#6話:前半 錬金術
一階の実習室に入る。中には癖のある白髪の少女が一人居残りしている。
作業する少女の小さな背中を見守る。青い粉末を入れた小瓶に透明な液体を慎重に注いでいるところだ。魔力触媒の調整だ。青い粉末は魔獣の心臓血の上澄みを乾燥させたもの。透明な液体はエーテルと呼ばれる。
エーテルに溶けた粉末により青く色づいた液体ができる。調整されたての青の触媒だ。卵型の瓶の中で揺れる液体は淡い光を帯びている。……ちょっとおかしいな。
「シフィー。調子はどうだい」
「レキウス先生。びっくりしました」
シフィーの手が止まったところで声をかけた。
「ごめんごめん。集中してるみたいだったから。えっと、ちょっとそれ見せてもらえるかな」
「触媒ですか? はい。どうぞ」
俺はシフィーから受け取った瓶を見る。均一に溶けた青い液体。まずその色合いは浅い。下級の魔獣からとられた練習用の触媒だろう。
触媒の質は色の深さと透明度で大体わかる。いい触媒は色が深く澄んでいるというちょっとわかりにくい性質を併せ持つのだ。ピッタリ合った触媒さえあれば魔性が目覚めるんじゃないかって、さんざん調べたからすっかり目が肥えてしまった。
実家の力を最大限に使えていたあの頃はそれができた……。
その俺の審美眼から見て、この触媒は下級の中でもさらに下級の魔獣の心血が原料だ。これ自体はおかしいとまでは言えない。
本当に初期の練習用。それも平民出身者となれば、よい触媒が回されるわけがない。だが、色はともかく透かして見た時に曇って見えるのは……。
「もしかしてだけど、古い触媒を使ってるってことはない?」
「いえ、支給されたばかりです……」
シフィーはフルフルと首を振る。確かこの前会った時、彼女は新しい触媒の支給を受けるといっていたな。
俺は学生に支給される触媒の流れを思い浮かべる。ミスあるいはさらに深刻な理由で、破棄されるはずの劣化した触媒が渡された可能性がある。もしそうなら最悪だ。ただでさえ苦戦してるのに劣化した触媒をあてがわれたら練習の効率は大きく落ちる。彼女の努力を台無しにすることになる。
「レキウス先生。あの、私何か間違ってたでしょうか」
シフィーがちょっと怯えた顔になっている。俺は慌てて首を振る。
「いや、さっきの手順はむしろしっかりしてたよ。溶け残りとか全然ないし。ただ……。えっと、ちょっと待って、考えるから」
俺の今の判断はあくまで目によるもの。判断に自信はあるが、騎士の流儀とは違う。騎士なら触媒の質は魔力の感覚でとらえる。魔性がない俺が何を言ったところで学務課が動くはずがない。
シフィーが言えばどうか。彼女は落ちこぼれだ。むしろ、だからこそこういうものを押し付けられた可能性もある。文官のアドバイスに従って、魔力の色が決まってない見習の見習が……。状況が悪化する。
しかし、このままじゃ……。俺は瓶を見る。
いやまてよ色か……。俺はレイラの依頼と、自分のカバンの中身を思い出した。そして、じっと触媒を見る。
俺はさっき、かすかな色の違いに違和感を持った。そうだ、色がついているのならもしかしたら……。
待て、いくら何でも飛躍が過ぎるだろう。これは魔力にかかわる物質だぞ、特別なんだ……。
だが魔力はともかく、魔力触媒に関してはちゃんと目に見えるし、指で触れる。紙にしみ込んで色を付けるという意味では、染料と同じだ……。
もしも、もしもだ。魔力触媒も、素子でできていると仮定することができるのなら……。
可能性は高くはない。何しろ素子論が考えられていた時代に、魔術はないのだ。だが、ゼロではない。仮に錬金術のあの実験をすると想定するぞ。
必要なのはなんだ。溶媒、溶質……サンプルをどうやって操作する……。俺は頭の中で実験手順を想像する。
「レキウス先生。もしかしてお疲れですか。私は大丈夫ですから」
考えに沈んでいた俺を、気弱な声が引き戻した。気が付くと心配そうに俺を見上げるシフィーの顔が近くにあった。しまった、悪い癖がでたか。途中から完全に自分の興味に引っ張られていた。
「いや、ちょっと考えこんじゃってね」
どうする。俺はいまリーディアの仕事がある。だが、これに関しては明日カインから話を聞くことが決まっている。なにより、今夜はレイラの副業がある。
「えっと、その触媒だけどさ。ここに一滴だけもらえないかな」
メモの為に持っている紙の端を短冊様に切った。そして、その端を指さす。
シフィーは「わかりました」といって触媒用のペン、魔獣の羽根の先を削った制式の物だ、を取り出す。瓶を開き、一滴を紙の上に垂らしてくれた。触媒はインクの様に一瞬で紙に吸い取られ、青い点を作った。
俺は木箱から今日入手したばかりの空のガラス瓶を取り出す。
「あとはここにエーテルも。少しだけでいいから。そうだな三分の一くらいで」
