#3話 黒の触媒Ⅰ
リーディアはサリアの家で王女様に戻る。旧実家の前を早々に離れ、俺は城に向かった。
例の黒猿の血液の触媒成分を分析しなければならない。実験は家でやるが、錬金術のテキストを確認しておきたいのだ。何しろ未知の成分である、クロマトグラフィーが通じるかわからない。
◇ ◇ ◇
文書保管庫の扉をくぐった俺はそのまま地下室という名の仕事部屋に向かう。だが、不意に書類棚から出てきた白い服の少女に進路を塞がれた。短めの金髪の少女は、つい先日共に戦った一年生だ。
「あ、ああ、マーキスさん。回復したようでよかった。シフィーのことでは助かったよ」
シフィーほどではないが、彼女もボス猿との戦いでダメージを受けていた。演習から戻って家で休んでいると聞いていた。今もちょっと足をかばっている様に見える。
「私は一年生の学年代表ですから当然のことです。……それを言うのなら文官のくせ、……戦う力もないのに魔獣の前に立ったあなたのほうが……」
「君に強いのを押し付けて、挙げ句に周りが見えてなくて庇われたけどね」
あのときマーキス嬢が俺を押しのけてボスの攻撃を受け止めてくれなかったら死んでてもおかしくない。ああいう場合、騎士が文官を守らなくても非難されない。ましてや彼女はまだ学生だ。
俺は自分の意志であそこに足を踏み入れたので自業自得。
「一見謙虚に聞こえますけど、文官なのに自分が対処するのが当然という態度はどうかと思います。あなた、文官の中でも浮いてるんじゃないですか?」
とても面白くなさそうに言った。鋭い。思わず「なんで知ってるの」と言いそうになった。
「ええっと、それで今日はどうしてここに?」
「私のような普通の学生は右筆なんて付きませんから。自分で狩猟記録を探すこともあります」
マーキス嬢はぷいと顔を背け、まるで書類に話すように言う。
「ああ、なるほど。うん、熱心なのはいいことだ。将来は文官に任せるにしても、ちゃんとこういう場所のことを知っていることはいいと思うよ」
俺はそう言うと自分の部屋に向かう。何だ、ただの偶然か……。
「まちな……。待ってください。あなたには色々と聞きたいことがあります。シフィーのこととか」
「……まあ、そうだよね」
彼女には色々見られている。マーキス家はデュースターに近い。情報の出し方は難しいところだ。彼女の復帰はまだだと思っていたのでリーディアたちとも話し合っていない。
「シフィーはなんとか食事を取れるようになりました」
「そうか。良かった」
寮には出入りできない文官には貴重な情報だ。シフィーは演習の怪我で学院を休んでいるという扱いだ。進級云々はアレのせいで有耶無耶になっているらしい。
今の所、白い魔術を使える一年生のことは噂になっていない。マーキス嬢があのことを黙っていてくれている。もちろん見舞と称してサリアが口止めしたらしいが、彼女の立場なら実家あるいは上のデュースターを重視しても不思議ではない。というか、騎士院を見てもわかるように騎士の家はむしろそういうものだ。
そういう意味では信用できるとも言えるのだが……。
「ええっと、そうだな……。今の段階で言えることはあんまり多くなくてね」
「わかってます。とはいえ、私もシフィーのことも含め色々知ってしまいました。シフィーが回復したらちゃんと話してもらいますが。あなたにも。そして、リーディア様にもです」
さっきまでの奥歯に物の挟まったような言い方から、彼女らしい挑戦的な口調に戻った。待ってくれるというのは正直ありがたい。
「ええっと、じゃあどうしてここに?」
「あなたが王党派だとしても、お礼を言っておかないと。あなたのせいで……おかげで……シフィーだけじゃなくて……私も救われました。それだけです」
マーキス嬢はそう言うと頭を下げた。王党派という言葉、そして騎士に頭を下げられる状況に俺は戸惑う。
だが、彼女は顔を上げるとすぐに出ていった。
