第三幕 そこにあるのに、そこにない
このお面が見えるんですか? ……って、それは見えるだろう。こんなに近寄られれば、否応なしに。いや、こんなに近寄られなくても見える。そもそもお面はまったく隠されていないのだから。
ドアップになっているそれは、正直あまり見ていたいものではないので僕は目をそらしつつ答える。
「み、見えるけど……」
「本当ですか!」
そう叫んだお面の少女からは、理由は解らないが、驚きと嬉しさが迸っているようだった。
「ほ、本当だけど……。こんなことで嘘ついても仕方ないし……。でも、それがどうしたっていうの?」
「どうしたもこうしたもないですよ! お兄さんははじめての人ですよ!」
お面の少女は興奮した様子で僕の両肩を揺さぶった。
「あ、あの、お面が見えるとかはじめての人だとか、意味がよく解らないんですけど……?」
視界がぐらんぐらんする中、僕は疑問を口にした。
「そ、それを説明するのは言葉だけではちょっと難しいし、と、とにかく確認したいことがあるので、すみませんが……」
お面の少女は早口でそう言うと僕の両肩からパッと手を離し、次にその白くて細い指先を──僕の右手へと添えた。
「!?」
心臓がドキンと鳴ったようだった。相手がホラーっぽいお面をつけているとはいえ、いままでろくに女の子と接触したことのなかった僕にはそれだけでも十分すぎる刺激であったのだ。
お面の少女によって持ち上げられた僕の右手は、するすると彼女のほうへと引き寄せられていく。紺色のスカートに覆われた肢が、白いブラウスに包まれた胸が、僕の指先のすぐそこを通り過ぎていった。
僕の心臓が早鐘のように鳴りまくる。緊張と興奮で息苦しさを覚えたほどだった。しかしそれは急速に収まることになった。
ほかでもない、僕の右手が向かっているのは──お面の少女の、そのお面そのものであると察しがついたからだ。
え。なんでそれに触らせようとするの? というか、さすがにそんなホラーっぽいものには触りたくないんですけど……!?
慌てて引っ込めようとする。しかし、間に合わなかった。
その時にはもう、僕の指先はお面に触れていたのである。
──いや、触れなかった。
お面はそこにあるのに、そこになかったからだ。
「──っ!?」
お面はどう見ても木製である。
なので本来であれば、僕の指先はコツンとした感触と共にそのお面の表面で止まるはずだった……のだけれども、僕の指先は何の感触を覚えることもなく、そのお面をすり抜けていたのである。
いま僕の目には、自分の指先がお面の中にめり込んでいるように見えていた。
しかし、めり込んでいるように見えているにもかかわらず、その指先の周囲からは何も伝わってこないのだ。木材の感触はもちろん、何かしら別の感触さえも。
お面はまるで、実体を持たない3D映像のようだった。
「え……、何これ……?」
僕は呆然と呟きながら、お面にめり込んでいる右手をそっと左右に振ってみた。しかし、まったく手応えはなかった。それこそ空気を撫でるかのように僕の指先はお面の中を抵抗なく行き来した。
お面の少女はとっくに手を離していて、しばらく僕がするのをじっと見守っていたのだが、やがて残念そうな呟きを洩らした。
「お兄さんなら、もしかしたら見えるだけでなく、触れるかも……って期待したんですけど……駄目でしたか」
眼前の不思議に魅入られたまま僕はぼんやりと指先を振っていたのだが、彼女の呟きにハッとなり、慌てて右手を引っ込めた。
「そのお面……どうなっているの?」
お面の少女は、すぐには答えなかった。僕のことを探るかのように沈黙していた。慎重な口調で語りはじめたのは、ややあってからである。
「……いま試してもらったとおり、このお面、まったく触れないんですよね。それはこのお面をつけているあたしも例外ではなくて──」
お面の少女はそう言うと、指を一本立てて自らのお面を何度か突っついてみせた。その指先は僕の指先がそうであったように、お面の中にめり込み、何の抵抗もなさそうに動いていた。
二度目の光景とはいえ、僕は目を見開かずにはいられなかった。ただそれで、彼女自身もお面に触れないということは確認できたのであった。
でも……彼女自身にも触れないとなると、お面を外す時はどうするのだろうか? つけた時はどうやったのだろうか?
いや、待てよ──彼女自身も触れないということは、そもそもお面は彼女の手によってつけられたわけではない……?
僕が混乱しているうちにも、お面の少女は話をつづけていた。その声は何処か悲しそうだった。
「さらにこのお面、あたしには見えるのに他の人にはまったく見えないんですよね。だからあたしの両親も友だちも、あたしがこんなお面をつけているってことさえ知らないんですよ。その人たちにはあたしの素顔がちゃんと見えているようなんです。──適当な理由をつくって、その人たちにあたしの顔を触ってもらったことがあるんですけど、このお面の存在に気づいてくれた人はいませんでした」
「他の人にはまったく見えないって……僕にはばっちり見えてるんだけど?」
「そう、それなんですよ! お兄さんは、あたし以外でこのお面を見ることのできたはじめての人なんですよ」
と言ったお面の少女の声は、最初こそ少し興奮していたのだが、次第にまた悲しげなものに戻っていった。
「だからもしかしたら見えるだけじゃなく、触れるかも──外せるかもって期待しちゃったんですけど……」
お面の少女は少し俯いてしまった。
僕も何だかつられてしまい、一緒になって俯いた。……それにしてもよく解らないことばかりだった。そこにあるのに、そこにないお面。彼女によれば僕たちにしか見えないというお面。理解が追いつかず、頭の中がグルグルとしてくる。気づくと、僕はさっきと同じような疑問を口から零していた。
「そのお面……どうなっているの? ──というか、そのお面っていったい何なの……?」
ゆっくりとお面の少女は首を振った。
「このお面がどうなっているのか、どういう仕組みになっているのか──それはあたしにも解らないんです。ただ……」
「ただ?」
お面の少女は、自分の頬を撫でるようにしながら言う。
「怪奇現象と呼ばれる類のものではないか、とは思っています……」
その白くて細い指先は、当たり前のようにお面の中へとめり込んでいた。