#プロローグ 禁忌の味
彼女は白いワンピースをまとった細い身体を広い机に向けていた。天板にかかる金色の長髪は乱れなく、天井の白いシャンデリアの光に輝く。
白い紙に書かれた文字を前に、細い顎に小指を当てて物憂げに考え込む姿は、一種幻想的な雰囲気だ。
彼女の机の両側に積まれた書類の山と、その目が注がれているのが細かな数字の並んだ決算書でなければだが。
真剣というには少し余裕のある瞳で、彼女は読み終えた書類にペンを走らせた。優美な筆跡にごまかされなければ、仕事のペースが極めて早いことに気がつくだろう。
やがてその手がペンを置いた。水竜が刻まれた水晶の文鎮が残った書類の上に置かれた。音もなく立ち上がった彼女は「本日はここまでにしますね」と言うと、頭を垂れる灰色の補佐官達の横を通る。もし、彼らの表情を見ることができれば、安堵の感情を読み取れるだろう。
文官姫のペースで進められては下の者がついていけないのだ。
クリスティーヌ。王の末娘である十八歳。東の都市連合の盟主であり水運の拠点であるラウリスの、巨大化する官僚業務の、まさにその最も複雑な部分を担う。文官姫という通称は、もともとは騎士としての魔力が小さいことを揶揄していたものだが、今は別の意味である。少なくとも騎士ではない者たちにとっては。
「私は例の部屋にいます。特別な用事がない限り取り次がないようにしてくださいね。あとは……例の試作品を届けるようにいってね」
クリスティーヌは侍女にそう言うと部屋を出た。そして執務室の隣にある大きな扉をくぐった。
本宮の中でもひときわ天井の高い大部屋、円柱の柱が支えるそこには図書館と呼ばれている。大量の書物が収められている大きな本棚の間を通り、何冊かの書籍を手に取る。追いついてきた侍女から、試作品の皿を受け取ると、若い姫君は奥の小さな扉を開けた。
小さいが綺麗に清掃された部屋の中には、先程の部屋よりも濃密な紙の香りがしていた。図書館の書物が綴じられたものであるのに対し、ここには巻物の形を取るものが含まれ、紙の変色からそれらは綴じられたものより古いと解る。
小さな椅子に彼女は座った。目の前には小さな机。執務室と違い天板の上に乱れがある。例えば、机の上には書物が互い違いに重なっていて、巻物は斜めに転がっている。彼女が開いたノートには、走り書きが多数見られる。その筆跡は執務室のものより自由奔放だ。といっても、他人が見ても文字は読める程度には整っている。
その内容はともかくとして……。
ここで彼女が調べているのは古の記録だ。グランドギルド時代、そして旧時代の社会の仕組みだ。現在よりも遥かに広域の“国家”が成立していた時代の人間の営み。それは、拡大するラウリスの今後を考えると重要だというのが彼女の考えだ。
いわば仕事の延長なわけだが、ページを捲り興味深い記述に出会うたびに、一度目を閉じて古の人の営みに想像を働かせるその姿は先程よりも楽しそうだった。
「またこの意匠が出てきましたか」
クリスティーヌは顎に親指を当てて考え込む。資料番号と共にノートに写し取ったのは、五つの円からなる図形だ。十字に並んだ四つの円の単純なもの。変色した紙の上でわからないが、おそらく色がついていたのではないかと推測される。
魔力の少ない彼女にとって、グランドギルドの魔術理論、それも断片しか残っていない、は興味の対象外だ。だが、これらの特徴的な意匠はその書物の年代を特定したり、あるいは書き手がどの学閥に属していたのかを知る上でヒントになるのだ。
グランドギルドの統治システムは魔法院を中心に構成されており、そこには考え方の異なるいくつかの学閥が競い合っていたのだ。
「無理やり訳すなら『標準模型』でしょうか……。確か、こちらも同じものがありましたね」
彼女は立ち上がり、別の書物を取り出した。散逸した古文書を無理やりつなぎ合わせたものだ。実際、先程の模様とは上下が反転している。書物に付加した発掘場所の説明には、地下室に置かれていたとある。
「やはり。正典と禁忌に同じ形が出てくるのは、やはり重要ということでしょう」
正典とは現在魔術基礎として伝わっている書物に連なるもの、グランドギルド時代の正統学派によるものだ。禁忌は、そこから排斥されたものだと考えられる。とはいえ、どちらもグランドギルド時代のそれも最高峰の知識であり、大きくとも末端であることは変わらないラウリスには断片しか残らない。それも、グランドギルド滅亡後、ラウリスにたどり着いた数少ない生き残りの残した記録や、ラウリス連盟に属する多くの都市から集めた断片をつなぎ合わせた推測だ。
