#9話 魔導艇
運河に浮かぶ白銀の船体。動く遺産の姿を俺は見上げた。
リューゼリオンの木船と比べて長さはそこまで変らないが高さが違う。運河の近くに立つ家と比較する。低い水路に浮かんでいるのに二階建ての家くらいの高さがある。しかもその上に更に家のような構造がある。優美な形状に見えて、実際はかなりの容量だぞ。
そして、その重さを動かす帆も櫂もない。白い魔力が測定された船尾に遺産があるのは間違いないだろうが、外からは見えない。エンジンというのがどんな仕組みで動いているのか全く予想がつかない。
いや、見とれてばかりはいられないぞ。ラウリスの姫君は旧時代の様に交易を盛んにすれば全員が豊かになると語ったらしいが、この一艘が周囲の川に置かれるだけで、リューゼリオンは猟地からの食料の流れの多くを切られかねない。
やはり、この船の性能の把握は重要だ。できれば弱点なんかも知っておきたい。そうだな、それにはやはりエンジンという遺産をしっかりと見たいな。一体どんな仕組みで魔力を……。
俺が船のお尻の方に向かって歩いていこうとすると、後ろから背中を摘ままれた。
はっと振り向くと、茶色の髪を後ろにまとめ上げた女性が首を振っている。パンケーキの材料を入れた籠を持ったレイラだ。彼女は視線で俺に合図する。
船の上から階段のようなものが降ろされ、白いドレスの若い女性が下りてくる。危ない危ない、俺は文官だ。わかるわけがない魔術遺産に興味津々なんてことはあるわけがないのだ。
白い船体に似合う優美なほほえみを浮かべるクリスティーヌ。わざわざ船外までお出迎えとは恐れ入る限りだ。リーディアやカインがああいう性格だからマヒしそうになるが、破格の……。
「クリスティーヌ殿下。文官如きに過剰に配慮を与えれば調子づきますぞ。この者は騎士の家に生まれながらも脱落した……」
過分な扱いと思ったのは俺だけではないらしい。クリスティーヌの横にいた若い騎士が罵り声を上げる。アントニウスの弟ウルビウスだ。そういえば騎士院での会談の際も護衛よろしくいたらしいな。
デュースターとラウリスの結びつきを誇示しているのだろう。だが、黒い魔獣のせいで面目を失ったウルビウスがその黒幕と思しき人物と並んでいるということでもある。
「まあ、私と似ていますわ」
クリスティーヌの一言でよどんだような空気が晴れた。ウルビウスは一瞬あっけにとられたが「忠告は致しましたぞ」といって離れていく、彼の後ろに灰色の痩せた男が従っている。もしかして、城から容器を持ち出した文官だろうか。
「では、ラウリスの魔導艇へようこそ」
クリスティーヌは俺たちを中へといざなう。俺は左手の人差し指、中指、薬指に嵌めた指輪を確認して階段を上る。籠をぎゅっと抱えもったレイラが後に続く。
上に上がると甲板は広く、後部の家のような構造の入り口にラウリスの紋章がある。クリスティーヌは「まずはこちらからですね」と甲板から下に降りる階段を示した。
階段を降りる。呆れたことに船内は更に二層にわかれているようだ。つまり、ここは二階なのか、混乱する。白い部屋が並ぶ。
「船員の部屋ですが、今回は殆どの部屋を荷の為に使っています」
彼女の指示で侍女がドアを開く。中にはぎっしりと荷物が詰まっている。ここだけでかなりの輸送能力だ。しかも、長期の滞在を想定したつくりということだ。朝出かけて夕方には帰ってくるのが基本の木船とは全く違う。
「下は船倉となっております」
さらに下に向かう階段の前でクリスティーヌは言った。下に降りると、樽や木箱が並ぶスペースだ。二階と違って細かく区分けはされていないようだ。当然大量の物資が収納できる。ここはもう水の下だろうか、反射的に船尾の方に視線が向く。そこは壁に遮られている。
「いかがでしょうか」
「一見細長く見える船体の中にかくも大きな空間があることに驚きました。交易用ではないということなのに、これほどの荷を収められるとは……」
もしかして一か月くらいはリューゼリオン封鎖が可能なのではないか、そういう恐怖を隠して称賛した。
「実は連盟の中でもラウリスにしかない。大型船です。太湖の巡回はもっと小さな魔導艇で行われています」
「魔力結晶を使うので」と付け加える。
物資や人員を多く積める中心となる船と、小回りの利く小型船の組み合わせか。旧時代の記録にあった艦隊じゃないか。怖い怖い。
「例え数が限られていても、これほどの輸送能力、驚き以外の何物でもありません。いやはや……いったいどうやって動いているのでしょう?」
俺はきょろきょろと周囲を見渡し、なるべく自然に聞こえるように言った。多少声が上ずっていたかもしれない。
「この船の動力、エンジンは船尾に在ります。船楼からしか行けない構造になっているのです。そうですね。……そういえばレキウス殿は騎士の家の出とか、都市の結界器を見たことがありますか?」
「はい。幼少時に一度。後は右筆としてリーディア様について何度か……」
「そうですか。結界器を小さくしたものに似ていると思います……。つまり、現在の私たちには理解不可能な三色の魔術ということですね」
見せてくれないようだ。ただ、何とかこたえようという誠意のようなものが感じられる。文官として甘く見られているだけかもしれないが。俺にとっては今のだけでも結構重要な情報だ。
こちらが差し出す情報との釣り合いを考えると、そろそろ引くべきだろう。少なくとも一旦は……。
「ありがとうございます。それでは、こちらのレシピの説明に移りたいと思います」