滑らかな透明な液体が瓶に注がれた。よし、これでいい。レイラの依頼のついでにちょっとだけやってみよう。
◇ ◇ ◇
騎士街の外れにある石造りの官舎。その中の小さな部屋で俺は机の前に立っていた。机の上に広げられた布を取る。ランプの光の下、並んだガラス器具が姿を現す。
太さと高さが綺麗にそろった細長い瓶。それらを立てる木のケージ。ケージは背後を白く塗り、色がわかりやすいようにしている。その横の硝子の水差し。サンプルをすりつぶすためのすり鉢。水を蒸留するための小さなビンの組み合わせもある。
木箱を開き、今日手に入れたばかりの細いガラス管を並べる。これで微量の液体を扱う実験がますますはかどるだろう。
『テキスト』に書かれた工房の絵と見比べる。だいぶそろってきたじゃないか。まあ、大昔の絵には鍛冶屋顔負けの炉や水車という大きな設備。実験器具の種類も比べ物にならないが。まあ、俺の経済力じゃ頑張ってる方だ。
さて、副業を始めるか。
レイラから預かった三種類の水を細長い瓶に注ぐ。彼女が取引している工房が使う複数の井戸の水だ。今回の実験のサンプルだ。
机の後ろの棚から遮光された小瓶を取り出し、蓋を開ける。自分で小さく削った木の匙で小皿に黄色い結晶をひとかけら取り出す。蒸留した水に入れる。黄色い液体が出来上がった。これが試薬ということになる。
うん、色は問題ないな。レイラからもらったファノレの実は後で処理しよう。
黄色に色づいた試薬を細いガラス管で吸い上げる。そして、三本のガラス瓶に移した井戸水に一滴づつ加える。試験管を振ると三本は青と赤に分かれた。俺は慎重に色を比較して、試験管ごとに数字を書き込む。
同じことをもう一度繰り返す。うん、新しい器具のおかげかいつもよりも結果が安定してるな。
満足してうなずいた俺は、井戸の水がどちらにどれくらいズレたかを書き込む。前回の記録を開き、変化の度合いも付記する。よし、これでレイラの依頼は完了だ。
これは水の性質を分析するための実験だ。飲んでも差が解らない水でも、実はわずかに酸っぱさに違いがあるのだ。そしてそれは染料の色にも関わる。
これが俺の副業。この知識の源は錬金術という旧時代の記録だ。
錬金術という怪しさ極まりない知識の存在を知ったのは文官落ちしてすぐのことだ。元名門御曹司という面倒極まりない部下。上司が仕事としてひねり出したのは昔の書物の目録作りだった。
書庫を拡張するために邪魔になった昔の遺物だ。「邪魔物の片付けは邪魔者にやらせればいい」陰でそう言われていたのは知っていた。
だが、道を見失っていた俺にとってそれはある意味打って付けだった。
上司の「どれだけ時間がかかってもいいからしっかりやってくれたまえ」という言葉に従い地下室を仕事場として引っ込むと、ただ時間を紛らわすに最適の仕事が始まった。
といっても、何でもいいから価値のあるものを一つは見つけてやろう程度の、小さな意地くらいはあったと思う。
大昔の巻物の山。遺跡には金銀など狩りや採取では得にくい資源が残っていることから、地図は価値があるから除かれていた。混じっていたグランドギルド時代の魔術関係の書などは、魔術院に引き取られている。
結局、俺の前に残っていたのは残骸。旧時代、この土地にあったミューゼリスという都市に住んでいた貴族達の日記のようなものだ。旧時代の社会システムや法などの様子を断片的に伝える記述は純粋に興味深くはあった。
だが、リューゼリオンとは社会の構造も経済の成り立ちも違いすぎる。到底役に立つとは思えない情報ばかりだった。
ちなみに騎士にとって旧時代、特に貴族は軽蔑の対象だ。暗黒期の負の集団記憶が残っている。商人軽視も獲物を買い叩かれたからではないかと俺は思っている。
古の記録を読む俺の目を引いたのが『錬金術』と呼ばれる怪しい知識体系について書かれたものだ。最初にその三巻の巻物を調べた時は、これは破棄する第一候補だと思ったものだ。
何しろ鉛や鉄といったありふれた金属を、旧時代のもっとも価値のある金属である黄金に変えることを謳っていたのだ。さらに不老長寿の霊薬や人造生命など、いかに迷信の旧時代とは言えあんまりな目的が並ぶ。
詐欺にしてももうちょっと考えろと言いたくなる。
案の定、錬金術の評価は当時ですらボロボロだ。錬金術士は貴族の富を狙った詐欺師か、変わり者の変人貴族の道楽と決まっていた。そういった詐欺に引っかかって全財産を失った貴族の嘆きが日記に書かれているのだ。
そもそも現代では最も価値のある金属は黄金ではない。狩猟器に用いられる魔導金属だ。時代の進歩によりもっとも高貴で純粋な金属である黄金、という看板すら崩れたのではどうにもならないではないか。
ただ、それらの記述の中に引かれるものがあるのも確かだった。錬金術は考え方の基本はなかなか論理的だったのだ。その一つが素子論だ。