第二十三幕 幼き円錐
観光案内の二日目。
いつもどおり午後に待ち合わせた僕たちは、戸口自然公園というところに来ていた。
自然公園と銘打たれるだけあって、だだっ広い敷地内には緑が溢れていた。噴水も花壇も休憩所もなく緑が溢れていた。……自然公園というか、自然すぎる公園であった。
まあ、森の近くに昔からあった広場を少ない予算でちょこちょこっと整えただけらしいので仕方ないのかもしれない。
それにしても、見るものが緑だけというのは観光案内としてどうなのだろうか──そんな疑問を抱きつつも結局僕がこの場所を選んでしまったのは、ネタ切れのためであった。
辺ぴな田舎町の悲しさで、もう他にいくべき場所がなかったのである。僕はわずか二日目にして追い込まれてしまっていた。明日はいったい何処にいけばいいのやら……。
ともあれ、いまはこの場所をシシ様に楽しんでもらわなければならない。
「新緑の季節もいいですけど、夏の日を浴びて光る緑もまたいいと思うんですよね」
僕は適当な木陰を見つけると、そこにレジャーシートを敷きながら言った。
〝うむ。生命力に溢れているようだな〟
「瑞々しいですね」
そうして、しばらくはみんなで森の緑を眺めていた。
夏の陽射しが降り注ぐだだっ広い野原では誰も遊んでいない。ただ、こうして森のそばに寄ってしまえばひんやりとした涼気の恩恵に与かれるので、実は結構過ごしやすいのだった。
不意に、遠くで子供たちの声が響いた。その姿は何処にも見当たらないが、公園の入り口には小さな自転車が何台か止めてあった。
「何でしょうか」
頬に手をやりながら、坂ノ下さんが小首を傾げた。相変わらず彼女の手はシシ様にめり込んでいるように見えているわけだけど、特に問題はないらしい。
「森の中で子供たちが虫取りでもしているんだろうね。何か大物でも捕まえたんじゃないかな」
「ああ、なるほど。──この森って別に危ない動物とかは出たりしないんですよね?」
「運がよければ、熊に会えるよ」
「ええっ!? それって運が悪いんじゃあ……」
「あはは、冗談だよ。この森に熊が出るなんて聞いたことないから」
「そうですか……ならいいんですけど。──熊。熊かぁ……。あたし、熊は当分いいやって感じなんですよね。ウフフ……」
坂ノ下さんが虚ろな笑い声を出した。
しまった。熊繋がりで、昨日のパンダさんを思い出させてしまったようである。
「え、えーっと、こんなものは如何でしょうか」
僕は慌てて鞄の中からいくつかの箱を取り出した。どんなに綺麗だろうと森の緑だけではいつまでも持たないということは解りきっていたので事前に用意しておいたのである。まさか、こういう流れでご登場願うとは思っていなかったけど。
〝おおっ″
「わあっ」
箱の中身を確認した女性陣から喜びの声が上がった。
僕が用意してきたのは、スイーツである。昨日、シシ様が甘いものには目がないと知ったので、午前中のうちに買い求めておいたのだ。
「すごい。いっぱいありますね。イチゴショートにチーズケーキ、モンブラン。ティラミスもありますね」
〝ほう、ほう〟
「一応、定番は押さえてみました。あとちゃんと憶えられなかったんだけど、外人さんの名前みたいのもいくつか。──あっ、ドライアイスも入っているから気をつけてね」
はーい、と応える坂ノ下さんの声にはすっかり生気が戻っていた。
「こっちの箱のは和菓子だよ。今朝いったお店はお菓子全般を扱っているところなんで、昔ながらのやつも買ってきたんだ」
「へえ。でも、この町にこういうお店ってあったんですね」
「いや、バスで隣町までいってきたんだ」
〝それはわざわざ済まなかったな。ありがたく頂かせもらうぞ。──ほれ、陽菜、早う早う〟
「では、いただきます」
森の木陰の下、女性陣は嬉しそうにスイーツを食べはじめた。
僕は水筒を取り出し、紙コップに麦茶を注いだ。こうなるともう観光ではなくピクニックと言ったほうが合っているような気がするけど、シシ様も坂ノ下さんも別に疑問を抱いてはいないようだった。きっと、これはこれでいいんじゃないだろうか。
やがて、虫網や虫かごを持った子供たちが森の中から出てきた。夏なのでまだ周囲は明るかったが、そろそろ家に帰る時間なのだろう。わいわい言いながら自転車に乗って去っていく姿を見て、僕たちも自然公園をあとにすることにした。
「え、えーっと、明日からの予定なんですが……」
