#閑話1 王女の狩り
鬱蒼とした森の中は昼間でも暗い。瘤のある捻じれた幹が掲げる樹冠は高く、樹木に巻き付く蔦は黄色い果実をつける。地面を覆う枯葉の合間に、蛍光色の胞子嚢を持つシダの群集が茂る。
川の流れにより樹木の傘が途切れ、わずかに明るいその河畔で、互いを獲物と疑わない大小の生物が相対していた。
四肢を地面に貼り付け、持ち上げた顎を前に突き出す巨大な生物。ぬめりを帯びた青銅の体色には網目の様に細く赤い光が流れる。
四肢の指の間には水かき、わずかに持ち上げられた頭部には鰓の溝が見える。開いた顎には蛇の如き二つの牙が突き出す。額にはこの生物が森の主役であることを示す結晶が赤く光る。
巨大両生類の足元には籠が転がり、中から黄色い木の実がこぼれている。その一つが踏みつぶされ、甘い香りが周囲に発せられた。
感情の感じられない硝子の眼が見下ろす先には、二人の少女がいた。
前の一人は緩やかな螺旋を描く赤い髪をなびかせ、アメジストの瞳は巨体の圧力を跳ね返すように輝いている。両手で持った長剣を正眼に構え、白い服の各所を銀色の優美な防具が覆っている。
背後の一人は後ろで束ねた黒髪を微動だにせずに、黒い瞳は周囲の状況を冷静にとらえる。両手に短剣を構えている。白い服は共通だが、防具はパートナーよりもずいぶんと薄く小さい。
互いが互いを獲物と認める魔獣と騎士の戦いは、無言で始まった。
魔獣の額の結晶がひときわ大きな輝きを放つ。呼応するように胸を中心にぬめる肌に静脈の様に模様が浮かび上がる。次の瞬間、魔獣の牙の生えた咢が赤い少女に強引な口づけを迫る。
形なき赤い力によって強化された物理的な攻撃。彼女の纏う狩猟衣は装着者の髪の毛を織り込んだような規則的な赤い線を煌めかせ、次の瞬間眼前に迫った無礼な接吻を舞うように回避した。そして、狼藉者にするように長剣が魔獣の顔を打つ。赤光がぬめる頬を切り裂き、赤い軌跡の後に血しぶきが上がる。飛び散った光る血しぶきは、樹木に斜めの模様を光らせた後、すぐに染みに変った。
怒り狂った魔獣は彼女の体より大きな尾を振るう。襲い来る太い鞭の前で、赤い少女は光を失った狩猟衣にゆっくりと魔力を流している。尾が彼女を薙ぎ払おうとした瞬間、二条の青い飛跡が巨獣の体を跨ぐように光り、尾とは反対方向の後肢を貫いた。
バランスを崩した攻撃は少女の頭上をむなしく薙ぐ。風圧が彼女の髪の毛をはためかせた。次の瞬間、少女の胸甲の二つのふくらみの間で光が弾けた。銀の装甲を伝うように赤い光が長剣までつながり、刃の中心に光を溜める。
白いスカートがわずかに持ち上がり、面積を増した輝く太腿が優美に地面を蹴った。少女は魔獣の両腕の間に走り込んだ。そして、構えた長剣を魔獣の胸の中心に突き込んだ。赤い光は魔獣の背中を抜けた。遅れて大量の血が吹き上がり、地面に降り注いだ。
硝子のような眼球がぐるりと裏返り、額の結晶から光が失われる。だが、最後に振り上げていた前腕が、魔力ではなく重力にひかれて下の少女に落下してくる。
太い腕に三本目の青い短剣が突き刺さる。だが意思なき腕は止まらない。彼女が耐えるため光を溜めた長剣を構えた。だが、その腕は彼女の前で突如現れた緑光の盾に阻まれた。
ついに巨体は地面に沈んだ。
構えを解いた赤い少女に黒髪の少女が駆け寄る。
「今少し腕の先を狙うべきでした」
「まあ、私も気を抜いたからお互い様ね。魔結晶の曇り具合から見ても、使い切れば耐えられたでしょう。ただ……」
リーディアは地面に横たわる巨大な獲物を冷めた目で見た。
「図体が大きいだけの中級魔獣一匹に魔結晶を一つ丸々消費してては効率が悪いわね。まあ、今回は準備不足だったから仕方ないけど」
「はい。ただ、より上を狩るなら守りの強化は考えないといけないかと」
「わかってるわ。こんなところで止まってられないものね。……それはそうと」
冷静に戦闘を振り返っていたリーディアの目がすっと細まった。
「これ、だれが討ち漏らしたのかわかる?」
「……おそらく昨日北に向かったグリュンダーグの狩猟団です」
「相変わらず獲物しか見えてないのね。まあ、狩りが終わった後に川から上がってきたんだろうから、責任は追及できないか」
王女の言葉に黒髪の部下は残念そうに首を振る。
「さて、獲物を片付けてしまいましょう」
リーディアは地面に沈んだ魔獣の額に手を向ける。わずかに赤い光をたたえていた魔力の結晶が体から魂が抜けるように彼女の手に零れ落ちた。
サリアは胸の傷の奥に見える心臓を開く。小さく痙攣する器官から輝きを残した赤い液体が零れ落ちる。サリアは複雑な模様を刻まれた瓶に白い錠剤を入れると、それを向ける。心臓の中心から赤光を帯びた液体が、瓶に吸い取られた。
彼女らが最重要の成果を回収した時、背後の茂みから人の気配がした。
茶色いぼろをまとった泥だらけの男女が十人、二人の少女に向かって両ひざをつく。彼らの前に白い服にそろいの槍と鎧をまとった青年が一人。リーディアは彼女にとっての領民に告げる。
「傷ついたものたちもかなりいるようね。あとはあなたたちに任せたわ。この魔獣の素材をもって労役に代えなさい」
その言葉に歓声が上がる。
「あとは……」
リーディアは片膝をつく年上の準騎士に声をかける。
「最後の助力はあなたね。感謝するわ、カイン先輩」
「とんでもございません。労役の保護は我ら平民出身者の役目。殿下の御手を煩わしたこと、恐縮でございます」
罪人の様に首を垂れる学院の先輩男子。その姿は自分を引き上げた王家に忠誠を誓う謹厳なものだ。リーディアは態度を王女のものに変える。
「ええ、だからあなたは保護を優先した。そして、たまたま通りかかった私たちが狩りをした」
王女の言葉に準騎士は胸に手を当てて畏まる。リーディアは彼に背を向けた。
足先が割れた果実に当たった。リーディアは黄色い果実を手に取った。むき出しの果肉に指を付け、口に含む。戦闘の疲労をいやす甘さが口腔に広がる。
「そういえば好きだったわね、これ……」