それでも彼女が興味を持つのは、禁忌の研究がグランドギルド時代の唯一の拠点反乱、黒の禁忌の乱に関係しているとされるからだ。
「おそらく真ん中の三つが赤、青、緑なのだと思いますけど。……まあいいわ。魔術自体に私がこれ以上踏み込むのは無意味でしょう。こちらはここまでにしましょう。ええっと、次は……。そうでした。麦の栽培についてでしたね」
クリスティーヌは本にしおりを挟むと、棚からより古い巻物を取り出した。それは旧時代、魔術すら存在しない時代のものだ。人口の大半が地面に植物を植えるという過酷な労働を強いられていた時代だ。だが、彼女の目にはその管理システムに一種の洗練が見える。
「やはり、広域的な統治を考えた時、旧時代の制度には一種の合理性がありますね。いつの時代も人の集団の営みは似てくるものなのね」
そう言いながら、右手が置かれた皿に伸びた。彼女が命じた試作品が乗っている。小さな褐色の円盤状のものだ。彼女が調査の一環で古の記述をもとに再現させたものだ。
慎重に指でつまみ、そして顔の前に近づける。はしたないと思いながら匂いをかぐと、香ばしい香りが鼻をくすぐる。我慢できずに指が下がる。サクッと言う音がして、果実や肉とは違う舌触りが口腔に広がった。
砂を噛んだようなそれは違和感がある。だが、それが舌の上で優しく解けていく。
「なるほど……これなら。ふふっ、まさか麦がこの様に美味しく食べられるなんて」
現在では庶民すら口にすることをはばかる労役者の配給食料、王族にとっては禁忌の味に、王女の頬がつい緩んだ。
手についた乳椰子の油を丁寧にハンカチで拭うと、ページを捲っていく。その指が止まった。この書物の著者である高位文官が、主君の趣味の浪費を嘆く下りだ。
「錬金術。ああ、あの詐欺ですか……。これもいつの時代もですね。どうしてメモを残して……」
そう言いながら記述を追う。ある単語にぶつかったところで灰色の瞳が納得の色を帯びた。
「そうでした。ホムンクルス。この言葉はグランドギルドの禁忌に出てくるのと同じです。旧時代とグランドギルドのつながりを示すヒントかと思ったのでしたね」
旧時代のホムンクルスは錬金術の用語だ。意味は純粋な生命の創造。万能の霊薬に通じると言われる黄金よりも眉唾な目標だ。つまり、完全なる戯言。いつの時代も権力者というものは不老長寿を望むのでわからなくもないが。
グランドギルドの魔術学者たちが同じ言葉を使ったのは理解に苦しむが、おそらく皮肉が込められている。魔法院においてホムンクルスはグランド・リドルの一つなのだ。
『グランド・リドル』
それはいわば魔術のおとぎ話だ。現在よりも遥かに進んだグランドギルドの魔法院すら、未解決問題とした三つの問題を示す。その中でも、ホムンクルスは禁忌につながるものであり、研究を禁止されていた曰く付きのものだ。
当然だが、グランドリドルの記述は殆どない。ある意味存在しないものなのだから当然だ。「ホムンクルス」に至っては、黒の禁忌の乱に関わっているため意識的に記述が避けられている気配すらある。
「純粋な生命を作るなどという戯言はともかく、商業活動のため黄金を求める気持ちはわかります。ですが、それで貴重な金を浪費したのでは統治者として失格ですけれど」
そう言って彼女は巻物を閉じた。気分を変えるため、手が再びクッキーに伸びた時、皿の下にメモが挟まっていることに気がついた。開くと、簡易の地図にいくつかの印がついている。矢印の先は大陸中央の都市だ。
「そうでした、そろそろこちらの予定を詰めないといけないのでした。魔導艇の事件に絡むといえば、事後通告でいいでしょう。騎士院の押し付けるお見合いなんて御免ですものね。とはいえ、こちらに寄るのは流石に難しいでしょうけれど」
彼女は地図の中央、ばつ印で消された都市国家の名前を見る。ダルムオン。それは、グランドギルド時代、黒の禁忌の乱が起こったと言われる拠点だ。皮肉にも現在においても再び滅んだ。
「まあ、詳細は向こうについてから考えましょう。大陸の中央にはこちらにはない記録などもあるかもしれません……。これも、もっと美味しくできるかもしれませんね」
美しい姫君はいたずらっぽく笑うと、最後のクッキーを口にした。遠い西の地へ思いを馳せる彼女の表情は好奇心に満ちていた。
2020/01/26:
第四章のプロローグを先行投稿という形になります。
1話の投稿は2/1(土)からの予定です。
よろしくおねがいします。