終幕 打ち上げ花火のように
「さて、堅苦しいのはここまでにしようか」
話が一段落すると、シシ様が軽く両手を叩き合せた。
「そうですね」
僕はまだ胸の中で熱い余韻を感じつつも、素直に同意を示す。
「いただいたものをこれ以上冷ましてしまうのも、もったいないですし」
「うむ。──では、この焼きそばというやつからいってみるとするか」
「箸、大丈夫ですか?」
「心配ない。毎日、陽菜が使っているのを見ていたからな」
自信ありげにシシ様が答えた。実際、その手つきに問題はなかった。
「どうですか?」
箸先がお面の中へと消えたのを見て、僕は訊ねた。
「……脂ぎっているな。しかし、確かソースというのだったか、この刺激的な調味料がそれを美味さへと強引に高めている」
どうやらお気に召したらしく、シシ様は結構なスピードで箸を動かして瞬く間に完食してしまった。
「和雅よ、たこ焼きというのはこれだったか? 祭りには焼きそばとたこ焼きが欠かせないと陽菜が言っていたのだが」
「そうです、その丸っこいのです」
「よし。ではいただくとするか──おお、中のトロっとした食感とたこのコリっとした食感が合っているな。美味い」
そう感想を述べると、シシ様はひょいひょいと爪楊枝を動かして次々とたこ焼きを口元へと放り込んでいった。
「次は甘いものが食べたいな。和雅よ、どれがいいと思う?」
「え、じゃあ……綿あめを。その袋に入っているやつです」
「これか。ほほう、面白い。ふわふわとしていて食するとジュッと溶けてしまうのだな。うむ、美味い。さてお次は──」
そんな感じで、みるみるうちに出店からもらった品々が消えていった。当初、僕たちだけでは到底食べきれない量だと思っていたのだが……もしかしたらこれは足りないかもしれない。ちなみに、僕はまだ最初の焼きそばをつついている最中である。
「え、えーっと、そんなに食べていいんですか? ほら、坂ノ下さんがウエストを気にしていたじゃないですか」
いま食べているのはシシ様だが、それを消化したり吸収したりするのは坂ノ下さんの身体に違いない。
「せっかくの祭りということで、陽菜からはちゃんと許可が出ている。とはいえ、ほどほどにしてくださいと釘をさされてもいるので気をつけないといけない」
「……」
シシ様は真面目におのれを戒めていたけれど、僕にはその釘がとっくに抜けているようにしか見えなかった。ただ、楽しい雰囲気を損なうのも気が引けたので黙っておくことにした。
「ふぅ、食った食った。──今度は何か遊びがしたいな」
満足げに大きく吐息を洩らしたあと、シシ様はそう言った。僕たちの両脇に山と積まれていた商品はすでに跡形もなく消えていた。そのほとんどを平らげたのはシシ様である。僕は坂ノ下さんに申しわけなくなった。
「そ、それじゃあ、境内のほうに戻りましょうか」
「うむ」
シシ様が手を握ってくる。それで僕は、立ち上がった自分が無意識の内に手を差し伸べていたことに気がついた。遅れて羞恥に襲われたが、もちろんいまさら引っ込めるわけにはいかなかった。
僕はシシ様の手を引いて、出店と出店の間を抜けた。
境内ではすでに祭りの提灯と出店に備え付けられた裸電球が明かりを点していた。人込みもさっきより増しているようだ。はぐれないようしっかりと手を握り直しながら、僕は目についた金魚すくい屋へと向かった。ただし、この町の人の出店ではないことだけはちゃんと確認していた。大人への階という話をしたあとではあるけれど、やはり余計な我慢はしたくなかったし、何よりいまの僕たちの邪魔を誰にもしてほしくなかったのである。
「ふむ、どうすればいいのだ?」
「いまからお手本をお見せしましょう」
ポイを手にして僕は言った。別に得意だったわけではなかったけれど、ついカッコつけてしまったのである。しかし──
「金魚すくいというからてっきり金魚をすくうのかと思ったが、その輪っかに張ってある薄い紙を金魚に破らせて楽しむ遊びだったのだな」
「……いえ、金魚をすくって楽しむ遊びです。すみません」
僕は悪いお手本しか見せられなかった。
そのあとはシシ様も浴衣の袖をまくって参戦し、お互いに結構な回数をこなしたのだが、結局一匹もすくえなかった。
穴の開いたポイを見つめてシシ様がぼやく。
「これは箸のようにはいかなかったな。それにしても、今日といいこの間の釣りといい、私は魚には縁がない」
