#10話:前半 真の問題
文書保管庫に入ろうとした俺の前で乱暴にドアが開いた。あぶなっ! 突き指でもしたら実験……仕事に支障をきたすじゃないか。
慌てて手をひっこめた俺の前に、灰色の文官が三人出てきた。先頭の一人、一番の年配の男は俺が誰か気が付き、ハッキリ顔をしかめた。後ろの若い男女の部下、男はごく自然に視線をそらし、女の方は肩をすくめた。
よりによってグリュンダーグ派の文官だ。
しかし、文官棟の裏庭に三人も派遣されるというのは珍しい。特に先頭の一人は当主の右筆だ。普通の騎士院議員の右筆でも、資料の調査など下級の者にやらせるんだが……。
うーん。調べる前からきな臭くなってきた。
文書保管庫に入った俺は棚へ行く前に入り口の閲覧記録を調べる。珍しい客人は彼らだけじゃなかったことを確認する。
報告書の閲覧を記録するための印。一番新しい、指でこすったらインクが付きそうなのは熊を象った印。つまり、先ほどのグリュンダーグ一派のものだ。そして、その一つ前にこれらの資料を閲覧したのは狼を象った印。
改めて書類棚に向かう。狩猟記録が納められた棚の列、見るべきは当然北区の記録だ。
……棚に積み上げられた書類に乱れが見えた。先ほどの文官たちの仕業だ。時系列ごとに整理されているのが崩れている。書庫番としての仕事を増やしてくれたわけだ。
おかげで彼らが何に注目したのか丸わかりだ。俺は書類の順番を直しながら、記録に目を通していく。
予想通りだ。グリュンダーグとデュースター。対立関係にある二大派閥が北区を熱心に調べていることは確定だ。
なぜそうしているのか、さっきまでの俺にはわからなかっただろう。だが、カインの言葉がヒントだ。あと少しで来る火竜の渡りに関係することが重点的に当たられている。
しかし、リーディアの婚約者候補三人がそろって火竜に興味を持っていることになるな。といっても、カインは情報に敏感だから御曹司二人の動きに気が付いたわけだ。では、グリュンダーグとデュースター、ダレイオスとアントニウスはどうしてだ。火竜の渡りに関連してどんな思惑を持っている……。
火竜の経路自体は都市の大事ではある。何しろ生きた災害だ。リューゼリオンの北、グランドギルド跡に生息する火竜の群れ。その移動経路は猟地の北端をかすめる、時期は約一月先。個体数は十頭前後。
群れの経路は多少の南北にずれがあるが、ここ十年は安定している。
経路が大きくずれる、つまり普段よりも南まで来るのは危険だ。実際、リューゼリオンの北にあった隣都市は、三十年前に大きく逸れた群れの襲撃をきっかけに滅んでいる。
俺が生まれる前のことだが、この街にはその時に避難してきた人間や、その子孫がいる。レイラはその一人だ。彼女の父は腕に大きなやけどの跡がある。
といっても、その時ですらリューゼリオンからは遠くに煙が見えただけと聞く。地下の魔脈を通じてこっちの都市の結界が揺れたという話がある程度だ。
より身近な危険は、群れから個体がはぐれることがあることだ。はぐれが生じた年は二年前、五年前、十年前。十八年前と、二十五年前もか。
はぐれの経路はかなり幅があるな。それでも、一番近づいても北区の半分程度。リューゼリオンに直接ということはない。
とはいえ、超級魔獣は一匹でも危険だ。最近では五年前、北区ではぐれに遭遇したパーティーが犠牲を出している。若い個体で、しかも群れの中の争いか何かで傷ついていたらしいが、それでもベテランのパーティーが手も足も出ていない。
この件についてはカインへの報告には詳細を記しておこう。はぐれが出るかどうかなど予測のしようがないし、経路が大きくズレる可能性があるから油断禁物と……。
さらに付け加えられることはないかと並べた記録を見る。はぐれが生じる可能性と連動するような数字はないだろうか。……しいて言えば前年との群れの個体数の違いだ。おそらく、渡りに参加する若い個体が増えることで、何らかの争いが生じるのだろう。
といっても、そういう傾向がある程度だな。念のためにメモだけはしよう。
よし、次だ。グリュンダーグとデュースターの文官たちは、二十五年前にも興味を持っている。はぐれた火竜を狩った記録がある年だ。一頭を狩るために大掛かりな合同パーティーが作られている。
当時の王子、現王をリーダーにその時の精鋭が動員されている。騎士だけで三十人以上、グリュンダーグもデュースターも人数を出している。狩りは成功したが、犠牲者が十人以上でている。リーダーである王子を含め負傷者はもっと多い。
当時の最高の狩猟騎士が半減している計算だ。ああなるほど、この世代に有力な騎士がいないわけだ。おそらくその後の育成にも負担がかかったな。なるほど、現在のエースが二十四歳のダレイオスや、二十歳のアントニウス世代である遠因か……。
そして俺は見事に期待を裏切ったと……。
俺はともかく、これはちょっと採算が合わないな。実際、それ以来狩りの記録はない。調べる限り計画さえもされていないようだ。逆に、火竜の情報そのものはしっかり集めるようになっている。まあ、この被害だと二度とやりたくないだろうな。
というか、どうしてやったという感じだな。三十年前の隣都市の滅亡に過剰反応したってところだろうか?
