#6話:後半 錬金術
錬金術は考え方の基本は論理的だ。まず、根本に素子論というものがある。これは、あらゆる物質は目に見えないほど小さな粒、素子からなるという仮定だ。そして、万物はこの素子の組み合わせで生じている。
素子論のすごいところは世界に無限に存在するとすら思える数限りない様々な物質が、限られた数の基本単位で説明できることだ。
もう一つが素子論に基づいた物質の純化という考え方だ。素子は種類ごとに大きさや重さなど性質が違うはずだ。それを利用すれば純粋に一種類の素子だけを集めることができるというわけだ。
この二つを組み合わせた時、錬金術による金の精製はどうなるか。
金は最も高貴な、つまり純粋な金属である。その証拠に錆びない。純粋な金素子だけからできている。一方、鉄や鉛などの卑賎な金属はさびる。いろいろな素子が混ざった不純な存在というわけだ。ならば鉛から不純な素子を除けば金になるのではないか。
純粋な金を得るためには金素子と不純物の素子を分離する必要がある。その方法については旧時代とは思えない試行錯誤がなされていた。ろ過、蒸留、昇華、結晶化といった一連の実験手法だ。金属は塊のままでは分離できないので、それを水に溶かすための実験も盛んにおこなわれている。
ただ、この時点では書かれていることは文字通り机上の空論ではないかと疑いを捨てきれなかった。詐欺師だって理論武装はする。実際錬金術士は金を作れなかったのだ。
というわけで三冊の錬金術書は処分用の空箱に放り込んでいた。だが、俺はその後偶然にもこの評価をひっくり返すような事実を知ったのだ。
それは文官として平民街、市場に行った時のことだった。晴れて一族より追放され、こいつは文官として扱っていいらしいと理解した上司が命じたことだ。もちろん、大商人の相手などの実入りのいい仕事ではない。
割り当てられたのは小商人の相手だ。言ってみれば、数の多い彼らの陳情を聞いて、それは無理だと切り捨てて恨みを買う役目である。
そこで俺は生まれて初めて職人の工房を見ることになった。元実家にあった贅沢品は、どこかから湧いてくるくらいの認識だった俺は、彼らの技術に驚くことになる。
例えば、高級酒の代表である焼ワインの工房だ。水とアルコールでは温度に対する性質が違い、簡単に言えばアルコールの方が水よりも簡単に熱で蒸発する。醸造した酒を温めることで優先的に蒸発したアルコールを冷やして集める、これが焼ワインの作り方だ。これは錬金術で言う蒸留によるアルコールの分離と解釈できるではないか。
それだけではなかった。俺はレイラの染料工房で錬金術そのままと思えるような操作を見ることになった。そこでは、乾燥させた赤い花を酢で処理した後、焼いた貝殻の粉末を溶かした水に晒すことで赤い染料を作り出していた。
職人たちは長年の経験で行っていた工程だ。だが、それは錬金術で言うところの酢と灰による中和処理にあまりに似ていた。物を溶かす水の性質は純粋な水を中心に、二方向性があり、酢と灰から加わる素子のバランスによって決まる。
錬金術は金を作れなかった。だが、その過程で得られた知識と技術の体系には意味が在るのではないかという考えが浮かんだ。
それが二年前。文官になって一年たった時期だった。
ちょうどそのころ、職人街の染料工房はそろって色の陰りに悩んでいた。衣服を染めるというのは贅沢だ。騎士が身に着けるような白布は、絹蜘蛛の糸だからなおさらだ。となると色の質の安定は大問題になる。特に赤、青、緑は服に刻む家紋を染めるので重視される。
職人たちは「水の味が何かおかしい」という。井戸を管理する部署は「ちゃんと飲めるだろう」としか言わない。
俺は井戸水に何か不純物が混ざり、水のバランスが崩れたのではないかと考えた。そして知り合ったばかりのレイラに思いつくまましゃべったのだ。
