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幕後 坂ノ下陽菜編

 夏祭りのあと、僕はろくに眠れないまま翌朝を迎えた。


 坂ノ下さんから連絡が来たのはその日の午後。意外なことに、待ち合わせ場所はうちの山の入り口だった。といっても、桜小路家の裏手にあるものではなく、そこよりもっと北のほうにある別のものだ。


 しかし、この辺りの地理にあまり詳しくないはずの坂ノ下さんがよくそんなところを知っていたな、と一瞬思ったのだが──今年の春、彼女はうちの山にタケノコを採りに入っていた。その時に利用したからだろう。


 何にせよ、僕はいても立ってもいられずに家を飛び出した。裏手には回らず、自転車に乗って正面の私道へと進む。もちろん山の中を歩いていくというコースもあったわけだが、そうすると余計に時間を食ってしまうのだ。


 道なりに桜小路家から山の北口に向かうには、田畑や雑木林を迂回しなければならない。私道から農道、農道から公道と僕は大きく弧を描くように走って目的地へと辿り着く。約束の時間のかなり前にもかかわらず、すでに坂ノ下さんが待っていた。


 写真どおりの、みんなが言っていたとおりの可愛らしい顔立ち。ただ、その大きな瞳はひどく赤くなっていた。


 あれから相当泣いたのだろうか……と気にはなったものの、いまの僕には優しい言葉を掛けている余裕がなかった。挨拶もそこそこに昨日のことを尋ねようとする。しかし、坂ノ下さんが口を開くほうが先だった。


「桜小路さんちの山に入らせてもらっても構いませんか?」


「それは……構わないけど。もともと出入り自由だし」


「──それじゃ、あたしのあとに付いてきてもらえます? 昨日のことをお話しするのに適した場所にいきたいと思いますので」


 感情を無理やり押し殺しているような声で坂ノ下さんが言った。その様子は何処か痛々しいものだった。だから僕は、「昨日のことをお話しするのに適した場所?」と内心で首を傾げつつも、おとなしく頷いたのである。


 坂ノ下さんは山沿いの道路を歩きはじめた。自転車を邪魔にならないところに止めて、僕もあとにつづく。

 当然、すぐそこにある北口から山に入るものと思っていたのだが、坂ノ下さんはその前を通り過ぎ、しばらく進んだところにあった木々の切れ間から山の中へと入っていった。

 そこは思いっ切り獣道であった。


 僕でもこんなところを通った覚えがない。それをどうして坂ノ下さんが知っているのか、そもそもどうしてこんなところを進むのか、僕は戸惑わざるを得なかった。

 しかし、茂った雑草を掻き分けていく坂ノ下さんの歩みに迷いはなく、また、おいそれと声を掛けられるような雰囲気でもなかった。僕は眉を寄せながらも、あとを追うことしかできなかった。


 今日は蒸し暑かったのだが、山の中はひんやりとした空気に包まれている。そのせいなのかどうなのか、蝉の声もあまり聞こえなかった。


 何となく不安を煽られながら、歩くこと二十分。不意に坂ノ下さんが足を止めた。そこはぼうぼうとしていた雑草が切れ、少し開けた場所となっていた。

 その広場の中央に立った坂ノ下さんは、僕のほうへとゆっくり振り向いて──そして言った。


「ここで、あたしはシシ様に出会ったんです」


「ここで……」


 坂ノ下さんたちが出会った場所──つまりここは、僕がシシ様を落としてしまった場所でもあるわけだ。


 しかし周囲を見渡してみても、当時の記憶が蘇ることはなかった。時間が経ってしまったからというよりも、もともとここではろくに遊んだことがなかったからだろう。……あれだけ探し回ってもシシ様を見つけられなかったことを踏まえると、もしかしたらシシ様を落としてしまったあの日にだけ、たまたま訪れたような場所だったのかもしれない。


 僕は悔しさを噛みしめながら、あらためて周囲を見渡した。──すると、少し別なことが気になった。


 坂ノ下さんたちが出会った場所は、僕がシシ様を落としてしまった場所でもあるけれど──加えて、山の中を散策していた坂ノ下さんがゴロゴロゴローっと転げ落ちてしまった場所でもあるわけだ。


