#15話:前半 二つの利害
なだらかな弧を描く船上で束ねられた赤い髪がゆっくりと風に流れた。一隻だけ水面を進むボートは二列のブイの中間を危なげなく通過してこちらにもどってくる。
「付け焼き刃にしては上々か。これならば遭難ということにはなるまい」
腕組みして池を見ていたレイアードが言った。
「兄上。リーディア殿下は旅装を解かれてまだ二日です。本格的な練習を始めて一日たらずなのですよ」
「上々といっただろう。正規の訓練を受けていたら本選選出くらいはできたかもしれん。まあ、ただ動かすのとレースを戦うのは大分違うのだがな……」
レイアードはちらっとこちらを見て言った。リーディアの資質は認めつつも、俺の大口には到底足りないぞ、というところだろうか。
無言で砂時計をチェックした。学生たちの練習から割り出したこの池の簡易コースのタイムと比較したら五割増しくらいだ。本番ならば周回遅れもありうる圧倒的な差だな。
問題ない。何しろそちらの考えているレースとこちらの考えてるレースはその形が大分違う。というか、俺が気にしているのはエンジンの扱いだけだ。
「大会まであと四日。リューゼリオンの健闘を期待する」
レイアードが引き上げたのを確認して、俺は水上のリーディアに合図を送った。次の瞬間、水面からしぶきが跳ね上がった。いきなり出力を上げすぎでは?
◇ ◇
「だいぶ感覚がつかめてきたわ」
散らばったブイを背に、水を滴らせてボートを降りたリーディア。サリアが急いでタオルで覆った。もう少し練習してほしかったが、放課後が始まる前に引き上げる必要がある。
だが、この短期間でこのじゃじゃ馬を乗りこなせるようになってきているのは流石だ。やはりじゃじゃ馬どうし気が……。
「レキウス、何かおかしなことを考えていない?」
「とんでもございません、リーディア様」
俺は髪の水をぬぐうリーディアから目を反らした。あと、水をはじく特別製の服とはいえ濡れた女の子の姿は色々と目に毒だ。
「いかがでしょうか。あと四日でどこまでエンジンの性能を引き出せますでしょうか?」
目をそらす必要がない女性が口を開いた。濡れた赤い髪と緩やかな金髪の二人が向かい合う。
「四日あれば問題ないわ。遺産というからどれほどかと思ったけど、基本は狩猟器と同じね。魔力に反応して動く分、ただの船より扱いが楽なくらいよ。レキウス、タイム的にはどうかしら」
「いささか強引な比較になりますが、最後の一周のタイムを維持できるのであれば、本選出場は視野に入っております」
「そういうこと。見た限りでは普通のエンジンの力は大したことないものね。まあ、私の右筆が手を入れた特別製が比較対象なら当然だけど」
濡れた髪の毛を束ねる紐に手をかけながらリーディアが言った。確かにこの短期間で操縦の勘を掴んだのは流石だし、エンジン性能で圧倒してまともな勝負にするつもりはないという方針はその通りなのだけど、言い方をもうちょっと選んだ方が……。恐る恐る、ラウリスの姫君の表情を見る。
「ふふっ。そうですね。レキウス殿のご手腕については私も毎晩のように思い知らされましたから」
クリスティーヌは挑発的な言葉をさらりと受け流した。髪の毛を解こうとしていたリーディアの手が止まった。リーディアの尖った眼光が俺の方に向いた。
「毎晩? ……レキウス?」
「とりあえずエンジンの扱いについては大丈夫そうですので、今後のことについて話し合いましょう。これから人目が出てきますので、まずはブースに移動してから」
俺は慌ててブースを指さした。ちなみに俺はこの二人ほど楽観的ではない。そもそも大会後の外交についても大きな問題が存在していると思っている。だからこそ、二人にはしっかり話し合ってほしいのだ。
それに、エンジンに関してもまだ、問題は残っている。
「シフィーが気が付いてくれて本当に助かったよ」
「ありがとうございます。でも、もう少し調整が必要みたいですね」
ブースに向かう二人の背中を見ながら、俺は側にいたシフィーに言った。
「ああ、ギリギリまでかかるだろうな」
◇ ◇
狭いブースの中、中央の机を挟んで二人の王女が向かい合う。
しっとりとした赤毛のリーディアは借り物の部屋の中とは思えない堂々たる態度。まあ、一応このブース内はリューゼリオンの猟地ということになっていて、リューゼリオン王の代理であるリーディアがこの場の主といってもいいのだが。
