#12話:後半 アイデアの発酵
「これは……麦の粉の生地ですか」
「はい。ワインの醸造で出る泡蓋をパンの生地に練り込み、暖炉の近くに置くと重曹を用いずともこのように大きく膨らんだのです。こちらはその生地を焼いたものです」
クリスティーヌはバスケットに手を入れると、まるで貴重な宝でも取り出すようにゆっくりと何かを持ち上げた。上下に焦げ目の付いた生地がバスケットから出てくる。
俺の掌に置かれたそれは、思ったよりもずっと軽い。割ってみると、中にはたくさんの空洞がみえる。パンケーキよりもずっと大きいそれは、以前見せてもらったパンの図画にそっくりだった。
「まずはそのままお試しください」
促されるままに口にする。口に入る瞬間、香ばしい香りが何とも食欲をそそる。歯を立てると心地よい弾力。パンケーキの溶けるような食感ではないが。食事の歯ごたえという意味では悪くない。甘くないおかげで麦そのものの味がはっきりわかる。にもかかわらず粥で食べた時のようなえぐ味がない。むしろ噛んでいるとほのかな甘みがにじみ出てくる。
しばらく俺はパンの味を堪能した。絵ではわからなかった旧時代の味と食感だ。
「これがパンですか。なるほど、間違いなく他にはない味ですね。ただ……」
単独の料理としてはパンケーキやクッキーにはかなわないだろう。旧時代の失われたレシピという興奮が収まると、冷静な評価が顔を出す。それを察したのだろう、クリスティーヌは俺の前にいくつかの小さな皿を出した。
「旧時代の記録を参考に簡単な付け合わせを用意しました。海獣のハム、オリーブオイルに塩を入れたもの、そして果実のジャムです。それぞれ味を見てください」
肉、油、果物。全く違う味の食べ物が並ぶ。パンを小さくちぎりまずオリーブオイルに付ける。次はハム。最後はジャムを試した。なるほど、それぞれに味が違う食材なのにすべてに合うとは……。
これでわかった。地味な味は他の食べ物と共に食べるためにあるのだ。
「実は卵や野菜とも合うのです」
「なんというか、主食という概念が分かった気がします。殿下がパンにこだわられた意味を味わわせていただきました」
両手で頬を支えるようにして、期待の目でこちらを見るクリスティーヌに答える。彼女は満面の笑みになった。
「私も同感です。それにしてもまさか、ワインの醸造で出る、それも表には出ない材料が決め手だったなんて。私では何十年かかっても気が付かなかったでしょう。これもレキウス殿のおかげですね」
「そのようなことはありません。パンに注目したことはもとより、このようにすぐに再現されたのもクリスティーヌ殿下のこれまでのご研究があってのこと。この部屋を見ただけでこれまでのご努力がよくわかります」
机に積み上がった記録と棚を見て断言する。
「ほかならぬレキウス殿にそう言っていただけると嬉しいです。それではそうですね、この成果は私たち二人で生み出したということですね。そうです、ささやかながらこの成功を祝して……」
クリスティーヌは再度バスケットの底に腕を差し込んだ。出てきたのは一本の瓶だった。赤い液体の入ったそれの封が開くと、さっきまでよりもずっと強い酒精が部屋に広がった。これはもう誤解の余地がない酒の匂い、いや酒そのものだ。
「どうやら泡蓋を頼んだ時に商人に誤解されてしまったようで、ワインも一緒に届いたのです」
彼女はいたずらっぽく片目をつぶった。そして二つのグラスが用意される。
「では、パンの成功を祝して」
硝子の当たる音が部屋に響いた。仕事中に酒はまずいとか、これを彼女の兄に見られたら何の言い訳も効かないとか、いろいろなことが頭をよぎったのだが、彼女の顔を見ていると口に出すことが出来なかった。
「ふふっ。ワインととても合いますね」
「た、確かに」
…………
「さあ、レキウス殿もう一杯いかがですか」
ビンを手にした白い姫君の頬が紅潮している。真面目な文官の顔でも、古の研究に打ち込む無邪気な顔でもない。リーディアやシフィーと違う大人の女性の雰囲気が妖艶さをまとって俺に迫る。
断り切れずにグラスを預けてしまう。
あくまで形としての祝杯、一杯で止めるつもりだった。だが、クリスティーヌがパンに付け合わせを置いたものをつまみにすることを思いついてしまった。色々試しているうちに瓶が半分以上空いてしまったのだ。
「クリスティーヌ殿下はお酒は御強いのでしょうか」
「どうでしょうか。狩りの獲物を囲んでの酒宴などは避けておりましたから」
少しとろんとした目で首をコクっと傾けた。あまり強くはないのは間違いない。
「レキウス殿のおかげでパンを形にすることが出来ました。もう間に合わないと思っていたのですが……。ああでも、パンが出来れば、旧時代の食文化についていろいろなことを再現したくなります。ふふっ、欲を言えばもっと早くお会いしたかったです」
少し切なそうにグラスを白い手でなでるその表情に惹きつけられる。正直言えば俺の方も同感である。彼女と一緒に昔のことを調べたり議論したりできたら、きっともっと……。
いや、これからでも遅くはないのではないか、例えばエンジンの改良の為として。そんなことを考えていると、ワインの赤さが目に入った。その色は、まるで今は遠くにいるもう一人の王女の髪の色のようで……。
おかげで自分が何か危険なことを考え始めていることに気が付いた。
「そ、それにしても、ラウリスの職人技術は優れていますね。瓶底にまでこのように造形が……」
俺は話題を変える。ワインの瓶底を見る。瓶底は山の様に盛り上がっているのだ。何のための形だろうか。
「確か、ここに滓が溜まるようになっているとか」
「なるほど。実験で出る滓にも使えるかもしれません」
そういいながら瓶を手に取った。さりげなくそれをテーブルの横に遠ざけた。
…………
「それでは、ふふっ、また、よろしくお願いいたしますね」
酒の匂いを漂わせ、頬を赤くした姫君が俺に言った。
「は、はい。次こそはちゃんとした成果をご報告して見せます」
俺は冷や汗と一緒に言った。姫君を横で支える青い顔の侍女さんが怖い。ちなみに俺はちゃんと危機感を持っていたので、今日は一度目のベルの音を聞き逃さなかった。
彼女は覚束ない足取りで歩く。主を支える侍女が一度こちらを振り返った、その目に「この人はどれだけ命知らずなのだろう」という感情が見えた気がしたが、気のせいだろう。そうでなければならない。
◇ ◇
部屋にもどった俺はベッドに倒れ込んだ。なぜか持ち帰ったワインの瓶が枕元に転がったのも気にしないまま、眠りに落ちた。
その夜、俺は赤い川が流れる山の中で、頂上から転がってくる丸い岩に追いかけられながら麓に降りる夢を見た。きれいなその山の形はワインの瓶底に似ていた。そして、赤い川はその色を青、緑、そして紫や黄色と目まぐるしく変えていく。
朝になって目を覚ました俺は枕元のワイン瓶をひっつかんでじっと見た。そのまま机に向かい、思いついたことを書きなぐった。