「……あんなところから落ちて、よくケガとかしなかったね」

 僕はやや呆然となった。ここの右手側にあったのは、急斜面というよりもむしろ崖に近い山肌だったからである。高さもかなりのものだ。


「いえ……実は」

 と言った坂ノ下さんは泣いているとも笑っているともつかない表情になった。



「今年の春、あたしはここで死に掛けたんです」



「えっ!?」

 僕は目を見開いた。


「し、死に掛けたってどういうこと……? 喫茶店でその話を聞いた時には、確かケガや痛いところはなかったって言ってたよね」


「あたしも昨日までは──シシ様の記憶が流れ込んでくるまではそう思っていたんですが……」


「シシ様の記憶が流れ込んでくる?」


「はい」

 と頷いたあと、坂ノ下さんは僕の目を見た。


「シシ様と出会った場所をよく憶えていないと言っていたあたしが迷わずここに辿り着けたのはそのためです。ただしそれは、あとで説明させていただきます。順を追ったほうがいいと思いますので。──これから昨日のことやそれがどうして起こってしまったのかをお話しさせていただきますが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、ということだけは承知しておいてください」


 その口調はとても真摯なものだった。まだ短い付き合いだけれど、このような時に坂ノ下さんがいい加減なことを言うか言わないかくらいの判断はつく。僕は先を促すように視線を返した。


「……見てもらえれば解るとおり、あの高さから転げ落ちては無事ですむはずがありません。実際、シシ様の記憶によれば、あそこから転げ落ちたあたしはこの広場に身体をひどく打ちつけて瀕死の状態となっていました。特に頭部の損傷は激しかったようです」


「……」


「瀕死のあたしは、シシ様がそこにいるなんて気づきもしないまま『こんなところで死にたくない』『家に帰りたい』とうわ言のようにくり返していました。シシ様はそんなあたしを憐れんで、どうにかしたいと思って近づいてきてくれたんです。──そして、その時の言葉こそが〝ここから帰りたいか? 帰りたくば、私を受け入れよ〟というものだったんです。ゾッとしたとか言ってしまいましたけど、あれは呪いの言葉とかではまったくありませんでした。あたしの意志の確認と、あたしの命を助けるための方法を示したものだったんです」


「意志の確認と命を助けるための方法……?」


「どうしてわざわざシシ様が〝ここから帰りたいか?〟──つまり『ここで死にたくないのだな?』って確認を取ったかというと、あたしの命を助けるための方法が霊的なものにならざるを得なかったからです。瀕死のあたしはもはや人の手でどうにかできる状態ではなかったので……」


「霊的なもの……。それが〝私を受け入れよ〟っていう言葉だったってこと?」


「はい」


「それって具体的にはどういう……?」


 坂ノ下さんが少し目を閉じた。言うべきことを整理しているようだ。


「シシ様は付喪神です。人間には理解できない不思議な力をいろいろと持っていました。──けど、あたしの壊れた身体から流れ出る命を止めるにはちょっとやそっとのことではどうにもならず……シシ様が()()()()()()()()()()()()()()()しかありませんでした。〝私を受け入れよ〟というのは、あたしとシシ様が一体化しなければあたしの命を助けられないという意味だったんです。シシ様が実体を失うことになったのは、あたしと一体化したためでした」


「不思議な力についてはよく解らないけど……とにかく、シシ様が坂ノ下さんの顔にくっついたのは坂ノ下さんの命を助けるためだったってことなんだね」


「そうです。──シシ様は自らの在りようを変えてまであたしの命を助けてくれたんです」


 坂ノ下さんはそこから感謝が溢れそうだというふうに胸を押さえた。ただ、すぐにその声は沈んだものとなった。


「それなのにあたしは……そのことをまるで憶えていなかったんです。シシ様は〝ここから帰りたいか? 帰りたくば、私を受け入れよ〟という言葉だけじゃなく、そのあとにちゃんとあたしの命を助けるためには霊的方法しかなく、それはシシ様と一体化することだって説明してくれていたのに。そしてあたしは『命が助かるのなら、何だっていいです』と自分でお願いしていたのに。そういった肝心なことはまるで憶えていなくって……。しかもあろうことか、自分が気を失ってしまったのはシシ様に出会った恐怖のせいだなんて思っていたんですよ。最低です、あたし。シシ様は、泣きつづけるあたしに〝かならず助けてやるからな〟とか〝心配ない。すぐに家に帰れるようにしてやるからな〟とか優しい言葉も掛けてくれていたのに……」