帰り支度が済んだタイミングで僕は口を開いた。気は重かったのだが、言わないほうがマズいと判断したのである。
〝うむ。明日は何処に連れていってくれるのだ〟
「いやそれが、その……」
僕は頭を下げた。
「すみません。もう観光に適していそうな場所がなくなってしまいました。何ぶんここは辺ぴな田舎町でして……。この町限定ではなく、隣町でもいいと言うのでしたらまだいくつか候補もあるんですけど」
〝そうか。それは残念だな。──しかし私に隣町を見て回る気はないぞ〟
ここの納面祭で使われるお面として生まれ、そして付喪神にまでなったためか、シシ様は相変わらずこの辺ぴな田舎町に強いこだわりを見せる。
ただそうなると、僕は困るしかない。
「えーっと、じゃあ……どうしましょう」
〝ふむ──。どうやら先だって、私が「期待しているぞ」と少し強めに言ったために考え込ませてしまったようだな。すまなかった。正直、別に目ぼしい場所ばかりでなくてもいいのだよ。和雅の生まれ育ったこの町を見られればな。たとえば、おまえが遊んだ小川やおまえが通った学校などでも構わないのさ〟
「え、そんな場所でいいんですか……」
だったら、ネタ切れになることもないから僕としては大助かりだけど……。
「でも、特に面白いものなんてないと思いますよ?」
〝昨日の牧場からの帰り道も、田畑や野花、用水路などしかなかったがそれでも楽しく過ごせたであろう? ああいうのでもいいのだよ〟
「そうなんですか……」
〝うむ〟
どうやら僕は、シシ様の言葉を必要以上に真に受けていたらしい。
「でしたら明日からは、僕の馴染みのところを回るってことでいいですか?」
〝うむ。よろしく頼むぞ〟
「はい」
少し肩の荷が下りた僕は、しっかりと頷いたのであった。
□ □ □
かくして僕たちは、三日目から六日目に掛けては観光と呼ぶにはいささかそぐわないような場所を巡ることになった。
三日目にまず向かったのは、僕が通っていた幼稚園である。シシ様が学校などでも構わないと言っていたのをそのまま実行に移した形であった。
学校と幼稚園ではちょっと括りが違うような気がしたが、夏祭りまでにはまだ日数が残っていたためにここにも来てみることにしたのである。ちなみに、幼稚園の前に通っていた保育園も候補には挙げてみたものの、さすがにそちらに関する記憶はほとんど残っていなかったので特に話して聞かせることもないだろうと思い直し、やめておいたのだった。
「うわっ、こんなに小さかったっけ……」
幼稚園に着いた時、第一声を上げたのはシシ様でも坂ノ下さんでもなく、この僕だった。
桜小路家からそんなに離れた場所にあるわけではなかったが、僕の生活圏とは微妙にズレていたのでここに来るのは十年振りくらいであった。
広かったはずの庭も大きかったはずの滑り台も、いま目にするとかなり小さく見えた。ついつい感慨に浸ってしまう。
「まあ、それだけ僕が大きくなったってことなんだろうけど……」
〝和雅よ、一人で懐かしんでおらんで当時の思い出などを聞かせてくれんか。私は当時のおまえにはまったく女っ気がなかったことくらいしか知らんのだ〟
「ぐはっ」
むしろどうしてそんな余計な情報だけを知っているんですか──と思ったが、そういえば数日前、僕のお母さんがのたまってくれてましたね……。
「え、えーっと、そうですね、当時の思い出といってもそんなに憶えているわけではないんですが──」
胸の中で吐血しながらも、僕はがんばって平静を装った。
「取り敢えず、中に入らせてもらいましょうか」
幼稚園はすでに夏休みに入っているのだろう、園内に人影はなかった。しかし、門扉は開きっ放しになっていた。不用心と言えばそれまでだけど、田舎なんてよくも悪くもこんな感じである。僕は女性陣を連れて園内に入った。
窓から幼稚園の内部を覗くと、懐かしさがこみ上げてくる。もちろん、だいぶ様変わりしてしまっていたけれど、十年前の面影もちゃんと残っていた。
僕は目を細めつつ、語りはじめる。
幼稚園で習った歌や踊り、教わった漢字。先生に褒められたこと、注意されたこと。お絵描きの時間に「お父さんかお母さんを描いてみましょう」と言われて一生懸命にクレヨンを走らせたのに完成したのは「宇宙人」だったこと。
〝ほう、ほう〟
「へー」
どれもこれもありふれた話だったと思うけど、シシ様も坂ノ下さんも最後まで興味深げに聞いてくれた。
それから僕たちは自転車に乗って、幼稚園からさほど離れてはいない距離にある小学校へと向かった。