金魚すくい屋の前から撤退した僕たちが次に向かったのは射的屋であった。
最初はろくに当たらなかったのだが、僕もシシ様も途中からは段々と当てられるようになった。しかし、倒れない。どの的も台に接着されているんじゃないかというくらいに倒れなかった。
「むう……」
不満そうに息を洩らすシシ様にチョコバナナを買って機嫌を直したのち、僕は近くにあった輪投げ屋へと足を運んだ。
「あれ……」
「むむっ……」
射的と同様に僕もシシ様も惜しいところまではいくのだが、どうしても完全には決まらなかった。
何度目かの挑戦にも失敗し僕が諦め掛けたところ、シシ様の最後の一投がこれまでになく絶妙な角度で景品の上へと迫り──そのまま綺麗に落下した。
「おおっ!!」
よほど嬉しかったのか、シシ様は僕の腕にしがみつき、ぴょんぴょんと跳ねた。
「やりましたね。おめでとうございます」
「うむ!」
揺さぶられながら僕が祝うと、シシ様が無邪気な声で応えた。
景品はストラップの付いた、手のひら大のぬいぐるみである。何かのキャラクターなのだろうか、オコジョっぽく見えるそれは結構可愛らしかった。僕と手を繋いで歩く一方で、シシ様はそれを目の前にぶら下げて鼻歌まじりに眺めていた。
「和雅よ。これは陽菜への土産としてくれ」
しかし、しばらくするとシシ様がそう言ってきたので僕は小首を傾げた。
「え、いいんですか? 気に入っているみたいですけど」
「うむ、気に入った。ただ私が持っていても仕方がないし、こうして身体を貸してもらった礼もしておきたいからな」
「そうですか」
お礼というのであれば、僕に止めるべき理由はない。差し出されたぬいぐるみを受け取って丁重にナップザックの中へとしまった。
「さて……そろそろ時間かな」
ポツリと、すっかり暗くなった空を見上げてシシ様が言った。
「そうですね」
楽しい時間というものはあっという間に過ぎ去ってしまう。確認すると八時近くだった。もうすぐ打ち上げ花火が開始される。
「ここからでも見えるんですが、せっかくなのでもっとよく見える場所までいきませんか?」
花火は、昨日、一昨日と遊びにいった小川の近辺で打ち上げられる。そこと境内との間には神社の周囲を覆う鬱蒼とした木々があり、場合によっては花火の下のほうが切れたように見えてしまうのだ。
「ほう、それはいいな」
という返事を受けて、僕はシシ様を境内の奥──本殿のほうへといざなった。
先に進むほどに出店は姿を消し、喧噪も遠のいていく。提灯も吊るされなくなってしまうのだが、本殿前の広場にはところどころに結び灯台の火が揺らめいているので明るさには困らなかった。
広場に入ると、左手の奥のほうから古風な楽曲が聞こえてきた。そこには白い上品な垂れ幕が張り巡らされており、納面祭はその向こう側でおこなわれているのだった。
「少し覗いてみますか?」
厳かな雰囲気と垂れ幕のせいで入りづらい印象を受けるが、別に関係者以外立ち入り禁止となっているわけではない。
「いや、いい。ここしばらくは来ていなかったとはいえ、その前は毎年毎年それこそ何百年も通っていたからな。いまさら見たいとは思わないよ。それに、あまりいい思い出もないしな」
「そうですか」
僕は頷いた。大樹の下で聞いた話と今日ここに来てもあまり納面祭について触れない態度から、何となくシシ様の感情は察していたのである。ただ、一応確認だけはしておこうと思ったにすぎなかった。
「では、こちらへ」
白い垂れ幕を背にして進み、僕は本殿の右手へと回った。
本殿の右脇から小川が流れる方角を見ると、神社の周囲を覆う鬱蒼とした木々が一部分だけなくなっているのが目に入る。何でも僕が生まれるずっと前に落雷があり、ここだけ焼失してしまったそうである。木々には悪いが、そのために花火を見るには打ってつけの場所となっていた。
別に隠れスポットというわけではないのだけど、僕たちの他に誰もいないのは本殿前の広場で納面祭がおこなわれているためだと思われた。あの厳かな雰囲気が自然と人避けの役目を果たしているのだろう。僕も何となく遠慮してしまっていたので、ここで花火を見るのは幼い頃以来となる。
境内と木々との境目には古びた石造りの塀があった。塀といっても跨げるくらいの高さであり、僕たちはそこに並んで腰掛けた。
「……納面祭が終わったな」
「みたいですね。ということはそろそろですね」