 坂ノ下さんは自責の念に染まった言葉を吐いた。


「……あんなところから転げ落ちて、それで頭をひどく打って死に掛けてしまったというのなら、その前後の記憶が混乱したり吹っ飛んだりしたとしてもそれは仕方のないことだったんじゃないかな」


 高い崖を見上げながら、僕は言った。同情ではなく、本当にそう思ってのことだった。それが伝わったのか、坂ノ下さんはぎゅっと唇を噛みしめて俯いた。


「それにしても……どうしてシシ様はそのことを僕たちに教えてくれなかったんだろう?」

 ふと、大樹がある広場でのやり取りを思い出して僕は呟いた。あの時のシシ様は坂ノ下さんの顔にくっついた理由を頑なに話そうとはしなかった。


「それは……あたしのためでした。シシ様はあたしが死に掛けたことを憶えていないのなら、あんな惨めで恐い思いを憶えていないのなら、そのほうがいいと考えてくれたんです。けど、あたしの顔にくっついた理由を話すとなるとどうしてもそのことに触れなくてはなりません。──シシ様が真実をひた隠しにしたのは、あたしに対する優しさだったんです」


「そう、だったんだ……」


 思いも寄らぬ真実に僕は溜息のような声を洩らすしかできなかった。ただ……何にせよこれで、シシ様がどうして坂ノ下さんの顔にくっついたのかははっきりとしたのだ。どうしてその理由を話そうとしなかったのかも。


 大樹のある広場においてシシ様が明かそうとしなかった謎が、ついに解かれたのだった。


 しかし、僕の胸には解放感は訪れなかった。むしろ逆のものが湧きはじめていた。


「──知らなかったとはいえ、僕は結構しつこく坂ノ下さんの顔にくっついた理由を聞いてしまったよね。結局、シシ様がそれに答えてくれることはなかったけれど……その流れからシシ様は坂ノ下さんの顔から外れてくれるって言い出したんだ。シシ様が坂ノ下さんの顔にくっついたのはその命を助けるためだったというのなら、もしかして僕がしたことは何かマズかったんじゃ……?」


「いえ、それがマズかったというよりは──それよりもずっと前にすでにマズいことが起こっていたと言ったほうが……」


 坂ノ下さんは目を伏せて少し口ごもったが、すぐに意を決したように顔を上げた。──シシ様の記憶が流れ込んできたと言っていたけれど、それを僕に伝えることが自分の使命だと思っているような節があった。


「先ほどシシ様があたしの命を助けてくれたのはあたしを憐れんでくれたからだと言いましたが、実はそれだけではなかったんです。シシ様にはシシ様の事情がありました」


「シシ様の事情?」


「……長い間、この場所にいたシシ様はその実体もその霊魂もすでに弱り切っていたんです」


「えっ、どうして──」

 反射的にそう訊いたが、僕はすぐにハッとなった。


「僕が……落としてしまったから、見つけられなかったから」

 ……長い間、風雨に晒されてボロボロになってしまって、それで──。


 坂ノ下さんが痛ましげに目を細める。


「シシ様は教えませんでしたし、そんな様子も見せませんでしたが、お面がボロボロになるということは、人間でいえば身体がボロボロになるのと同じことだったんです……。当然、身体がボロボロになればそこに宿る霊魂も無事ではすみません。それに当時のシシ様は、桜小路さんが自分のことなどどうでもよくなってしまったのだと思い込んでもいましたから特に憔悴が激しかったようで……」


「──っ」

 あまりのことに血の気が引く思いだった。僕はシシ様の命を削ってしまったのか。

 ふらつきそうになるのを、何とか堪える。話はまだ途中だ。自分のしたことの顛末を僕は知らなくてはならなかった。


「だからシシ様は、瀕死となったあたしを見た時、憐れむと同時にこうも思ったんです。このまま無為に朽ち果てるのを待つよりも、目の前の娘を助けるために自らのすべてを使い果たしてしまったほうがはるかに立派な最期だろう、と」


