで上質のワインや蒸留酒を混ぜてみたことがあるのですが。上手くいきませんでした」

「なるほど。いえ、でもそれは興味深いですよ」


 俺の頭脳が回転を始める。


「一つ思いついたのですが。確か旧時代には麦を使って作る酒がありましたよね」

「エールですね。…………そういえばエールには泡立つという記述を見たことがあるような気がします」


 クリスティーヌがはっとした顔になった。エールもパンも麦が原料だ。エールは今はないが……。


「確かワインも発酵を止めないと泡立つはずです」


 これは錬金術の蒸留について調べる時に、ワインを使った蒸留酒の工程を調べた時に聞いた話だ。ちなみにそれをすぎると酢になる。


「つまり酒そのものではなく、酒を作るためのなにかが必要なのです。酒も作る過程で時間をかけますし、その材料は焼く前に働くのですから、熱に弱いはずです。ワインは確か作り終わったら火を入れる」

「つまり、作っている途中のワインが必要だということでしょうか」

「その可能性があります」

「ラウリスにもどったらさっそく試してみます。ワインはあまり作っていませんが、いくつかの酒造はありますから」


 クリスティーヌが目を輝かせて言った。そうして、ペンでいくつものメモを書きとり始める。よし、実証可能な仮説ができたぞ。俺が満足感を感じたとき、隣から視線を感じた。レイラが頭を抱えんばかりになっている。


 いつの間にか机の上は色々なメモが散らばっている。まるで俺が錬金術について調べているときのような有様だ。いや、ちょっと横道にそれすぎたかもしれないが錬金術のことは話していないぞ。


 それに、これは一種のテストでもある。ここまでの会話で確信した。目の前の女性、ラウリスの姫君には錬金術の知識はない。もし錬金術士なら、空洞の話が出た時に比重、つまり体積当たりの重さの変化なんかに着目する。そういった気配はゼロだった。


 彼女はあくまで残された記録を調べて忠実に再現しようとしていたのだ。考え方の根本が錬金術とは違う。


 となると、彼女が黒い魔力や魔導金属、そしてリューゼリオンの結界を傷害しようとした試みとは無関係という可能性が高くなる。


 そもそも、彼女は自らリューゼリオンに乗り込んできた。今も、この前も俺たちに対して危機意識はなかった。ある都市の結界を壊すというのは、お前たちを全滅させるという宣言に他ならない。仮に、自分がやったと解るはずがないと思っていても、ここまで無防備に振舞えるだろうか。


 俺はペンを走らせるクリスティーヌの表情をうかがう。姫君の旧時代の文化への興味は純粋なものだ。それも、見ていたら分かる。その時顔を上げたクリスティーヌと目が合った。彼女の頬に朱が差す。


「申し訳ありません。お招きした相手を放って。レイラさんには退屈な思いをさせてしまったですね」

「いえ。とても緊張……。こちらこそレキウス様が調子に……立場もわきまえずご不快ではないかと、ヒヤヒヤしておりました」

「とんでも有りません。このように多くの考察が得られたのは初めてです。レキウス殿からは古代の叡智のようなものを感じます。可能ならばラウリスにお招きしたいくらいです」


 社交辞令まで飛び出した。思わずエンジン見せてくださいと言ってしまいそうになる。だが、隣のレイラがちょっと怖いのもあって冷静になる。


 ……まずは、一番大事な情報について、間接的に探ろう。ジト目になったレイラにちゃんと見返りを得ることを示さないといけないし。


「お役に立てたのならば何よりです。代わりといってはですが、一つお考えをお聞きしてもよろしいでしょうか」

「私でお答えできる範囲でならば、可能な限りお答えしましょう」

「旧ダルムオンについてです。殿下は旧ダルムオンの地が東西交易の通路であることを期待しておられる」

「はい。それは旧ダルムオンに近いリューゼリオンにも利益になることだと考えています」

「ラウリスが旧ダルムオンを領有する意図はないと」

「はい。そのようなことはグンバルドも、そしてリューゼリオンも認めがたいのではないでしょうか」


 先ほどまでの無邪気さを感じさせる顔ではなく、しっかりと王女の態度だ。


 言ってることもシビアだ。建前上は旧ダルムオンは誰のものでもないが、目と鼻の先にある猟地がむざむざと他国のものになることに平然としてられないだろう。グンバルドもリューゼリオンもだ。特にリューゼリオンは、中央とのつながりをどちらかに抑えられることになる。


「ラウリスは猟地そのものには興味がない。争いの火種になるくらいなら今のままの方がよいと」

「はい。ただ、今のままでは何かあった時にすぐに火種になります。その前に何らかの取り決めを結びたいと考えています。それに……」

「それに?」

「昔のことを調べていたときにある懸念を抱いたのです。グランドギルド時代に拠点ダルムオンが大きな争いの火種になったことがあるのです」

「グランドギルド時代ですか?」

「はい。レキウス殿は『黒の禁忌の乱』についてご存知ですか?」

「……いいえ。その言葉を聞いたこともありません」


 これは本当だ。だが同時に『黒』という単語は気になる。レイラが隣でスカートを握ったのがわかる。だが、クリスティーヌは「そうですか。ダルムオンに近いリューゼリオンならあるいはと思っていましたが。いえ、無理もないことですね」と頷く。


「旧ダルムオンにはグランドギルドにとって極めて貴重な資源があったようなのです。ダルムオンという拠点がそのために築かれたとすら私は考えています。そして、それが元でダルムオンはグランドギルドに反乱を起こしたようなのです」

「グランドギルドに反乱、ですか……」


 俺の脳内で二つが結びついた。グランドギルド時代の反乱は一回だけのはずだ。それは確か白金級の魔導金属鉱山に関係して起こった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 主人公は理系であちらの姫様は文系って感じの違いかな まあ文官なのに錬金術師やってる主人公のがおかしいだけだろうけどw
[一言] うちの錬金術師があちらの文官姫さまの歓心をかってる。 女商人さんが胃痛を覚えていそうですね。 こちらの騎士姫さまが盛大にむくれそうな気がします。
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