〝おおっ、これが話に聞いていたトーテムポールというやつか〟
目的の場所に辿り着くとすぐに、シシ様がそう声を上げた。
僕の通っていた小学校の校庭には鉄棒とゴールポストと体育倉庫と、そして異国の情緒溢れる──というか、異国の奇抜さ溢れる彫刻を施された柱状のものが立っていた。
シシ様に出会ったのは、僕がここに通っていた頃である。何かの拍子にこのトーテムポールについて話したのをどうやらシシ様は憶えていたらしい。
「どうして、こんなものが……」
校舎の二階くらいの高さがある怪しげな柱を見上げながら、坂ノ下さんがやや呆然としたふうに言った。
「いや、それが誰にも解らないんだよね。もちろん当時の僕たちも不思議に思って先生方に聞いて回ったことがあるんだけど、かなり古いものらしく、これが建てられた経緯を知っている人は誰もいなかったんだ。記録も残っていなかったみたい」
「えー……」
「何かの記念なのか、何処かからの寄贈なのかもさっぱりらしいよ。──これほどのものを卒業制作でつくるはずもないしね」
「謎の、トーテムポールですか」
「うん。この学校の七不思議ならぬ一不思議だよね。──だから当時、夜中にこのトーテムポールが動き出すっていうバカげた話もあったくらいだよ」
〝ほほう〟
とシシ様が呟きを洩らした。それが妙に意味ありげに聞こえたので、僕は思わず問い掛けてしまう。
「え、もしかしてこのトーテムポールに何か……霊的なものがあるんですか?」
〝いいや。これからは霊的なものは何も感じぬよ。ただ、異国のつくりであるせいか、独特の不思議さを感じるな、と思っただけさ〟
「ああ、そういうことですか。一瞬、これが噂通りに動き出すのかと思ってしまいましたよ。──まあ、そんなことはそうそう」
ありませんよね、とつづけようとして僕はそれを飲み込んだ。
付喪神たるシシ様を相手にそう言ってしまうのは何とも間抜けな気がしたのである。
一つ咳払いをして、僕は話題を転じた。
「昨日のお菓子を持ってきていますから、何処かに座って食べませんか」
ケーキなどの生菓子は昨日の時点ですでに完食されてしまっていたが、まだ和菓子のほうは残っていたのである。
僕たちは校舎の影に入り、腰を下ろした。そのあとは幼稚園の時と同じように僕の思い出話で時を過ごし、その日はそれにて終了となった。
四日目は、僕の通っていた中学校へと向かった。
私立清栄中学校はこの町の外れ、ほとんど隣町といっていいような位置に立っている。なので自転車でいくのはさすがに遠く、今回はバスを利用することにした。
坂ノ下さんが遠出をする際はいつもご両親の車に乗せてもらっていたそうで、つまりシシ様にとってはじめてのバス移動となった。彼女は自家用車とはまた違った乗り心地を十分に楽しんだようだった。
「ここから隣町のほうへ少し入ったところに、この間のお菓子を売っているお店があるんだけど、よかったら学校にいく前に寄っていかない?」
学校近くのバス停に降りると、僕は坂ノ下さんにそう提案した。きっと喜ぶだろうと思っていたのだが──
坂ノ下さんは軽くお腹の辺り押さえ、困ったふうに言った。
「実は、その……あまりお腹の調子がよくなくて、お菓子はちょっと……」
「え、大丈夫なの?」
「は、はい。たいしたことは……」
坂ノ下さんにしては珍しくモゴモゴと答えるので、僕は余計に心配になった。
〝和雅よ、案ずるでない。お腹の調子がよくないと言っても内部のことではなく、胴回りのことだからな〟
「し、シシ様っ!?」
坂ノ下さんが制止とも悲鳴ともつかない声を上げるが、僕にはまったくわけが解らなかった。
「胴回り?」
〝要するに、贅肉がついたということよ。昨夜、風呂上りに体重計とやらに乗ってからしばらく一人で騒いでおった。お菓子の食べすぎが原因だと陽菜は思っているようだな〟
「あー」
「な、何ですか、その納得したような声は。それにあたしのお腹を見ないでくださいー」
別にそこに視線を向けていたわけではなかったが、坂ノ下さんはお腹を両手で庇い、僕から隠すように半身となった。
〝いまの陽菜は、人間でいうところの成長期なのだろう? 何も気にすることはないと思うのだが。むしろもっと食べたほうがいいのではないか〟
「僕も気にすることはないと思うよ。第一、太ったようには見えないし」
「いえ、あの……シシ様には申しわけないですけど、やはり間食は控えさせていただきたいと思います」