「……立派な最期?」


 目を剥く僕に、坂ノ下さんがつらそうな表情で頷く。


「ただでさえ瀕死の人間を助けるのは難しいのに、その上、シシ様は弱り切っていましたから……。それをおこなうと、あたしの命を助ける代わりにシシ様が力尽きて最期を迎えてしまうのは──跡形もなく消えてしまうのは確実だったんです」


「そんな……」

 僕は絶句した。急にひどい風邪でも引いたかのように背筋に悪寒が走る。しかし、ややあっていまの話の矛盾点に気がついた。


「ちょっと待って……。今年の春、坂ノ下さんはシシ様に命を助けられたんだよね。でも昨日までちゃんとシシ様も一緒だった。一体化とかのためにお面という実体こそ失っていたものの、最期なんて迎えていなかったよね……!?」


「それは、シシ様にとっても予想外のことだったんですが──」


 すがるように訊いた僕に対して、坂ノ下さんは努めて冷静な口調で答える。


「あたしの命を助けるために自らの在りようを変えたまさにその時、シシ様の内によぎるものがあったのです。そしてそれがブレーキのような働きをした結果、シシ様とあたしの一体化は中途半端なものになってしまいました。昨日までの奇妙な共存状態のことです。しかしそれは、シシ様があたしの命を()()()()()()()()()()()()()()()意味していました」


「……!?」


「あたしは身体的には傷一つなくなりましたが、霊的に見るといつまた命が流れ出てしまうか解らない状態だったんです。シシ様のほうもお面という実体を失った上に、あたしとの一体化までもが中途半端なものとなり非常に不安定な存在となっていました」


「……」


「もちろん、そのような状態がいいわけがありません。また後戻りができるような状態でもなかったので、もはや前へと進むしかありませんでした。そうしなければいずれ共倒れになるのは目に見えていたんです。だからシシ様はあらためてあたしの命を助けようと考えてくれたのですが……どうしても思い切ることができませんでした」


「……シシ様の内によぎるものがあったって言ってたけど、それのせい?」


「はい」


「それっていったい──?」


「あたしの命を助けるために最期を迎えようとしたシシ様の内によぎったものは……」


 坂ノ下さんは、まっすぐに僕を見た。


「『もう一度、和雅に会いたい』──という未練でした」


「未練……? 僕に……?」


「シシ様にとって桜小路さんは特別な存在だったんです。山の中に落とされても見つけてもらえなくても……そのことで怒ったり嘆いたりしたことはあっても、いざ最期を迎えるとなった時にはどうしようもなく思い出してしまうくらいに」


「……」


「大樹のある広場で、シシ様があなたとの出会いを熱っぽく語っていましたよね。あれはシシ様の想いそのままの言葉だったんだと思います」


「……」


「シシ様自身も気づいていないようでしたが……あたしには、あれは愛の告白のようにしか聞こえませんでした」


「……」

 僕は曖昧に頷いた。あの時、シシ様に特別な存在だと思われていることは僕だって気づいていた。……しかしシシ様のそれは、僕が考えていた以上のものだった、ということだろうか。


「……とにかくそういうことだったので、あたしたちの奇妙な共存状態はしばらくつづくことになりました。けどさっきも言いましたが、それは決していいことでなかったんです。ただやはり、シシ様は思い切れませんでした。それは桜小路さんに対する未練そのものだけが理由ではなく、その未練が残ったままで再びあたしの命を助けようとしても、同じ理由で失敗してしまうかもしれないと恐れたからでもあります。三度も四度もくり返せるようなことではなかったので、シシ様はしばらく迷いの日々を送らざるを得なくなりました」


