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第二十四幕 大人への階

 七月の末。

 ついに夏祭りの日がやって来た。


 平山神社の周辺は、神社前の通りも境内もすでにびっしりと出店が並んでいる。綿あめ、焼きそば、フランクフルト。射的、型抜き、金魚すくい。


 人々もごった返している。ここの住人だけでなく、近隣の町からも遊びに来ているからだろう。


 この夏祭りは、打ち上げ花火で夜空を飾ってフィナーレとなる。田舎としては珍しい大仕掛けに、今日に限っては近隣から人々が訪れるのであった。──ちなみに、辺ぴな田舎町だけでは賄いきれない費用は我が桜小路家が積極的に支援しているそうだ。


 現在、夕方の五時。夏なのでまだ明るく、あちこちにぶら下がっている提灯もまだ灯ってはいない。花火が打ち上げられるのは夜の八時頃なので、もうちょっとしたらいっそう混んでくることだろう。


 鳥居の横に立つ僕は、ふと境内の奥にある本殿のほうへと目を向けた。ここからではまったく見えないが、その本殿付近では納面祭の準備が粛々と進められているはずだった。しかしおそらくそこには、境内の盛況ぶりは伝わっていないだろう。


 毎年そうだけど、奥まったところでおこなわれる堅苦しい伝統行事に興味を示す者は少ないのである。また、納面祭の妨げにならぬよう本殿付近には出店が並んでいないことも、それに追い打ちを掛けているに違いなかった。


 もともとは納面祭のほうがメインで、夏祭りはそのついでに開かれていたらしいけど、いまではすっかり主役が交代している。お菓子にオマケをつけたら、オマケのほうが人気になってしまったというパターンだ。


 境内の奥から視線を戻すと、背中のナップザックが少しずれたので両手で直した。この中には先日うちの蔵で探し出したお面が入っている。いつもの鞄ではなくナップザックにしたのは、今日は人込みを歩くので両手が自由のほうがいいだろうと思ったからである。


 顔を上げると、鳥居に向かってくる三人の男子と目が合った。すれ違いざま、会釈される。僕も慌てて会釈を返した。小学校の時の同級生だ。といっても、特に親しかったわけではない。……この田舎町の同級生たちはみな、「桜小路家」の跡取り息子とは一定の距離を保っていたからである。

 帰省後、同世代の人間がいくような場所にはほとんどいっていなかったので、今日まで会うことはなかったがさすがにここではそうもいかなかった。


 もうすぐシシ様と坂ノ下さんがやって来るが、それもいままで以上にたくさんの人に目撃されることになるだろう。しかもその光景は、シシ様の姿を認識できない第三者にしてみれば、僕と坂ノ下さんが二人きりで会っているようにしか見えないわけである。夏休みが終われば東京に戻る僕はまだいいが、ここに居つづける坂ノ下さんは二学期がはじまった時に困ってしまうかもしれない。


 昨日、そのことをちょっと聞いてみたら、坂ノ下さんは「構いません」と明るく笑っていた。僕なんかよりもよっぽどしっかりしているようだった。


「和雅。少し遅れてしまったか。人を操りつづけるというのは存外難しくてな」


「……」


 僕は目をぱちくりとした。それは坂ノ下さんの声に間違いなかったのだが──

「え、どうしてシシ様の口調を真似してるの?」


「いや、そうではない。いま喋っているのは私──シシだよ。陽菜の意識にはちょっと眠ってもらっている」

 紺色の浴衣を身にまとった少女は自らの顔を指差した。


「えっ? えっ?」


「観光案内もこれでおしまいだからな。今日は私と和雅だけにしてはもらえないか、と陽菜に頼んだのよ。もちろんみなでいることも非常に楽しかったが、一度くらいはあの山の中を遊び回っていた頃のように、私とおまえだけで出掛けてみたかったのさ」


「は、はあ……」


「陽菜は、私の頼みを快く受け入れてくれたよ。不安もあっただろうが、そんなことはおくびにも出さなかった。性根が据わった──そして、優しいおなごよ」


「……」

 坂ノ下さんの了承を得ているのなら、僕がとやかく言う必要はないだろう。ここ数日間の接し方からしてシシ様が坂ノ下さんの身体を不当に扱うとも思えないし。そもそも人を恐がらせたくないという理由でずっと黙りつづけるようなシシ様なのだから。


