#12話:前半 アイデアの発酵
夜、いつもと同じ時間に、いつもより緊張して図書館に入る。左右に並ぶ大きな本棚の影につい視線が行ってしまう。
足音を落として奥に進み、音が立たないように慎重にドアを開けた。
次の瞬間、鼻孔に小さな違和感を覚えた。いつもの古い紙のにおいに混じって微かな芳香を感じた気がしたのだ。反射的に足が止まり、中を見渡す。だが、部屋の様子はいつもと変わりがない。中には白いドレスのクリスティーヌ一人だ。
俺に気が付いてテーブルから立ち上がっている。いつもの穏やかな微笑で中に招く……。
「どうなさいました。さあ、はやくおかけください」
いや、心なしかいつもよりも上機嫌な気がする。
「そういえば兄上とお話したのですね。何か意地悪……失礼なことは言われませんでしたか?」
「とんでもございません。有意義な話し合いでございました。それで、レイアード殿下は何と……」
「大丈夫です、エンジンに関する懸念については合わせて置きました。遺産に頼りきりの状況が限界に近付いているとしたら、それは間違いなく由々しき問題です」
少し不安だったが、彼女を見ると大丈夫そうかな。そうだ、俺たちは必要な仕事の為にここにいるのだ。何も後ろ暗いことなどない。
「二人で兄上をあっと言わせましょう」
「えっ? あ、は、はい。努力いたしますが……」
「きっと大丈夫です」
俺を見る瞳に宿る光は力強い。信じてもらえるのは嬉しいのだが……。いや、臆病になってる場合じゃないな。レイアード提督に俺たちの仕事のことが半ば知られてしまった以上、エンジンの改良を何としても成し遂げなければいけない……。
気を取り直していつも通り彼女の向かいに腰を下ろす。いつも通り仕事をするのだ。
…………
「すべての魔力の源である地脈の透明な魔力は、大きな力を保持しながら回転していないためそのままでは力を発揮しません。エンジンはこの透明な魔力の秘めた大きな力を、三色の魔力によって螺旋回転に換える、誘発するというべきかもしれませんが、ことにより引き出す。これがエンジンに関する基本的な理解です」
昨晩必死に考えた新しい作業仮説を説明するために基礎から始める。
「厳密にはエンジンの透明な魔力素子一つ一つに与えられている回転が螺旋そのものなのか、バラバラな回転方向が合わさって螺旋として見えるのかの二つの可能性がありますが、これまでの測定結果から、魔力一粒一粒が螺旋回転を与えられていると考えるほうが妥当でしょう。つまり、エンジンのスピードを上げるためにはこの魔力素子一つ一つの螺旋回転を高めるか、あるいは放出される魔力素子の量を増やすかということになります」
「具体的な方法ですが、エンジンに描かれる魔力触媒の半月型の模様は、その大きさが回転の強さ、ピッチが放出量に対応しているという感触を得ております。エンジンの表面の半分以上は空白であることから、模様を大きくしたり増やしたりすることは可能なのですが……」
問題の本質に到達したところで、クリスティーヌの表情をうかがう。彼女は人差し指を唇に当てて少し考える。
「そうですね。しかし、放出する魔力素子の量を増やす方向では……」
「はい。一時的にスピードを上げることができても、エンジンの中の魔力はすぐにつき航続距離が短くなります」
「つまり、魔力素子一つ一つの螺旋回転を強める方向で行くしかありませんね」
「おっしゃる通りです。ところがここに問題がありまして。魔力素子の螺旋回転を強めると、同時に放出量も増えてしまうのです。しかも、まっすぐ出力されるのではなく、周囲への漏れも生じるようです。おそらく、回転を与えることにより放出への圧力が副次的に高まるのでしょう」
いわば漏洩してしまうのだ。これは効率が悪い。
「つまり、こちらでも消費される透明な魔力ほどのスピードの上昇は得られないということですね」
「はい。エンジンを強化するには透明な魔力素子が放出されるまでの間にいかに効率よく回転を強めるかが課題となります」
これまでの測定結果を合わせて、何とかここまで問題を絞り込んだ。今日の昼はこの仮説の為の測定を集中的にやった。シフィーの協力のおかげで、整理したこの仮説と方針に反する結果は出なかった。
「魔力の球とその回転という単純な二つの課程を基に、問題を一つ一つ切り分けていく。レキウス殿のお考えは聞いていて気持ちいいですね。それで、その方法とは……」
クリスティーヌは期待に満ちた瞳を向けてくる。仮定だらけの俺の考えをちゃんと理解してくれる彼女の聡明さと、信頼はありがたい。だからこそ、余計にこの先が言いにくい。
「それが、いまだ見いだせておりません。今の我々にとっては厄介なことに、グランドギルドの技術はこの点において最適のバランスを実現しています」
もちろんありとあらゆる方法が使えるのなら、時間が十分あるのなら、試したいことは幾つもある。例えば、エンジンの形状を長くするということだ。人間に例えると助走距離を延ばすような意味があると考えている。
もちろん、エンジンを変形などできないし、仮にできたとしても中にある透明な魔力結晶? もいじらなければならない可能性がある。そんなことは現時点では不可能だ。
「わかりました。では、今のお話に関係ありそうな資料を探していきましょう」
図書館のお姫様はそういってほほ笑んだ。前向きな彼女の姿勢は揺るがない。そうだな、俺が不安になってる場合じゃないな。
…………
机の上に多くの書物が積み上がる。質量ともにリューゼリオンでは手に入らない貴重なものだ。だが、当たり前だが遺産について直接の答えなど書いていない。いや、探せば探すほど厳密に秘匿されていることを思い知る。ページをめくる音と共に時間だけが経過していく。
俺が本を閉じて顔を上げると、向かいの席でクリスティーヌが同じように顔を上げたところだった。俺たちは無言で顔を見合わせた。彼女の瞳にもさすがに疲れの色がある。
「……そういえば、パンのことはどうなりましたか?」
思わずそんなことを聞いてしまった。すると、クリスティーヌの瞳がぱっと開いた。彼女は「それを聞いてしまいますか」と言わんばかりのそわそわした顔になった。
そして足早にテーブルを離れると「これをご覧ください」と奥の戸棚を開き、何かを取り出した。
それは白い布が掛かった大きなバスケットだった。バスケットがテーブルに置かれると、ここに入ったときに感じた香りが強くなった。この芳醇な香り、酒に似ている……。
俺の前で彼女が覆いをとる。中には薄く黄色みがかった白くて丸い物体があった。滑らかな表面は女性の肌のようにきめ細かい。姫君の白く細い指がそれを突くと、その物体は弾力を持って凹んだ。
「これは……麦の粉の生地ですか」