俺はレイラを振り返った。レイラは一礼すると「どなた様にお伝えすればよろしいでしょうか」と尋ねる。クリスティーヌが花のような笑みを浮かべた。
「上に私が同行させた料理人がいますからそこでお願いします。もちろん、私も一緒に見せていただきますわ」
俺たちは甲板に上がり、船楼に入る。そこはやはりクリスティーヌの部屋のようだ。さすがに広さはないが、ベッドまでしつらえてある。そして驚くことに、横には簡単な竈まである。
厨房には灰色の服の女性が待っていた。レイラはその前に材料を並べていく。クリスティーヌはペンと紙を取り出して、笑顔で促す。
「で、では、まずはこちらの材料ですが麦を石臼で粉にしたものです。そちらでもクッキーに使われているようですから、同じものかと」
レイラが緊張の面持ちで説明を始める。
「待ってください。ずいぶん白いですね」
クリスティーヌは麦の種類から、挽方まで細かく聞いてくる。料理人顔負けだ。
……
説明を終え、ラウリスの料理人が調理したパンケーキを前に俺とレイラはお茶をいただいている。ラウリスの料理人はあっという間にレシピを理解した。クッキーは竈の上に鉄の容器を被せて焼くらしい。要するにオーブンだ。それに比べてパンケーキは目の前で焼き加減を見ながら調理できる。
俺たちが着いているテーブルも四方に浮彫が配され、品の良い刺繍のクロスが敷いてある。レイラはその色にちらちらと視線をやっている。鮮やかな紫の染料が目立つ。とはいえ魔力触媒ではないようだ。
騎士は白地と三色の模様を貴ぶ。このように他の色を用いてるのは珍しい。
「貝から取れる染料です。ラウリスは太湖に面していますから。こちらの黄色は西方の高地の花から取れるようです」
レイラの視線に気が付いたのかクリスティーヌが説明する。
「なるほど、各地の産物を合わせればこういった多彩な絵も描けるということでしょうか」
恐縮して固まってしまったレイラに代わって俺が答える。テーブルクロス一つとっても政策意図がある。
「はい。ですが、そのように一瞬で理解していただける方は少ないですよ」
クリスティーヌは嬉しそうにほほ笑む。だが、すぐに表情を真面目なものに戻す。
「味から予想してはいましたが、基本的な材料はクッキーとほとんど共通ですね……」
メモを見ながらクリスティーヌは顎に手を当てた。
「となると、この柔らかい口当たりを生むのは重曹というあの粉ですね。ラウリスでも入手できるものでしょうか?」
クリスティーヌの質問にレイラがちらっとこちらを見る。俺は頷いた。
「は、はい。ラウリスの染料工房でも赤い木の根を原料にしたものがあるのならば、その工程で普通に用いられているかと思います」
レイラは刺繍の赤い糸を指さして言った。
「染料に用いられる材料が……、これは意外でした。すぐに確認しないと」
クリスティーヌは侍女に自分が書いたメモを渡した。
「殿下がご興味をお持ちのパンの為に、お役に立てたでしょうか?」
「もちろん、この料理そのものはとても興味深いです。ですが作り方を見ると私が調べたパンの記述とは違うところも多いようです。記述ではパンは窯で焼くものとなっています。それに、生地の材料は似ていてもパンの生地はあの様に水気の多いものではないように思います」
なるほど。俺は一緒に見せてもらったクッキーの生地や鉄の窯を思い出す。
「やはりラウリスにとってパンは重要なのでしょうか?」
「食料確保という観点から言えばそうではありません」
クリスティーヌは政治家の顔になる。
「旧時代と違って現在は麦を栽培することに適した状態ではないと思います。仮にパンを再現できたとしても、現在の食料事情が狩りや採取される産物ということは変わらないでしょう。古代のレシピは今のところ私の個人的な興味ということになっています」
「なるほど。私も草の実をわざわざ人の手で植えると知ったときは何と効率の悪いことをと思ったものです」
「ただ、旧時代の食事の中心であるパンがどのようなものか知ることは、旧時代の文化を理解する上で重要だと考えています」
「そうですね。旧時代は税が麦で支払われていたようですからね」
「そうなのです。やはりレキウス殿はお詳しいようですね」
何気なく言った言葉にクリスティーヌの目が光った。横でレイラが不安そうな目で俺をちらっと見る。
「いえ。とても殿下ほどは。何しろ小さな都市ですので調べられる資料も限られていて」
口を濁す。麦の粉のレシピが外交上の武器になりそうなので、例の食通貴族の日記は再チェックしている。他にもパイとかタルトとかいろいろとレシピがあるのだ。
「そうですか……。ちなみにこちらは私が調べたものなのですが……」
クリスティーヌは棚から紙の束を取り出す。筆跡から直筆だとわかる。様々な古い記録から書き写したもののようだ。すべてパンにかかわると思われる。とても細かい上に、年代などで整理されている。写し取られたらしいパンの絵まである。
同じようなことをしたことがある俺は彼女が熱心に研究していることが分かる。
「とはいえ、このように昔のことを調べている方とお話しするのはとても楽しいですね。正直申し上げてリューゼリオンでこのような経験ができるとは思ってもいませんでした」
「これだけでも来たかいがあります」と微笑む。交易はともかく旧時代の文化については理解者が少ないということだろうか。その気持ちはよくわかる。
「少し思い当たることがあります」
……パンについては一つ仮説がある。俺は彼女が模写したらしいパンの断面を横目に口を開いた。レイラがはっきりと心配な顔を俺に向けたのが分かった。
大丈夫だ、パンのことしか話すつもりはないからな。