第九幕 おおっ……!
「え、どうかしましたか?」
僕が突然洩らした「──あ」という間の抜けた声に、坂ノ下さんがちょっと驚いたふうに訊き返してきた。
「ああ、いや……うっかり忘れてたんだけど、伝統行事があったなあって」
「伝統行事、ですか?」
「うん、伝統行事。半年前に引っ越してきた坂ノ下さんはまだ知らないんじゃないかと思うんだけど、この辺りでは毎年夏に神社で伝統行事をおこなうんだよ。今年もあと十日後くらいにおこなわれるんじゃないかな。まあほとんどの人は、同時に開催される夏祭りのほうにいっちゃうんだけどね」
「はあ……」
元々は伝統行事のみがおこなわれていたらしい。しかしそれでは物足りなかったのか、やがて人々は夏祭りも同時におこなうようになり、やがて時代が下るにつれ、夏祭りのほうが主役になってしまったようである。
まあ誰だって堅苦しい伝統行事よりも、香ばしい焼きそばやたこ焼き、そして夜空を美しく染める花火のほうに心惹かれてしまうものだろう。
「で、その伝統行事っていうのがお面をつけた踊り子たちが舞を奉納するというものなんだ」
「お面をつけた踊り子たち……!」
「そう。だから最初、そこの通りで坂ノ下さんを見掛けた時、その伝統行事の参加者なのかなって思ったんだ」
「ああ……なるほど」
坂ノ下さんは自分の顔に片手をやった。
「まあ実際には違ったわけだけど、それはともかく」
僕は一呼吸ついて先をつづける。
「その伝統行事で使用されるお面は、それぞれの家に先祖代々受け継がれた木製のもの──しかも、異形を象ったものなんだよ」
「……このお面もそんな感じですよね。木の見た目から時代ものであることは間違いないでしょうし。あと、ボロボロになっていて元の姿は解りませんけど、それでも節々から、一目でそれと察せられるようなものを象っていなかったんだろうとも思いますし」
「うん、そうだよね。ただ、そんなにボロボロなやつを伝統行事で使っていたかどうかはちょっと怪しい気もするけど……無視し得ない共通点があるのは確かだよね」
「つまり、このお面と伝統行事には何かしらの関係があるのかもしれないってことですか?」
「そう。それにその伝統行事をおこなう神社、うちの山から結構近いところに建っているっていうこともあるし」
「そうなんですか……」
「だから、その伝統行事や神社について調べてみるっていうのは悪くないかもしれないね。それで、そのお面そのものの情報が得られるとは限らないけど、少なくとも伝統行事で使用されるお面については解るはずだよ。そこから何かしらの手懸かりが摑めるかもしれない。上手くいけば、そのお面の正体や外す方法に繋がるようなものが」
「なるほど……」
「あとはもちろん、うちの山そのものについて調べてみるのも手だと思う」
「はい」
「僕が伝統行事や神社のことに詳しければ手っ取り早く教えてあげられたんだけど、残念ながらそういうことにあまり興味がなかったから、いま話した以上のことは知らないんだ。うちの山についても特に変わった話は聞いたことがないし。ごめんね」
「そんな、謝らないでください。いまのお話を聞けただけでもありがたいです。一人で途方に暮れていた時よりもずっとマシになりました」
と坂ノ下さんは言い、しばらく自分の胸に沸いた希望を噛みしめるかのように何度か小刻みに頷いていた。
しかし、やがて困ったように呟いた。
「ああ……でもどうしよう。あたし、この辺りの事情とか地理とかあんまり頭に入ってないから、何処からどう手をつけたらいいのか……」
「それは……」
やや迷ったあと、僕はつづきを口にした。
「よかったらだけど、僕が手伝おうか?」
「本当ですか!」
声と同時に坂ノ下さんの背筋が伸び上がった。
「まあ、これから夏休みだし、特にすることもないし……」
「助かります! 是非、お願いしたいです!」
坂ノ下さんは嬉しそうに両手を組み合わせながら勢いよく返事をした。ただ、その首がすぐにカクンというふうに真横に傾いた。
「でも……いいんでしょうか? 先ほどそこの通りであたしがお話を聞いていただきたいと言った時、桜小路さんは最初、すげなく断ったんですけど。すげなく断ったんですけど」
二回言われた。
「ご、ごめんなさい。でもあの時はそんな不思議なお面、僕の手に負えるとは思えなかったから。いや、いまだって手に負えるとは思えないんだけど……。ただ、ここまで話を聞いてしまった以上は──」
「以上は?」
「そうも言ってられないでしょう。それに何よりうちの山でひどい目に遭った人を放っておくわけにはいかないし」
「そうですか! そう言ってくれると助かります! 桜小路さんはいい人ですね。思ってたとおりでした!」