〝まあ、仕方ないか。少しでも美しくありたいと願う女心は私にも解るからな〟
「すみません……」
坂ノ下さんは恥ずかしいのか気まずいのか、少し肩をすぼめた。
僕は雰囲気を変えるために明るい声を出して先導する。
「街路樹の向こうに見える建物が清栄中です。早速、いってみましょうか」
校門を抜けて校庭を見渡すと、陸上部が片付けをしている姿が目に入った。夏の気温はこれからピークを迎えるのでその前に練習を切り上げたのだろう。一方、エアコンが完備されている体育館からは活気に満ちた掛け声が響いてくる。
窓から覗いてみると、バスケットボール部が熱心に汗を流していた。
「夏休みに入ったばかりだというのに、がんばるなあ」
僕はずっと文化系クラブであった。こんなにも激しく動き回れる人たちには感心するしかない。
そこから僕のクラブ活動の話がはじまり、やがて昨日のように思い出話へと移っていった。
その後、坂ノ下さんがこの辺りにはあまり来たことがないというので帰る前に近くをぶらつくことになった。隣町のほうがいくぶんか栄えており、その影響は中学校沿いの道路にもギリギリ及んでいる。お洒落な店舗がいくつか立ち並ぶ通りを、僕たちはひやかしてから家路に着いた。
五日目は、うちの山から町の中へと流れ込んでいる小川まで出掛けていった。
一応、釣り道具も持っていったのだけれど、坂ノ下さんはまったくの未経験者で、僕も小さい頃にちょっとやったことがある程度だった。そして魚釣りは、結局「魚釣れず」と名前を変えて終了することになった。
最初はワクワクしていたシシ様だったが、まったくぴくりともしない釣糸にほどもなく飽きてしまったのである。
シシ様の興味は河原の石ころに移り、僕と坂ノ下さんで変わった形や綺麗な形、あるいは何かに似た形の石ころを探して回ることになった。やがてそれも脱線し、石積みをしたり石切りをしたり、まるで子供のように僕たちは遊んだ。
はしゃぎ疲れたので、靴を脱ぎ小川に足を漬けて休憩していると、どうしてだか僕の足先に小魚が集まってきた。
〝これなら餌ではなく、和雅を放り込んだほうが魚は釣れたのではないか?〟
シシ様がそんなことを言ったので、その日は僕と坂ノ下さんの笑い声が響く中で終わった。
六日目も、僕たちは昨日と同じ小川に来ていた。ただし、今日は一ヶ所に留まるのではなく、小川沿いを散策しながら下っていこうということになっていた。
夏の陽射しが川面で弾け、きらめきを放っている。その上を時折涼しい風が吹き抜けていく。日陰さえ選んでいれば、それほど汗ばむこともなかった。
小川は雑木林や田畑の間をゆっくりと流れ、僕たちはそれに沿って歩きながらことあるごとに足を止めた。木や花や昆虫──何も珍しくはなかったけれど、このメンバーでいるとたわいないものでも楽しかったのである。
〝和雅よ。案外、この町もそう悪くはないであろう?〟
帰り際、シシ様がふとそんなことを言った。
「……!」
それは何気ない口調だったけれども、僕はハッとせざるを得なかった。幼い頃、山の中であまりこの町を好きではないというような悩みを打ち明けていた記憶が蘇る。
「もしかして、この町の観光案内をしろと言ったのは僕にこの町のことを──」
フッ……と、笑みとも溜息ともつかぬ響きが頭の中に漏れ聞こえた。
〝いやいや。私はおまえの生まれ育った町をいろいろと見て回りたかっただけさ。他には特にないよ〟
「シシ様……」
ここ数日の楽しみようからして、シシ様がこの町を見て回りたかったというのは本当のことだったに違いない。しかし、それだけではなかったこともまた確かだろう。じんわりとあたたかいものが胸の中に染み渡っていく。
要するに僕は、この町の一面しか見ていなかったのだ。一面しか見ようとしていなかったのだ。円錐を真横だけから見て、それをただの三角形だと思い込んでいたようなものかもしれない。
「……そうですね。思っていたよりも悪くはなかったかもしれません」
万感を込めた僕の呟きに、シシ様が優しく頷いたように感じられた。
〝さて──〟
しばらくして、シシ様がゆっくりと切り出した。
〝明日はいよいよ七日目。夏祭りだな。楽しみにしているぞ〟
「はい。精いっぱい努めさせていただきます」
僕は力強く胸を叩いた。
──しかし、この時の僕はまだ知らなかったのだ。
シシ様がすでに悲しい覚悟をしていたことを。