「……」


「けど転機は訪れたんです、唐突に。──あの日、あの商店街で、桜小路さんと再会を果たしたから」


「……」


 言葉もない僕に、坂ノ下さんはふと何かを思い出したかのように小さく優しげに微笑む。


「大樹のある広場でシシ様は、桜小路さんに殴り掛かった理由を〝私を見つけられなかったことや私に気づかなかったことに対する仕返し〟だとか言ってましたけど、実はそうではなかったんですよ。あの商店街で桜小路さんを見掛けた瞬間、シシ様は何も考えてはいませんでした。気づいた時にはもうあたしを操って走り出していたんです。それでそのままの勢いでたぶん抱きつこうとしたんだと思うんですけど、寸前で我に返って恥ずかしくなって……シシ様自身もよく解らないうちに殴るって選択をしてしまった、というのがことの真相だったんです。──仕返しというのは、シシ様があとになってそういう側面もあったに違いないって考えた理屈にすぎなかったんですよ」


 言われて、僕は思わず下顎を撫でた。そこにはもう痛みはない。あるのは懐かしさと切なさだった。


「桜小路さんとの再会をシシ様は本当に喜んでいました。それはそうですよね。桜小路さんにもう一度会いたいというのがシシ様の未練だったんですから。ただ……」


 坂ノ下さんはそっと表情を引き締める。


「それでもう未練がなくなったのかといえば、そうとも限りませんでした。再会を果たしたがためにかえって新たな未練──もう離れたくないなどの未練が生まれてしまったかもしれなかったからです。シシ様は、お面を外したいと訴えるあたしとそれに協力すると言った桜小路さんを見ながら申しわけなく思っていたんです。あたしたちの共存状態を長引かせてもいいことはないというのもありましたし」


「……」


「けど、桜小路さんが大樹のある広場でシシ様のことを『唯一の友だちってくらいに大切なものだった』『山の中に落としてしまったあとも一年もの間探し回っていた』と言った時、桜小路さんに対するわだかまりが解けた時──シシ様の心はふっと軽くなって、そしてそれがきっかけとなりシシ様はあらためてあたしの命を助けようと覚悟を決めてくれたんです」


「……」


「とはいえ──シシ様の内には新たな未練が生まれてしまっているかもしれず、それはやはりどうにかしておかなければなりませんでした。でないとあたしの命を助けようとしてもまた同じ失敗をくり返すだけ、という可能性が高かったからです。だからシシ様は、自分の内で未練となってしまいそうなもの一つひとつに決着をつけていこう、と考えたんです」


「決着……」


「あの大樹のある広場でシシ様は最初、桜小路さんの言葉を何度か訊き返していましたよね。あれは単に確認したかっただけではなかったんです。その言葉を何度も噛みしめたかったんです。そうしておかないと未練が残りそうだったから」


「……」

 そんな事情があるとは露知らず、僕ははじめて聞いたシシ様の声を、天井から落ちた滴がトンネル内で響くような声なんて思っていたのだ。


「それから、あたしたちのいろいろな質問に答えてくれたこともそうでした。物事というのはできる限りはっきりとさせておいたほうがいいに決まっていますから。それはあたしたちにとってだけではなく、シシ様にとってもそうだったわけです」


「……」


「シシ様が自分の正体や出自を明かしたのもそうでした。あたしたちには──特に桜小路さんには知っておいてほしかったんです。自分が何者であったのかを」


「……」


「桜小路さんを逢引きに誘ったのもそうです。シシ様はずっとずっと前から、桜小路さんの生まれ育った町を桜小路さんと一緒に見てみたかったんです。途中で照れて〝そんなたいそうなものをしたいわけでない〟とか言い出しましたけど、シシ様は桜小路さんとそんなデートをしてみたいとずっと思っていたんですよ」


「……」


「そういえば──その前に桜小路さんは、あたしの顔にくっついた理由を教えてくれれば、それが解決されるようできる限りのことをするって言ってくれたじゃないですか」


「う、うん」


「それを聞いたシシ様は、こう思ったんですよ。〝陽菜の顔にくっついた理由を教えるわけにはいかないが、これを上手く利用すれば和雅を逢引きに誘えるのではないか″って。だからあの時あたしではなく、桜小路さんばかりに迫っていたんです」