本殿の向こうから小さく聞こえていた楽曲がいつの間にか止んでいた。納面祭の終了は夏祭りの終了でもある。ただ夏祭りのほうは形ばかりの終了でこのあともしばらくつづくのだが、ここで一区切りつけるのは確かである。
すなわち、打ち上げ花火のはじまりだ。
「今日、母親から聞いたんですけど、昔は納面祭の終了を小川まで人が走って知らせにいっていたそうですよ。いまは携帯端末があるのでそんなに時間は掛からない」
はずです──とつづけようとしたら、ドンッと腹に響く大音が鳴った。
木々の切れ間から夜空を振り仰げば、そこに大輪の花が咲いていた。
無数の赤い火花の閃きが、大きな花弁を描き出している。その次の瞬間にはパパンと先ほどよりも軽い音が連続し、小振りの花々が夜空を美しく彩った。
赤、青、緑、白。
正円、楕円、幾何模様、曲線。
いくつもの花火が色も形もさまざまに咲き誇る。
それは、夜空を美しく染め上げる花園のようだった。
「……」
僕はしばらく惚けたように夜空を眺めていたのだが、ふと気がつくと手の甲にシシ様の手が重ねられていた。僕はそっと手を返して、きゅっと握った。
シシ様は何も言わず、僕も何も言わなかった。
僕たちはただ、光り輝く夜空を見上げていた。
やがてこれまでにないくらいに連続して花火が打ち上がり、夜空を埋め尽くさんとするかのように煌めいて──儚く消えていった。
静寂がゆっくりと降り、夜空の花園は閉園となった。
「ああ……綺麗だった。本当に綺麗だった」
どれくらい経っただろうか、シシ様が夜空を見上げたまま呟いた。
僕は黙って頷いた。
「これで思い残すことは何もない。それでは約束を果たすとしようか」
その声はとても穏やかなものだった。
だから僕は違和感を覚えることもなく、繋いでいた手を離してナップザックの中からお面を取り出そうとした。
ところが、思いのほか強くその手を握られたので僕は思わずシシ様のほうを振り向いた。
「シシ様?」
「おまえに会えてよかった。おまえと一緒に過ごせてよかった。私は──」
透きとおるような声でシシ様が言った。
「幸せだったよ」
「ど、どうしたんですか、いきなり?」
「和雅よ、達者で暮らせ。陽菜にもよろしくな」
困惑する僕の目の前で、突如、シシ様が淡い光を放ちはじめた。
その光はやがて無数の粒となり、ぱあっと広がりながらひときわまばゆく輝いたかと思うと、舞い散る花びらのように坂ノ下さんの身体へと降り注ぎ──消えてしまった。
その光景は、いま見たばかりの打ち上げ花火のようだった。
美しく、儚く、消えてしまった。
シシ様は、いなくなってしまった。
「シシ様……?」
状況がまったく飲み込めず、僕は呆然となる。
光が消えてしまったあとには、目鼻立ちの整った少女の顔があった。はじめてこの目で見る坂ノ下さんの素顔であった。
坂ノ下さんは大きな瞳からボロボロと涙を零していた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ありがとうございます、シシ様……」
彼女がどうして泣いているのか、謝っているのか、そして感謝しているのか、僕には皆目見当がつかなかった。
ただ……シシ様が坂ノ下さんの顔から外れただけ、という単純な状況ではないらしいことは嫌でも察しがついた。
さっきからずっと、僕たちは手を繋いだままだった。離しはしなかった。なのに、この手の中で小刻みに震えつづけるそれはもう。
シシ様の仕草ではないのだった。
□ □ □
結局、坂ノ下さんは泣きやむことなく、この場を去っていった。
僕はショックを受けすぎていて、慰めることも質問することも送ってあげることもできなかった。
しかし坂ノ下さんは去り際に「ごめんなさい。いまは混乱していてちゃんと説明できそうにありません。詳しいことは後日お話します……」と涙声で言い置いていったので、少なくとも僕よりはこの状況について何かを知っているようだった。
それからかなり長い間、僕は神社の片隅で石灯籠と化していた。
夏の夜にしてはずいぶんと冷たい風が吹き、僕はようやく我に返った。のろのろとナップザックに手を入れて、うちから持ってきていたお面を取り出す。
「シシ様……?」
祈るように声を掛けてみたが、応えはなかった。
恐怖にも似た焦燥感と喪失感がこみ上げてきて、僕は叫びそうになった。