本当? 本当にそう思ってた……!? と僕はツッコミを入れたくなったのだが、ぐっとこらえた。坂ノ下さんの小躍りにわざわざ水を差すこともないだろう。
ただし、あまり過度な期待をされても困るので、そこはさり気なく逃げを打っておく。
「あの、そんなにたいしたことはしてあげられないと思うんだけど……」
「いいえ、力になってくれるっていうだけで十分心強いです!」
坂ノ下さんはきっぱりと言った。
僕がすげなく断ったことは、もうまったく気にしていないようだった。僕なんかよりもいっそ男前であった。……そんな彼女だからこそ、この数ヶ月、自分の顔にホラーっぽいお面がくっついているという怪奇現象にも、一人で耐え忍んでこられたのではないだろうか。
それから僕たちはお互いの連絡先を教え合おうということになり、それぞれ携帯端末を取り出した。
「あっ……そうだ」
連絡先を教え終わったあと、坂ノ下さんが何かに気づいたように声を洩らす。
「ついでというか何というか……もしよければ、あたしの写真をご覧になりますか?」
「坂ノ下さんの?」
「はい。桜小路さんにはこの不気味なお面が見えていて──つまり、あたしの素顔は見えていないんですよね。それって、この不気味なお面がイコール坂ノ下陽菜だと認識されてるってことになるんですよね?」
「えーっと……」
僕は言葉を濁したが、もしも頭の中に坂ノ下さんの顔を思い浮かべろと言われたら、そのホラーっぽいお面しか思い浮かべられないのは確かだった。
女としてそれはちょっと悲しいので……と言いながら、坂ノ下さんはあらためて携帯端末をいじくりはじめた。
「その真ん中に写っているのが、あたしです」
坂ノ下さんは少し恥ずかしそうな声で言い、自分の携帯端末を僕へと差し出した。
見ると、そこには三人の少女がじゃれ合っているような画像が表示されていた。みんな高倉中学とは別の制服を身に着けていた。おそらく前の学校の友だちと撮ったものなのだろう。
当然、僕の注目は真ん中の少女に注がれた。
「おおっ……!」と思わず声が漏れてしまった。
「な、何ですか、いまの『おおっ……!』は?」
「あ、いや……」
僕は少し口籠ったが、いまさらごまかすのもどうかと思ったので正直に告げることにする。
「さっきマスターが言っていたとおりだったなあって」
「マスターが?」
坂ノ下さんは少し首を傾げていたが、やがて僕の言っていたことに察しがついたようだった。照れたように俯き、「あ、ありがとうございます」と小声で言った。
僕も遅ればせながら照れてしまい、携帯端末を返す手は非常にぎこちないものとなった。
その時、僕の目の前で振動音が鳴った。
「おわぁっ」
びっくりして思わず変な声を上げてしまう。音の出どころは、いまし方返したばかりの坂ノ下さんの携帯端末であった。
坂ノ下さんが慌てて携帯端末を操作したあと、僕へと向き直った。
「こちらから声を掛けておいて申しわけないんですが、あたしそろそろいかないといけなくなりました。実は先約があったんですが、すっぽかしていまして……」
どうやら坂ノ下さんは、僕とそのホラーっぽいお面の話をするために無理やり予定を変更していたらしい。いま彼女の携帯端末に届いた連絡はそれに関するものだったのだろう。
「ああ、そうなんだ。じゃあ今日は、取り敢えずここまでという感じかな」
その言葉をきっかけにして、僕たちは喫茶店をあとにすることになった。
店外に出ると途端に、むあっという熱気に襲われる。
相変わらず容赦ない陽射しが降り注いでいた。
一時間ほど前にバス停を降りた時とそれらはほとんど同じ光景だったのだが……僕のほうはすっかり状況が一変してしまっていた。
女子中学生と、この世のものとは思えない不思議なお面。
「夏休みには帰ってきなさい」と両親にしつこく言われていたので、半ば仕方なくこの辺ぴな田舎町に帰ってきた僕だったけど……まさか、こんなことに巻き込まれてしまうとは夢にも思っていなかった。
ただの男子高校生に対するものとしては、ちょっとレベルが高すぎはしませんかね?
先を急ぐという坂ノ下さんに向かって軽く手を振って見送りながら、僕は心の中で小さく溜息を洩らした。
ややあって、僕は再び携帯端末を取り出す。特に考えなく一緒に出てきてしまったが、迎えに来てくれることになっている母親からの連絡はまだ届いていなかったのだ。
しまったな……と思って中央通りの向こうに目を向けると、ちょうど坂ノ下さんが振り返ったところだった。もう一度大きくお辞儀をしてくれる。その姿に、ついさっき見せてもらった写真の女の子がオーバーラップする。
片手を上げて応えながら、ただの男子高校生はこれからがんばろうと思いました。
夏空が眩しかったです。