意味不明の言葉を口走る俺に、レイラは具体的にはどうするのかと聞いてきた。そういえばあの頃から彼女は実質的な意味のあることにしか興味がなかった。
そのころの俺には何の手もなかった。だが、市場を歩いていて一つの果実を見た時、ふと思いついたのだ。それは、元実家で何度も食べた好物。ファノレの実だった。
ファノレの実は濃厚な甘さの高級果実だ。魔の森の果実は多くが一年に数回実をつけるのに対し、ファノレは数年に一度しか実らない。その上、食べごろの難しさが有名だ。
この果実は熟成の過程で青、緑、黄、赤と色を変えていく。青の時は青臭く舌に障る雑味があり、赤まで行くと酸っぱすぎて食べれない。短い黄色の時が得も言われぬ甘さなのだ。
思いついた『仮説』はファノレの実に水のバランスに反応して色を変える成分が含まれているのではないかというものだ。
熟しすぎて価値を失った赤いファノレの実を入手。それを絞った赤い果汁に貝殻の粉を溶かした水を混ぜた。すると赤色だった果汁は黄、青と変わったのだ。逆に、青くなった果汁に酢を入れると、果汁は黄、赤と変化していった。
生まれて初めての錬金術の実験成功だ。魔術でもなんでもない、ただの物の示す仕組みの精巧さに俺は目を見張った。
いい気になった俺は、黄色になった果汁を舌に乗せた。とてもすっぱかった。
だが、そこでさらに思いついた。錬金術の流儀に従えば甘さの成分と、水の性質のバランスにより色を変える成分は別のものだということになる。
ならば、この不思議な色素を精製、つまり純粋に取り出してやろうというわけだ。
これは苦労した。市場を飛び回って、赤くなったファノレの実を沢山入手し、果汁を延々と絞って乾燥させた、わずかな赤い粉末から始めた。
その粉末をいろいろな条件で蒸留したり、塩や酢などを混ぜて沈殿させてみたり。延々とそんなことを繰り返した結果得たのが黄色い結晶だった。
この結晶を溶かした水は、酢や灰水の濃度に応じて見事に色を変えた。果汁よりもはるかに鋭敏に、少量ではっきりとした反応をしたのだ。
その黄色い結晶(ファノシアニンと名付けた)を持ってレイラを訪ねた俺は、井戸水の性質を測って見せたわけだ。彼女はそれを使っていち早く安定した色を取り戻し、染料商として評判を得た。
レイラとの協力関係、錬金術士としての副業のはじまりというわけだ。
この出来事は俺にとっては衝撃だった。まず、何も成せないと思っていた自分にもできることがあるということ。そして何より、自分の手で世界の秘密の一つを解き明かし、利用する。大げさに言えば、世界の一部を掌の上に転がしたような感覚だ。
もっとも城の連中には決して言えない。騎士たちから見たら旧時代の、あるいは職人の真似事だ。文官に落ちただけでは飽き足らず、平民にまで落ちぶれたと言われるだろう。元妹に知られようものなら、恥の上塗りといわれるに違いない。
まあ、確かに社会にとって狩猟は一番重要で、そのための魔術は特別だ。客観的に評価すれば魔術は職人技術よりもずっと洗練され、強力で、重要だ。選ばれしものしか使えない特別な力だ。
錬金術が魔術に通用するとは思えない。何しろこれが生み出された時代には、魔術はもちろん魔力もなかったはずだからだ。そう思っていた、ついさっきまでは……。
俺は懐からシフィーに貰った魔力触媒を付けた短冊を取り出した。
もしも、もしもだ。このわずかに濁った青い液体も、果実や染料と同じく、素子で出来ているなら、そう仮説を立てることが許されるなら……。
「ちょっと試してみるくらいいだろ」
誰もいない部屋でそうつぶやくと、次の実験の用意をする。染色工房の副業がらみで調べていた時に見つけた実験手法だ。色の付いた物質をその性質によって分離する方法。テキストの言葉で言う『色素分離』だ。
2019年9月1日:
読んでいただきありがとうございます。
本日の投稿で一章の約三分の一、序盤が終わったことになります。
いかがだったでしょうか。