#閑話 契約
太湖を西に臨む入り組んだ湾の奥。ラウリス連盟における東岸の大都市であるランデムスはここに存在している。
海に面して弧を描く街並みの外れにある大邸宅に男が入ったのは、彼の黒い外套が周囲の闇に同化し始める時刻だった。
縦長のテーブルに並ぶ燭台に照らされる大部屋。光を反射して煌めくのは壁に陳列される多くの美術品だ。彫像、絵画、陶磁器など、すべてグランドギルド時代に作られた、いわゆる骨董品と呼ばれるものだ。好事家なら例外なく驚愕するだろう量と質を誇るコレクションだった。
古の芸術作品に囲まれ、テーブルには四人の男女が座っている。奥にはやせた老人が簡素なローブをまとった姿で座り、白い猫を撫でている。その左右には四十代と三十代の男女が並ぶ。男女の服は老人と同じく茶色だが、襟元には高価な魔獣の毛皮をあしらい、金銀の装飾品で身を飾っている。
一方、手前に座る男は黒い外套を纏い、室内にもかかわらずフードを被っている。馬蹄型の顎髭を持つ四十代の筋骨たくましい男は、傷が残る腕に似合わない細い羽根ペンを紙上に動かしていた。
魔獣から吹き出る血のような二つのサインが終わると、隣に立っていた同じく黒い副官が左右の男女に一枚ずつ渡した。二人は慣れた手つきでサインを記し、指輪で印を押した。
「では、来期以降の傭兵契約も滞りなく」
交わされたのは東西を跨ぐ交易における護衛契約だ。黒い男は傭兵団のリーダー。受け取ったのは東西の交易を束ねる商人の代表者だ。
「そろそろ本題といこうじゃないか。まさかこんなとこまで呼び出して紙切れに名前を書かせるだけというわけじゃないだろ」
「世が世なら一都市の王たる方が乱暴な物言いをなさる」
傭兵団長に答えたのは白い猫を撫でていた老人だ。年齢は七十を超えているやせた男性は、この邸宅の持ち主で隠居した商人である。ちなみに左右は彼の息子と娘で、それぞれラウリスとグンバルドで“別の名前”の商会を経営している。
「世が世ならお前はダルムオンで牢の中だろう。いいや今の世でも本当ならラウリス港に吊るされているか? 罪状は王女暗殺未遂だな」
「はて、そのような契約は結んだ覚えはないが。かの文官王女を虫に食わせようとしたのはあなたの独断でしょうに」
左右の男女、特にラウリスに拠点を置く男は身を固めた。だが、当の老人は猫を撫でる手を止めることすらしない。
「ラウリス王女の動きを掴み損ねた挙句よくいうじゃないか。アレの秘密保持はすべてに優先するというのは契約とやらの内だろう」
老獪な笑みと獰猛な笑み、それがテーブルの両端で同時に発生、そしてぶつかった。
「とにかくこっちは鉱山を抑えた。これが証拠だ」
前哨戦はここまでとばかりに、元王子は包みを置いた。ドンという重々しい音と共に布がほどけると、そこには灰色の石があった。ただの岩と見間違いそうな錆びた鉛のような色。だが、グランドギルド時代には大乱の原因になった鉱物だ。
「素晴らしい」
「次はそっちが契約を履行する番だな」
「もちろん。商人にとって契約は命ですからな」
目を細めた老人。だが、旧ダルムオンの王子は剣呑な口調を緩めない。
「それは結構だな。だが、最初の予定じゃあ俺たちが鉱山を手に入れるころには、リューゼリオンの首根っこは押さえ済み。グンバルドとラウリスの戦争で大儲けじゃなかったか」
男はこれ見よがしに、数年前に渡された地図を掲げて見せた。そこにあるのは、それぞれ数十の都市を束ねる東西の連合の大規模な衝突。それを最高の立地からコントロールして大利を上げるという“商業”計画だ。
「ところがリューゼリオンはいまだ健在。それどころかどんな手を使ったのかラウリスと一緒にグンバルドを抑えようって形だ。こいつはどうしたことだ?」
傭兵団長は机の上に畳まれた地図を叩いた。先ほど渡された最新ものだ。これも実は容易なものではない、東西に渡る大陸の全ての情報だ。
ラウリス王とグンバルド王ですら、これを目にすれば驚きを隠せないだろう。
だが、それだけに当初の計画との間の齟齬は明らかだった。そしてそれは今後、つまり彼にとって本番である計画に響いてくる。
「東西が疲弊したところに俺たちが鉱山の遺産で介入。ダルムオンの復活を東西両方に認めさせるって計画だったな。戦争で儲けた金が新しい都市の資金になる。だが、このまま東西が拮抗したら動く余地がなくなる。実際グンバルドはリューゼリオンと狩猟大会って話じゃないか。ラウリスとリューゼリオンに手を組まれて日和ったんじゃないのか」
恫喝のような言葉に、老人はやっと白い毛並みから手を離した。
「心配せずとも。東西はいずれ対立せざるを得ない。大いなる時代に作られた構造を我々ごときには覆せないのだからな。我々が後ろから突いてやれば容易に修正出来る」
