第五幕 自己紹介
店内に僕たち以外の客はいなかった。
ほどなくマスターが注文を聞きに来て、僕はアイスコーヒー、お面の少女はアイスティーを注文した。
その間、マスターはさりげなく女子中学生のほうに目をやっていたが、それはあくまでも興味の視線であり、奇異なものを見るような視線ではなかった。
ここに来る途中でも、二、三人の人たちとすれ違っていたのだが、その人たちもまたお面の少女を怪しそうに見ることはなかった。
だから、すでに察しはついていたのだけど──
「そのお面、本当に他の人には見えないみたいだね」
マスターがカウンター内に戻ったあと、僕は向かい側に座ったお面の少女に話し掛けた。
「ひどい……疑っていたんですか」
お面の少女が少し拗ねたような声を出した。
「あ、いやっ、疑っていたとかじゃなくて……ただ、えーっと、何というか、あまりにも不思議すぎるじゃない……?」
「冗談ですよ。気にしないでください」
ふふっ……という、やわらかい息遣いが漏れ聞こえた。
目の前のお面にはまったく変化が見られなかったが、おそらくその向こう側では少女が笑んでいるのだろう。
「将来、絶対美人さんになりますよ」とマスターは太鼓判を押していた。多少のお世辞はあるにせよ、あそこまで言い切るからにはそれ相応のものがあるに違いない。是非拝んでみたく、何度かチラチラと見直してみたものの……やはり僕には少女の素顔は見えなかった。
いったいどうしてなんだろう? という疑問を僕は抱かざるを得なかった。しかし同時に、少女の素顔どころか、その素性さえもろくに知らないことにいまさらながら思い至る。
「えーっと、そういえば、まだ自己紹介もしていなかったね。僕は──」
「ズバリ、桜小路家の、和雅ぼっちゃん──ですよね?」
「え? ああ……うん」
お面の少女の声が何処か悪戯っぽいものを含んでいたのに対し、僕の声は何処か憂鬱なものを含んでいた。ただそれは、すぐに早とちりだということが明らかになった。
「まあズバリも何も、さっきここのマスターが言ってたのを聞いてただけなんですけどね。それにしてもお兄さん、おぼっちゃんって呼ばれるくらいですから、もしかしていいところの息子さんなんですか?」
お面の少女が無邪気な感じで訊いてきた。
僕は二、三回、目をしばたたいた。
「えーっと、桜小路家をご存じない?」
「えっ? あ、はい。あれ……もしかしてその桜小路家っていうのは、この辺りじゃ有名だったりします? だとしたら、ごめんなさい。あたし、引っ越してきたばかりでして……といってももう半年くらいは経つんですけど、この辺りの事情とか地理とかあんまり頭に入ってないんですよね。日頃、そんなに困ることもないですし」
お面の少女が少し恥ずかしそうに頭を掻いた。それを見ながら、僕は胸のつかえが下りたような気持ちになった。
「いや、いいよいいよ。知らなくったって全然問題ない。むしろ、そのほうがいいよ」
妙に嬉しそうにする僕に、お面の少女はしばらく小首を傾げていたが、やがて仕切り直すように姿勢を正した。
「あたしは坂ノ下陽菜って言います。ごく普通の中学生です」
お面の少女──坂ノ下陽菜さんは、ぺこりと頭を下げながらそう自己紹介をした。
うん。ごく普通の中学生はそんな不思議なものを顔につけてはいないよと思ったが、そこはツッコんでいいのかどうなのか、まだお互いの距離感を摑めていなかった僕は無難な質問を選択する。
「えーっと、その夏服、高倉中学の制服だよね?」
「そうです、三年生です」
お面の少女──じゃなくって坂ノ下さんは、白いブラウスの肩口を指先でちょっと摘まみながら同意を示した。
「坂ノ下さんは三年生なんだ。じゃあ、僕の一学年下だね」
「ということはお兄さん──桜小路さんは、高校一年生なんですね。東京の高校に通われているんですか? さっきマスターが言ってましたけど」
「あー、うん。明帝高校ってトコなんだけど……」
「うわっ。超名門じゃないですか。あたしでも知ってるくらいだし。桜小路さん、頭いいんですねー」
「そ、そんなことないよ」
と否定しつつも、僕はちょっとだけ鼻が高かった。
「でも、明帝高校なんて、桜小路さんは高倉中学の希望の星ですね」
「あー……ごめん、僕、私立の清栄中学のほうに通ってたんだ」
「あー……そうだったんですか……」
初対面なりに順調に進んでいた僕たちの会話であったが、そこでついに蹴躓いてしまう。
僕は焦った。しかしそれは坂ノ下さんも同様であったらしい。彼女は、自分の通う高倉中学は今日が終業式であり、ちょうどその帰り道に僕と出会ったことなどをやや早口で教えてくれた。
僕は僕で、自分の通う明帝高校は一昨日が終業式であり、他校にはあるらしい試験休みが明帝にはないんだよといったことなどをややどもりながら語った。
二人して何だか妙に疲れてしまった時、白髪交じりのマスターがちょうどよく注文の品とサービスだというお茶菓子を持って登場してくれた。
「ごゆっくり、どうぞ」と言って去っていったマスターの後ろ姿を見送ったあと、僕は氷塊の浮いたアイスコーヒーにストローを挿した。
坂ノ下さんも同じようにし、それを自分の口元へと運ぶ。彼女のストローの先は、やはりというべきか、お面の中にめり込んでいた。
お面をつけたままで飲食できるというのは、とてもシュールな光景だった。