「えーっと……坂ノ下さんの意識には眠ってもらっているって言ってましたけど、つまりいま坂ノ下さんの身体を動かしているのはシシ様ってことなんですか」


「そういうことだな」


「……」

 グーパンチをもらった時と同じような状態か、と僕は思った。あの時も坂ノ下さんはシシ様に身体を操られていた。ただ前回と違うのは身体の持ち主たる坂ノ下さんの意識が眠っているという点だった。


「以前にも言ったと思うが、私と陽菜は影響し合っている。陽菜がものを食べれば、その味は私にも伝わってくると。そして、それは食事に限ったことではない」


 少しためらいを見せたのち、シシ様は両手を伸ばして僕の右手を握りしめた。

「こうして和雅に触れれば、そのぬくもりを感じることもできるのだ」


「あっ、あの……!」

 僕はうろたえた。こんな状況にはまったくもって慣れていないからである。


「ああ……またこうしておまえに触れることができるとはな」


 シシ様がプニプニと僕の手の感触を確かめる。その声はとても嬉しそうだった。何と返していいのか解らず、僕はされるがままになる。


「ま、まあ、おまえを殴った時や、そのあと陽菜がおまえの手を取った時にも感触は伝わってきていたはずなのだが……ほ、ほら、あの時は私も冷静ではなかったからな。──しかし、ずいぶんと立派になったものだ。一緒に山の中を遊び回っていた頃はあんなにも小さくて頼りなげであったというのに」


 シシ様の述懐を聞きながら、僕は「ど、どうしよう?」と考えていた。


 こうしてシシ様に手を握られていることは恥ずかしいけれど、決して嫌ではなかった。しかし第三者には、僕と坂ノ下さんが手を繋いでいるように見えてしまうのだ。坂ノ下さんは「構いません」と明るく笑っていたけれど、ここまでの状況は想定していなかったように思う。かといって、眠っている坂ノ下さんを叩き起こしてお伺いを立てるというのもひどく無粋な気がした。


「そ、そろそろいきましょうか」

 僕は意を決した。手を繋いだまま、シシ様に先を促したのである。


 坂ノ下さんには悪いが、こんなにも嬉しそうにしているシシ様から手を離すことなど僕にはできなかった。……人の噂も七十五日って言うし、あとのことはあとで考えよう。

 ──それに予感というか本能というか、何となくこの手を離してはいけないような気がしたのである。


「うむ!」


 何処か子供っぽく元気に応じるシシ様の手を引いて、僕は境内へと足を踏み入れた。


 神社前の通りにも結構な数の出店が並んでいるのだが、敢えてそちらのほうにはいかなかった。比較的、地元の人々による出店が多いからである。


「おおっ、これが夏祭りか。にぎやかで華やかだな。こうして間近で見るのははじめてだ」

 境内を見渡してシシ様が感嘆した。


「えっ、はじめて……? ここ何代かはうちに女性が生まれなかったからその機会はなかったと思いますが──その前もですか?」


「うむ。おまえは知らないようだが、実は桜小路家の屋敷とこの神社の裏手とを繋ぐ小道があるのだよ。代々、桜小路家の女はそれを使って納面祭に参加しておったのだ」


「へえ、それは知りませんでした」

 確かに神社の裏手から本殿に向かったのなら、この境内の様子を見ることはできなかっただろう。


「しかも、桜小路家の女は真面目なやつばかりでな。納面祭が終わったあとにちょっとくらい寄ってもいいだろうに、どいつもこいつも夏祭りのほうには見向きもせず、さっさと来た道を帰ってしまうのよ。まったく行儀のよいおなごたちであった」


 シシ様が呆れた声で皮肉を言った。──いまと違って、昔はそういうのに厳しかったのだろう。


「だからいつか──」

 シシ様が握った手に、きゅっと力を込めた。


「この目で夏祭りを見てみたいと思っていたのだ。──もう無理だと諦めた時もあったが、まさかそれが叶う日が来ようとはな。しかも一緒にいるのが和雅だなんて……夢でも見ているようだよ」