「口だけなら何とも言える。あんたが頼りにしていたここのラオメドンとかいう王子は失脚寸前って話だが」
「確かにそれは多少の損失。だが、代わりが利かぬというほどでもない」
老人の合図で別の紙が運ばれてきた。傭兵団長は奪い取るようにしてそれを受け取った。
そこには、東西の商人が彼らに提供する金、物資、そして多くの人名が並んでいた。文字通り都市一つ作り上げる規模だ。彼の傍らに立っていた副官の顔が緩んだ。だが、団長の方はいかめしい表情を崩さない。
「ずいぶんと気前がいいじゃないか。ここまでする理由はなんだ」
「東西の中間に独立した強い都市が存在することの利点は我々にとって莫大。この程度は取り返せますからな」
「ほう。新しいダルムオンはお前ら商人の為にあるってわけか」
団長とて都市が滅んでより本拠地を持たぬ集団の長として各地を移動して生きてきた身である。狭い猟地しか知らなかった若い時とは違う。東西の中間であるダルムオンに都市ができ、そこを優先的に利用できるなら、ここにいる人間とその関係者は莫大な利益を得る立場になる。
それこそどんな騎士も王も足元にも及ばない富が生まれるかもしれない。
だが、彼に言わせればそんな利益は幻だ。
彼らはしょせん商人だ。いくら稼いでも、いや稼げば稼ぐほど騎士に吸い上げられるだけだ。騎士がいなければ平民は生きていく事もできないという、この世界の当たり前の理は黄金如きでは覆らない。彼も猟地を回復したら、目の前の三人を搾取する立場に立つつもりだ。
だが、老人も左右二人もそんなことは百も承知のはずだ。白猫を撫でる皺だらけの手に残るかすれた刺青。それはかつての罪人の証だ。はるか昔母都市を追放された人間に郷愁などあるはずがない。
ならば、なぜこんな計画に身代を賭けるのか。彼らは商人としては十分すぎるほど成功している。東西の大勢力をぶつけ合わせ、その中間に都市を一つ作り上げるなどという賭博というのも馬鹿馬鹿しい行い。彼自身、亡国の身でなければ間違っても乘らない話だ。
(いくら商人が金のことしか頭にないといってもだ。そのために世界をひっくり返すか?)
金で享受できる快楽を極めつくした老い先短い男が、文字通りの酔狂に興じていると言われた方がまだ納得がいく。もちろん、そんなことに付き合わされるのはたまらないわけだ。
(あるいはこいつだけが知っている何かが関わる……)
その人脈は騎士、文官、そして商人に渡っている。さらに、この地図にも書かれていないダルムオンに眠る鉱山と、その設備と遺産についての情報を彼に与えたのは老人だ。
彼が先ほど出した鉱石も、情報を与えられていなければ最高の魔導金属鉱石どころか岩としか思わなかっただろう。
目の前の地図はラウリスとグンバルドの両王すら驚かせるだろうが、これがこの老人の知るすべてであるはずがない。その老人の目的が、いつ奪われるか分からない金などということがあるのか。
それでも彼がこの計画に賭ける理由は一つだ。魔力を扱えない商人は結局のところ騎士に従うしかない存在のはずだ。グランドギルドが外に残した最大の遺産も、扱えるのは魔力を持つ者だけだ。
そう考えた時、この場にいる他の人間が彼の感覚を僅かに刺激した。
「そういえば後ろにいるその二人はなんだ。魔力持ちだな」
老人の後ろの壁に、彫像のように立つ二人の若い男女。そろって珍しい白髪が、なおさら陶磁器のように見えて存在を消している。
「孤児院から拾った。いわば番犬だ。最低限魔力を感じる力があれば、騎士の接近に気が付ける。寝首を掻かれずに済むわけだ」
「…………確かに狩りに使えるほどの力はないな」
ダルムオンは強い魔力の持ち主が多いことを誇った都市だ。何しろ昔はグランドギルドに対して反乱を起こしたほどだ。彼の記憶では平民上がりとしても弱い魔力の持ち主、騎士として使い物にならない程度の、がごくたまにそういう髪の色だった記憶がある。
「いいだろう。こっちはとにかく鉱山遺跡の発掘に集中するとしよう」
「それがよろしいでしょうな。今は余計なことをなさらず、将来の為に力を養うのがいい」
遺産を手にすれば彼の力はラウリスやグンバルドに匹敵するものになる。いや、伝承通りなら森の中においてアレに勝る物はない。目の前の死にかけが何を企もうとその力の前に何もできないはずだ。
だが、今後のことを考えても彼自身の情報網の構築は進めなければならない。リューゼリオンのあの男や、東西に亡命したもとダルムオンの騎士との連絡も。そのためにも、目の前の老人の金が要る。
(それにリューゼリオンだ。あれに懲りずに人様の猟地で狩猟とはふざけている。いや、そうだな、不躾なよそ者どもはあれの実験台にしてやるのが丁度いいか)
2020年12月4日:
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