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第七幕 僕を殴ったのは

 夏の陽射しが、喫茶店の窓に溢れている。


 その向こう側を指差しながら、坂ノ下さんは言う。

「最初、そこの通りで桜小路さんを見掛けた時、あたしはごく普通に『前から高校生くらいの男の人が来るなぁ……』としか思いませんでした。顔見知りでも何でもありませんから当然ですよね。──でも次の瞬間、あたしは心臓が止まってしまいそうなくらいに驚くことになったんです」


「どういうこと?」


 僕の疑問に、坂ノ下さんは窓の向こう側を差していた指先を自分のほうへと向け直した。


「だって、このお面がいきなり何だかよく解らない力であたしの身体をぐいぐいと引っ張りはじめたんですもの」


「……」


「混乱しながらもあたし、どうにかして止めようとしたんですよ。けど、お面の力には全然逆らえなくって、気がついた時にはもう──桜小路さんに殴り掛かっていたんです」


 あれは、見事なグーパンチだった。


「さっき、僕を殴った理由は『身体が勝手に動いちゃって』とは聞いていたけれど……それはつまり、そのお面が坂ノ下さんにそうさせたってこと?」


「はい……」


「……」

 にわかには信じられない話だったが、僕は坂ノ下さんが嘘をついているとは思わなかった。


 目の前のそれは、ただのお面ではない。そのことをすでに知っていたために、人間の身体を操ったと聞いてもあまり違和感を覚えなかったのである。そもそも、嘘をつくならもっとマシなものをいくらでもつけるはずだろう。


 しかし、それにしても解らないのは──


「どうして……そのお面は僕に殴り掛かったのかな?」


「それは、あたしのほうが聞きたいですよ」

 坂ノ下さんがぐっと身を乗り出してきた。


「実はこのお面、あの山でのやり取り以降、ずっとおとなしいままだったんですよね。動くこともなければ喋ることもありませんでした。ただあたしの顔にくっついているだけで──って、それだけでも十分恐いんですけど……。あたし、勇気を振り絞って何度か話し掛けたこともあるんです。どうしてあたしの顔にくっついているのか、どうしたら外れてくれるのかって。でも返事は一切ありませんでした。こうして手を当ててみても、身じろぎ一つしませんし。──つまりこの数ヶ月、あたしにも周囲の人たちにも何かをしてくるようなことは一度もなかったということです。それなのに、桜小路さんには反応、つまり殴り掛かったんですよ、見掛けた途端に」


 坂ノ下さんの最後の口調は、むしろ僕のほうにこそ何か心当たりがあるのでは? と問うているようであった。


 しかし、僕には答えるべきものがなかった。ホラーっぽいお面がずっとおとなしくしていた理由も解らなければ、僕を見掛けた途端に殴り掛かってきた理由も解らなかったからである。


 僕が何も言えずにいると、坂ノ下さんは身を乗り出したままで先をつづける。


「あたしも殴り掛かってしまった時点では、『大変なことをしてしまった』『大変ことをさせられてしまった』ってものすごく慌てていたんで深く考えるような余裕はありませんでした。──けど、そのあとすぐに、桜小路さんにはこのお面が見えているって知ってピンときたんですよ。桜小路さんは、このお面に何かしらの関係がある人じゃないかって。だから、もしかしたらこのお面を外すこともできるんじゃないかと思って何はさておき試してもらったわけなんです。……まあ、それはちょっと残念な結果になってしまいましたけど」


 いったん下を向いた坂ノ下さんだったが、すぐに僕の正面へとそのホラーっぽいお面を据えた。


「でも、いままで他の人には反応しなかったお面が桜小路さんには反応し、いままで他の人には見えなかったお面が桜小路さんには見える、というのは紛れもない事実です」


「……」

 この数ヶ月、坂ノ下さんがどれだけの人々と出会ったりすれ違ったりしたのかは知りようもないけれど、それなりにいたであろう人数に対して、そのお面はまったく反応せず、人々のほうもそのお面を見ることはできなかったわけである。