…………よし、とりあえず紙で集められる情報はここらへんだな。
◇ ◇ ◇
俺はメモの束を手に地下室へ戻った。黒い曲面を前に考える。いくつもの情報が頭をめぐる。まずは何を考えるべきか、その軸を定める。
大原則として騎士の役目は魔獣を狩ることだ。それぞれの騎士が成果を誇ったり、己が武勇を自慢したりはするが、狩りは遊びではない。騎士にとって多くの時間と労力、時には命すらかかわる。
つまり、理由のないことはしない。
ならばグリュンダーグ、デュースター。彼らはどうして北区に向かっているのか、火竜の情報を欲しているのか。基本、火竜の情報はそれを避けるために集められる。つまり、遭遇を避けるためだ。
だが、それなら北区に近づかなければいい。だが、グリュンダーグとデュースターはあえてこの時期にいつもは狩場にしない北に向かっている。これは狩りで言えば事前の調査と準備だ。希少性の高い上級魔獣などは、行き当たりばったりでは狩れない。
付け加えると、両派とも上級魔獣を狩っている。市場で見た火蜥蜴だ。狩猟を大きく左右する良質の触媒の供給は騎士派閥の領袖としてのメンツにかかわるが、それは果たされている。
つまり、それ以上の獲物を求めている。避けるのとは逆、火竜の狩りをもくろんでいるということになるわけだが……。
俺は黒板の前で腕を組んだ。最初に建てた前提と正面からぶつかったぞ……。
本来ならあり得ない行動だ。いくら二大派閥といえども、一族縁類の総力を挙げても火竜の群れ相手にはどうしようもない。
はぐれ火竜なら狩れないことはないかもしれない……。だが、それは割に合わない。まず、はぐれが出ない可能性の方が高い。大体五年に一度だ。
その場合、わざわざ猟地の端まで遠征して火竜の群れを黙って見送るしかない。万が一近づきすぎたら大惨事が起こる危険まである。
運よくはぐれが出たとして、その場合も犠牲者が想定される。優秀な騎士を失うリスクを抱えてまで火竜を狙わないことは、ここ二十五年の記録が裏付けている。
敢て理由を考えると、一つ目は名誉だ。竜を狩ることは騎士の誉れだ。現在の都市がある場所はドラゴンの巣だったという伝承がある。つまり、都市の開基はドラゴンスレイヤーだということだ。
もっとも、それは今よりもずっと優れた魔術を行使した、グランドギルド時代の話だ。この街がただの基地だった時代だ。
次は利益。火竜の素材は極めて高価だ。王の狩猟衣が竜鱗であることからわかる。だが、それは本当に予想される犠牲に見合うか? 商人的に考えれば、百回に一度金貨百枚を得ることのできる取引の価値は、金貨一枚にすぎない。
はぐれが出ることは分かっている、それも例えば群れの中の争いで弱った個体が、そう仮定すればリスクとリターンのバランスは逆転する。
群れのサイズという不確定な情報があるが、今北を偵察してもこれから渡ってくる群れの大きさがわかるとは思えない。
可能性を消していく。積極的な理由はすべて現実的ではない。全部消えた。バツの付いた黒板の盤面を移動し、まっさらの黒い壁に向かってチョークを構える。
「なら方向をひっくり返す。狩りたいんじゃなくて、狩らざるを得ないと仮定したらどうなる?」
火竜を狩らなければならない状況は悪夢だが、仮説は仮説、それが起こると想定して考えるぞ。
一つ目、火竜が今年リューゼリオンまでやってくることがわかっている。これは、さっき否定したのと同じ理由で却下できる。そんな情報を得る方法が想定できないし、もしもそうなら今頃もっと動きがある。はぐれじゃなくて群れならするべきは逃げる準備だ。
次に考えられることは、火竜から得られる素材が必須であるということ。素材にとって最も重要なのは魔力触媒になる心血と額の魔力結晶。
「……超級の魔力結晶といっても、バカでかい魔力の発生ができるだけだ。そして、超級の触媒が必須である魔術なんて聞いたことがない」
こう見えても知識だけはある。触媒の質は魔術陣が大規模で複雑であるほど高い必要があるが、現在の騎士がつかうレベルだと最高でも上級で十分だ。それ以上となるとグランドギルドにさかのぼるだろう。現代の騎士が使えるものじゃない。
まいったな。こっちの可能性も消えてしまう。
「……いや、待てよ。騎士が使うわけじゃないなら一つある。都市結界はグランドギルドの遺産だよな」
昔の記憶が思い出された。それは、城の地下に厳重に封じられている施設を見た時の記憶だ。俺が実家にいた時、一度だけ見せられたことがある。巨大な魔術陣。六角形の精巧な基盤の上に一つ置きに描かれた三色の光の線。その中心から立ち上がる白い魔力の柱。
都市の命そのものである結界器。グランドギルド時代の遺産。
人類が作り出した最高峰といえる存在だ。俺はそれに圧倒されると同時に、何を思ったのだったか…………。
震える指が恐ろしい可能性を黒板の上に書きだした。
「考えすぎだ。結界破綻は都市の滅亡と同義だぞ」
リューゼリオンは人が住める場所ではなくなる。平民は全滅といっていい被害を受ける。騎士だって他の都市に避難する過程で大きな犠牲が出るし、亡命できてもよそ者からのスタートだ。
そうだ、この仮説は肝心なところが抜けている。この都市の最重要人物が無能だと仮定している。それはリーディアの父親だ。結界の維持は都市の主たる王の責任だ。