やはり彼女自身のことは信用できると考えよう。新しい組織のことを考えると、マーキス嬢は得難い味方と言えなくもない。まあ、彼女のような優秀な騎士候補は目立つから、直接関わってもらうのは厳しいが。
◇ ◇ ◇
官舎に戻った俺は、奥の部屋で錬金術の実験道具を準備する。ガラス瓶に入れた黒猿の心血の粉末をテーブルに置く。あの戦いのあとなんとか確保できた貴重なサンプルだ。
一部をエーテルに溶かす。
出来上がった液体をじっと見る。くすんだ緑色の粉末は普通の下級の緑魔獣、つまり魔猿のものと変わらないように見える。実際、あの黒い猿たちは倒されると普通の魔猿に戻った。さらに言えば、俺達がカインのもとに戻った直後、猿たちが狂ったように自分をかきむしって死んでいく光景を見た。
いくつか考えられることはあるが、おそらく黒猿はもともとは普通の魔猿だったのだろう。それがなんらかの手段で無理やりあの状態にされた。
問題はそれがどれだけ謎の敵集団、旧ダルムオンで暗躍してた騎士たちの仕業かということだ。測定結果からあの黒い魔力は、結界の白の逆回転の螺旋、つまり透明な魔力を結界器とは正反対に用いたと考えられる。
黒の魔力はグランドギルド時代のそれと同等のレベルにある可能性があるのだ。それを自在に使いこなせるなら敵の知識と技術はリューゼリオン、いや俺達の錬金術より遥かに強大ということになる。
それだけの力があるなら、リューゼリオンなどとっとと支配下において、結界を実験なりなんなりに使えばいい。抵抗など無意味なほどの魔術技術の差だ。
「まあ、分析してみたほうが早いよな」
粉末が溶け切ったことを確認して、実験を開始する。
緑の液体を紙の上に滴下した。緑の小さな点が乾燥するのを待って上端をエーテルに浸し、進展させる。まずは普通の触媒と同じでクロマトグラフィーにかけるというわけだ。
結果はすぐに出た。まず一番目立つのは緑のバンド。次がそれよりもずっと細い曇った緑のバンドだ。これは普通の緑の魔獣と同じだ。黒い魔猿がもともとただの魔猿だったという仮説が確認できたという意味では重要な結果だ。だが、黒の魔力との結びつきは見えない。
俺は蝋燭の火に透かして紙をじっと見る。
「ん? 微かだけどおかしな色があるか……」
曇った緑だけでなく、曇った赤と青の細いバンドが見える。これは予想外だが、最も問題なのは、普通と違う三色のバンドが見えることだ。
緑に比べればあまりに薄く細い、見えるか見えないかだ。だが、数多の触媒を見てきた俺には、その色が異質であることがよく分かる。
染料なら橙、黄色、紫の色のバンドだ。これは間違っても普通じゃない。
俺たちが知らない三色の成分が、黒という俺達が知らない透明な魔力の活用をしていた魔獣の中に見つかった。つまり、これこそが黒の魔力に関わる魔力触媒成分ということだろうか?
しかし、いくつか疑問がある。俺は見慣れぬ三色よりも遥かに太い緑のバンドを見る。
本来の魔猿の血液である緑の触媒成分を邪魔するのではなく、圧倒するほどの作用があったとしたら、この触媒成分は極めて強いことになる。
下級触媒に比べて中級触媒、上級触媒は十倍の差があると言われているのだから、おそらく上級触媒クラスだろうか。もちろん猿が倒されたことで成分が殆ど失われるということかもしれないが。
「まあ、とにかく『何か』は見つけてやったぞ」
これをやった謎の敵が魔獣を放置したのは失策だったな。こんな微量成分を解析されるとは思っていなかったのなら、シフィーに嫌がらせした学生と同レベルじゃないか。
まあ、油断してはいけないな。これが黒の魔力に関わる触媒成分だというのはまだ仮説だ。それに、いくつも疑問は残っている。
とにかく、分析の最初としては上々だ。あとはこの新しい三色の回転方向などを探っていこう。これに関してはリーディアたちに報告がてらだな。