「シシ様……」

 付喪神たるシシ様は、その気になりさえすれば桜小路家の女性を操ることも自身だけで飛んでくることもできたはずである。しかし、恐がられたくない恐がらせたくないという気持ちからいままでずっと我慢してきたに違いない。


「夢じゃありませんよ。今日は思う存分楽しんでください。いきたい出店はすべて網羅するくらいの勢いでも構いませんよ?」

 僕は空いているほうの手で胸を叩いた。


「本当か!」

 反射的に声を輝かせたシシ様であったが、すぐにそれを心配そうなものに変える。


「いや、しかし和雅よ……こういうところは通常より高くつくと陽菜から聞いたぞ。そもそもこの数日でおまえには結構な負担を掛けているのではないか?」


「そんなことは気にしないでください。昔言ったかもしれませんが──僕はたぶん人よりもお小遣いやお年玉をもらっているはずですが、たぶん人よりもそれらを使っていないはずですから」

 ありがたいことにものに困る生活をした覚えがないせいか、僕にはあまり物欲がなかった。


「なので、軍資金のことはまったく心配いりません。まあ、バイトか何かで僕自身が稼いだお金だったらもっとカッコよかったんでしょうけど……とにかく大丈夫なので、ここはどうか遠慮なさらずに」


「──そうか。では、その言葉に甘えさせてもらおう」


「はい。いざ参りましょう」

 僕は少しおどけて言い、あらためてシシ様の手を引いた。


 人込みの合間をゆっくりと縫うようにして歩いていく。シシ様はきょろきょろとしながら「あれは何だ、あれは何だ」と興味津々にくり返す。どれもこれもが魅力的に見えているらしく、なかなか最初のものが決められない様子だった。


 そんなシシ様が妙に可愛らしくて、僕は思わず頬をゆるめてしまう。


 優しい時間は──しかし、不意に断ち切られた。


「おやおやおや、そこにいらっしゃるのは桜小路家のおぼっちゃんじゃねえですかい!」

 出店が立ち並ぶ一角から野太い声が上がったのである。


 見れば、ねじり鉢巻きをしたごつい焼きそば屋の店主がこちらに愛想よく手を振っていた。


 僕は嫌な予感を覚えつつも表面上は丁寧に会釈を返した。そして、すぐにその場をあとにしようとしたのだが、店主はごついわりに動きが素早く、あっという間に人込みを掻き分けて僕たちの元へと来てしまう。


「桜小路家にはいつもお世話になってますんで、これ、サービスさせていただきやす!」

 店主はパックに入った焼きそば二つを差し出してきた。


「い、いや、サービスって……」

 アイスコーヒーにお茶うけが付く程度ならまだいいが、これは商品そのものである。簡単に受け取るわけにはいかなかった。しかし、店主の野太い声とごつい身体に少なからず圧倒されてしまった僕はすぐに断ることができなかった。


「てえか、おぼっちゃんにカノジョができたって噂、本当だったんスね。じゃあ、これはサービスっていうかお祝いだ」


 笑顔を浮かべた店主は強引に焼きそばのパックを押しつけてきた。ここまでされてしまうと、もはや断るわけにもいかない。ただ、せめて代金は支払おうと僕は身じろぎしたのだが、それを察した店主が先に制した。


「いいっスよ、おぼっちゃん。お祝いですから。──んじゃあ、あっしはお客さんを待たせてるんで、これで!」


 呼び止める暇もなく、店主は再び人込みを掻き分けて去ってしまった。僕は溜息をつきたい気持ちを何とか堪えた。


 しかし、事態はそれで収まらなかったのである。


「おおっ、桜小路家のおぼっちゃん!」


「桜小路家の跡取り息子さんじゃあないですか!」


「和雅ぼっちゃん!」


 僕のバーゲンセールでもはじまったかのように、境内の各所からいくつもの呼び声が上がっていた。この賑わいの中でも、焼きそば屋店主の野太い声とごつい身体は十分に目立つものだったせいだろう。