「あれはそういう……」


「でも結局、あとで桜小路さんにツッコまれて、〝細かいことは気にするな〟って強引にごまかすことになりましたからあまり上手くいったとは言えなかったんですけど」


 坂ノ下さんはかすかに苦笑したが、すぐにそれをあらためて先をつづける。


「ともあれ、シシ様は桜小路さんとのデートを心から楽しむことにしました。──けど、あのデートはそのためだけではなかったんです。たぶん桜小路さんも気づいたと思うんですけど」


「……幼い頃、僕が相談していたことに道を示そうともしてくれていたんだよね」


 僕が噛みしめるように言うと、坂ノ下さんは丁寧な頷きで応えた。


「そうです。シシ様は桜小路さんの悩みごとをそのままにはしておけなかったんです」


「そっか……」

 僕は呟いたが、それを山の風がさらっていった。


 ややあって、坂ノ下さんが遠くを見るようにして言った。


「そうして……ついに昨日となりました。あの夏祭りと打ち上げ花火は、シシ様が桜小路さんと一緒にいってみたかった一番の場所なんですよ。だから、あたしに眠っていてくれと頼みましたし、だから……」


 坂ノ下さんの声が震えた。これまで小さくなったり低くなったりすることはあっても、決して震えることはなかったそれが。


「だから……シシ様は、あの場所でなら最期を迎えられると思ったんです」


「──っ」


「そして実際、あたしの命を助けるためにシシ様は最期を迎えました。シシ様のすべてが光の粒のようになってあたしに降り注ぎ、今度こそあたしとシシ様の一体化は完全に成功したんです。その時、シシ様の内に未練がよぎることはありませんでした」


「……」


「ただ……あたしの命を助ける代わりにシシ様が跡形もなく消えてしまうのは確実だと思われていたんですが、それは少しだけ違っていました。シシ様のここ最近の記憶や強い想いだけはあたしの中に残ったんです。その理由は解りません。シシ様もそうなるとは思ってもみなかったことなので、あたしに解るはずもありません。けど……そのおかげで、あたしはいまこうして桜小路さんにこれまでの経緯をお話することができたんです」


「……」


「シシ様はあたしたちにいくつかの隠しごとをし、いくつかの嘘をつきました。桜小路さんが用意してくれたお面でいいような振りをしたこととか。──けどそれらはすべて、あたしたちに余計な心配を掛けないためだったんです」


 それきり……坂ノ下さんは黙り込んでしまった。すべてを伝え終えたということなのだろう。


 僕は。


 呆然としていた。


 とてもではないが、受け止め切れなかったのだ。


 どれくらい二人して突っ立ったままでいただろうか──


 僕はまだぼんやりとしたままながら、ふと思い出したものがあったのでナップザックを下ろした。中身は昨日のままであり、もしかしたら必要になるかもと念のために背負ってきていたのである。しかし僕が取り出したのは、使われずに終わったお面ではなかった。


「これ……記憶にあったと思うけど、シシ様が坂ノ下さんにって。身体を貸してもらったお礼だって」


 それはオコジョっぽい、手のひら大のぬいぐるみだった。


「そんな……お礼、だなんて……命を助けてもらったのは、あたしの……ほうなのに……」

 そう言った坂ノ下さんの瞳が、口元が大きく歪んだ。彼女はぬいぐるみを握りしめてその場にくずおれ──泣き出した。大泣きだった。堪えに堪えていたものが一気に溢れ出してしまったようだった。


「こんなことになるなら……もっと食べさせてあげればよかった。ウエストなんて言ってないでもっと好きなだけ食べさせてあげればよかった……!」


 その姿を見て、僕はようやく「しまった」と思った。いくら渡すべきものとはいえ、何もこのタイミングでそれをすることはなかったか、と。どうも脳が緩慢になっているらしく、自分のすべてが鈍くなっているように感じられた。


 ただ、さすがに泣き崩れている少女を放っておいてはいけないことくらいは解った。僕は坂ノ下さんのそばにしゃがみ込み、その頭をそっと撫でた。


 やがて──坂ノ下さんがボソッと呟いた。


「あたし……いままで命の大切さとか生きる意味とか真剣に考えたことがありませんでした。けど、これからは違います。ちゃんと考えていきたいです。ちゃんと考えなくてはいけないんです」


 その声は涙に濡れていたが、静かな決意をも漂わせていたのだった。

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