 しかし、僕だけは違ったのだ。……これでは坂ノ下さんに、このお面に何かしらの関係がある人だと思われてしまったとしても仕方がないだろう。


 とはいえ──


「えーっと、悪いんだけど……僕にはまったく心当たりがないんだよね」


「本当ですか? このお面について何か知っているんじゃありませんか?」

 坂ノ下さんの声が少し高くなった。


「い、いや、何も知らないよ。そもそもそのお面を見たのはさっき、そこの通りで見たのがはじめてだから」

 ちょっとビビってしまったが、だからといって嘘をつくわけにもいかない。僕は正直に話していた。


「本当に、いままでに見たことはないんですか?」


 坂ノ下さんは探ろうとするかのように、僕のことを覗き込む。つい、テレビの中からお化けが這い出てくるホラー映画を思い出してしまった。


 若干のけぞりつつ、僕は答える。

「そ、そんなホラー……インパクトのあるお面、一度見たら忘れないはずだから間違いないはずだよ」


「でも確かに、このお面は桜小路さんに殴り掛かりました。このお面と人間の感覚が一緒とは限りませんけど──普通に考えれば、このお面は桜小路さんに対して怒りや恨みを抱いていたんじゃないかと……」


「いや、そんなこと言われても……。くり返すけど、そのお面を見たのはさっき、そこの通りで見たのがはじめてだから。過去に何かがあって、それですでに怒りや恨みを買っていた、なんてことはないはずだよ。──あとは、そこの通りで見てすぐにそのお面の怒りや恨みを買ってしまった、って考えられなくもないわけだけど……たぶん、その可能性も低いんじゃないかな。僕は特に変わったことはしていなかったはずだから。まあこれに関しては、そのお面の感覚が解らないのではっきりとしたことは言えないけど」


「では──そもそもどうして、桜小路さんにはこのお面が見えるんでしょうか? 他の人にはまったく見えなかったのに」


「それも……僕には解らないよ」


「もう一度訊きます。桜小路さんはこのお面について何か知っているんじゃありませんか?」


 坂ノ下さんの声は非常に真剣だった。


 だから、僕も真剣に答える。


「いや、何も知らないよ」


「そうですか……」

 と坂ノ下さんは言ったが、その声からは納得したような響きは感じられなかった。


 二人の間に微妙な沈黙が降りる。


 僕は思わずかしこまってしまう。坂ノ下さんの表情はもちろん解らなかったのだが、彼女がまとっている雰囲気から僕の様子をじっと窺っていることは察せられたのである。


 面接試験でも受けているかのような落ち着きのなさが僕を捉える。


 しかし、それも長いことではなかった。


 坂ノ下さんが肩からふっと力を抜いた。

「……そうですよね。桜小路さん、このお面に触った時、本当に驚いていましたもんね。あたしがお面に出会った経緯を話している時も。このお面について何か知っていたら、あのようなリアクションは取れなかったと思います。……いまも何かを隠しているようではありませんし。──ごめんなさい、疑うようなことを言ってしまって」


 坂ノ下さんがペコリと頭を下げた。


「いいよ、いいよ、気にしないで。たぶん、僕が坂ノ下さんの立場だったとしても、同じようなことを考えたんじゃないかな」

 無事、合格通知が来たことにホッとしつつ、僕は軽く手を振った。


「そう言ってくれると助かります」

 坂ノ下さんもホッとしたような声を出した。しかし、すぐに考え込むようにしてそのお面を俯けた。


「でも……何かしらの関係があるとかじゃないとしたら、結局、どうしてこのお面は桜小路さんだけに反応したんでしょうか? どうして桜小路さんだけにはこのお面が見えるんでしょうか?」


「それは、よく解らないけど……」

 あれこれ考えを巡らせながら、僕は答える。


「もしかしたら、条件みたいなものがあるのかもしれないね」


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