ただ、相手であるクリスティーヌはラウリスにおける親リューゼリオン筆頭、というよりもまともにリューゼリオンを知っている唯一の人間だ。これから連盟と協力関係を結びたいリューゼリオンにとって唯一の味方、今後の為に協力を密にしなければならない相手だ。
もちろん、都市を背負う立場というのはそんな単純な敵味方では済まないのは分かっている。特に、今回開発された技術の管理は実に頭が痛い問題だ。
そこら辺の調整が本来の業務である文官としては、なんとか二人を取り持つ必要がある。
「毎晩レキウスを自分の部屋に連れ込んでいたってどういうこと」
「おっしゃっている意味がわかりません。図書館の奥は私的なものとは言え私の仕事場です。時間が遅くなったのは私もレキウス殿も昼間はそれぞれの仕事がありましたから、夜に行うしかなかったのです」
相手をにらみ切り出したリーディアに、クリスティーヌは穏やかな微笑で応じた。いきなり、想定していた始まりと違う。今大事なのは技術が開発されたシチュエーションじゃなくて、開発された技術自体のはずなのだが。
「お酒を用意して仕事? ラウリスは変わっているのね」
出張先で勤務中に酒を飲んだことが上司にバレてる…………。というか、ばれたのは実は俺のミスだ。今二人の間
に置かれているバスケット、クリスティーヌがブースに持ち込んだあの夜と同じもの、を見て俺が口を滑らせたのだ。
いや、単に確認しておきたかったのだ。「あれ以来寝る前にはお酒が欠かせなくなって……」なんてことになってないか心配だったのだ。後で俺がラウリスの王女に酒を教えたなんて言われたら大変なことになる。
そもそもからして、あの時のことは偶然が生んだ不幸な事故なのだ。クリスティーヌがパンの為に泡蓋を求めたのを、相手の商人が、おそらく商品のアピールのために、完成品を付けただけ。
俺はクリスティーヌの説明に期待する。クリスティーヌは小さく首を傾けて、頬に手を当てた。
「お恥ずかしながら、私その時のことはよく覚えていなくて。気が付いたらベッドの上で朝を迎えていました。シーツに赤い染みが付いていて、侍女に大変叱られてしまいました」
「……に、兄様!?」
リーディアが信じて送り出した部下に裏切られた顔になる。
「その染みはワインのものですよね。クリスティーヌ殿下、殿下は確かに少し酔っておられましたけど、侍女の方に連れられて自分の足でお部屋に向かわれました。リーディア様、ワインはあくまで偶然のことでありまして……」
期間限定の同僚姫様が全く頼りにならないので、俺は上司姫様に必死に説明した。第一、あの時はエンジンの改良の方針も決まってなくて、余計なことを考えている余裕などなかった。
クリスティーヌはクリスティーヌで長年追い求めたパンの再現の成功で、浮かれてしまっただけだ。
まあ、俺の方もちょっとだけ羽目を外した気はするが……。
「…………まあ、レキウスがそういうのなら信じる、けど」
必死に説明すると、リーディアは不承不承という感じで頷いた。
「あの時の試食を参考に、改善した品を持ってまいりました。レキウス殿と作り上げたパンの味、ぜひリーディア様に味わっていただきたいと思いまして」
クリスティーヌがバスケットの布をとった。
「……エンジンの改良に必死で他に余裕がなかったって話は?」
「パンに関して私はラウリスに来てから指一本触れておりません。あくまでクリスティーヌ殿下が私が何となく口にした知識を巧みに用いられたのです」
なぜエンジンじゃなくてパンの話が続くのか。だが、リーディアはぷいと顔をそむけてしまった。上司の側近である元妹に助力を乞う。
「サリア殿。今何より大事なのは数日後に迫っている大会、そしてその後の両都市の外交関係のことを詰めることだと思うのですが……」
「完全にそれ絡みの話ではないか。それに聞く限りにおいてはお前の脇が甘いのは間違いなさそうだしな」
俺の至極真っ当なはずの言葉は切り捨てられた。
それからしばらく仕切り直しを兼ねて軽食を食べた。リーディアがパンを口にして、とても悔しそうな顔をしたり、空気が硬いまま時間が過ぎた。ちなみに、パンはあの時よりもずっとおいしくなっていた。ほら、俺が手を出す必要なんてないんじゃないか。