 しかも、どういうわけだか例年とは違って境内の中にも地元の人々による出店がかなりあるようだった。


 右からも左からも、店主あるいは手伝いの人が手に手に商品を持って駆けつけては去っていく。みるみるうちに僕とシシ様の両手は塞がれてしまった。当然僕たちは手を繋いだままではいられなかった。


「……」

 周囲の注目が集まっている。地元の人々はすぐに理解して元の行動に戻ったけれど、近隣から来たと思われる人々はしばらくこちらに視線を向けたままだった。中でも、母親に手を引かれた小さな女の子が不思議そうに見つめているのが僕の胸には痛かった。


「あれにしようかこれにしようかと迷っていたら、あれもこれも走り寄ってくるとはな」

 シシ様が苦笑しながら、両手の品々を見下ろした。


「……」

 僕は一緒になって笑うことができなかった。つい黙ったままでいると数瞬後、シシ様があらためて声を掛けてきた。


「和雅よ、このままでは埒が明かない。何処かに座れるような場所はないものか」


「……じゃあ、こちらへ」

 僕は出店と出店のわずかな隙間を抜け、裏手へと出た。


 辺ぴな田舎町の神社にしてはここの境内はやたらと広い。たくさんの人々や出店が列をなしてもなお両端には十分なスペースが残っており、そこには休憩用として臨時にパイプ椅子が並べられていた。見つけづらいせいか、近くには誰もいなかったので四つの椅子を利用させてもらうことにした。僕とシシ様が隣り合って座り、商品の山はそれぞれ脇の椅子へと置いた。


「──すみません。好きなものを選べなくなってしまって」


「おまえが謝る必要はない。和雅は何も悪いことはしていないのだから」


「そうかもしれませんが……」

 僕は心の中で溜息をついた。──普段ならそれで大抵のことはやり過ごせるのだけれど、この時は上手くいかなかった。僕の手からシシ様の手が離れていった映像が網膜にこびりついていた。



「みんなはもっと知るべきだ。善意や親切だって、時には人を傷つけることがあるんだと」



 自分でも驚きだったが、僕はずっとずっと抑え込んでいた感情を吐露していた。


「こういうこともたまにであれば『ツイてる』で済ませておけるのかもしれません。けど、幼い頃から頻繁にくり返されたらそうもいかなくなるんですよ。周囲の目がどうしても気になるんです。仮に周囲が何とも思ってなかったとしても、僕の気が引けるんですよ。まるでズルをしているようだって。──それに確かに僕は桜小路家の人間だけど、桜小路家としてこの町に貢献してきたのはご先祖様や両親たちであって、僕自身は何もしていないんです。それなのにみんなニコニコと近づいてきて話し掛けてきて、そして僕に罪悪感を押しつけていくんですよっ」


「──和雅」


 ポン、と僕の頭の上に手が置かれた。


「つらかったな」


 優しく撫でられた。


「誰も、おまえの立場になって考えてはくれなかったのだな」


 優しく撫でるその手に、さらなる優しさが込められたような気がした。


「根が真面目なおまえのことだ。おそらく人の善意や親切に文句をつけるようなことは誰にも相談できず、いままでずっと一人で抱え込んできたのであろう?」


 そして、まるで包み込むようにシシ様はもう一度言った。


「つらかったな」


 僕は泣きそうになった。


「……す、すみません。つい興奮してしまって。贅沢な悩みだとも解ってはいるのですが」

 しかし僕も男だ、目から零れそうになるものを必死に堪えてそう言った。


「いや、構わんよ。他には誰もおらんし、それにそのことはずっと気になっていたのだ。幼い頃にもおまえは似たようなことを洩らしていたからな。しかしあの頃は何も言ってやれず、何もしてやれなかった……」


「いえ、そんな……。シシ様にはシシ様の事情があったわけですから」

 僕は首を細かく左右に振った。実際、ずっと気にしてくれていただけでも嬉しかった。──僕が山の中に落としてしまったあと、シシ様は再会した途端に殴り掛かるくらいに腹を立てる一方で、それでもそんな僕のことをずっと心配してくれていたのである。この町が嫌いだと言っていたことやいまの悩みをずっと忘れずにいてくれたのである。


「しかし、和雅よ」

 ややあって、シシ様はそっと僕の頭から手を離すと、出店の裏手越しに覗く空を見上げた。


「解っているとは思うが、おまえはズルをしているわけではないぞ。ただ人よりも恵まれているだけにすぎん。そのことでおまえが傷つく必要は何処にもない」


「……そう、かもしれませんが」


「それと、おまえは何もしていないと言ったが、いまは仕方のないことだろう? この時代、おまえくらいの年頃ではまだまだ子供扱いらしいからな。──しかし、いずれおまえは桜小路家の当主に、すなわち桜小路家の力を手にする男だ。その時が来れば何でもできるようになる。それまでの罪悪感が一気に吹き飛んでしまうくらいの大盤振る舞いでもしてやればいいではないか」


「でも、それは僕の力じゃなく、桜小路家の力じゃないですか……」


「ふむ。しかし身も蓋もないことを言わせてもらうが、人々がおまえに善意や親切を施すのも、かつて『桜小路家の世話』になったからだとか『桜小路家の跡取り』としてのおまえに期待しているからであろう? ならば、それらに対して桜小路家の力を行使することは何の問題もないと思うぞ」


「まあ……そのとおりかもしれませんが」


「理解はできても納得はできない、といった顔だな」

 シシ様は暮れはじめた空から僕へと視線を戻した。


「ではどうする? 今後は人々からの善意や親切はことごとく断っていくようにするか。そうすれば、もう傷つくことも自分は何もしていないのにと罪悪感を抱くこともなくなるぞ?」


「いえ……さすがにそれは」


「どうしてだ?」


「……みんな、僕を傷つけようとしてそういうことをしていたわけではないですし、経緯はどうあれ、人々からの善意や親切をいただいておきながらまるで恩に着ないというのもどうかと思いますし」

 僕が少し考えながら言った。


 すると、シシ様は大きく頷いた。


「そうだな。そのとおりだ。つまり──」


「つまり?」


「おまえがいままでやってきたことは()()()()()()()()()、ということだ」


「……」


「傷ついても罪悪感を抱いても、それでもおまえが周囲に対して取りつづけてきた態度は間違いではなかったのだよ」


 再び、シシ様が僕の頭を撫でてきた。



「人のために我慢できる──。和雅、おまえはちゃんと大人への(きざはし)を登っているのだよ」



「……」

 目から鱗が落ちるようだった。

 自分の感情を抑えて平静を装う態度に僕はマイナスイメージしか持っていなかった。だから、そういうことをしている自分は間違っているのではないか、無為なことをしているのではないかと鬱屈する日々を送りつづけてきたのだ。


 しかし、違った。僕が気づいていないだけでそこには光もあったのだ。


 ちゃんと意味もあったのだ。


 辺ぴな田舎町の一面しか見ていなかった、見ようとしていなかったことと同じような過ちを僕はこの件でもやらかしていたというわけだ。「大人への階を登っている」とシシ様は言ってくれたけど、僕はまだずいぶんと低い段にいるのかもしれない。


 もちろん、傷つくことも罪悪感を抱くことも感情を抑えることもなく過ごせるのならそのほうがいいに決まっている。たとえそれらが間違いではなかったとしても、やはり痛みや重苦しさは生じるわけだから。──しかし、人と人との関係はそこまで上手くできていない。さすがにそれくらいのことは僕でも知っていた。


「とはいえ、和雅よ」

 撫でていた手を下ろしてシシ様が言う。


「本当に我慢できなくなったのなら、その時は逃げ出しても構わないのだ。おまえがこの町を出ていってしまったこと、私はそれでよかったと思っている」


「……」


「ただし、逃げたままでは駄目だ。それは大人への階を転げ落ちたも同然の行為になるからな。──いつになってもいいが、おまえなりのケジメだけはつけなければならないぞ」


 シシ様のやんわりとした声が、僕の胸にじんわりと浸み込んだ。


「──はい」

 僕はシシ様のほうをまっすぐに見て頷いた。

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