第二十二幕 蝉しぐれの下で
「おやまあ、これはこれは桜小路家のおぼっちゃんではないですか。その節はお世話になりました」
ロッジ風の食堂に入ってテーブルに着くと、注文を聞きに来た中年の女性がそう声を掛けてきた。
「こんにちは」
中年の女性には見覚えがなく、その節がどの節なのかは解らなかったのだが、とにかく僕は笑顔で挨拶しておいた。昔から我が桜小路家は自ら事業をおこなうだけでなく、この町の公共施設や商業施設への援助などもおこなっている。たぶん、そういう関係だとは思うんだけど。
「ごゆっくりどうぞー」
手際よく注文を受けると、中年の女性は明るい声を残して戻っていった。
「……」
僕は心の中で小さく溜息をつく。さすがに誰も彼もが声を掛けてくるわけではないけれど、やはり「桜小路家」という看板はこの町にいる限り何処にいっても目立つらしい。まあ、坂ノ下さんを連れていることについてあれこれ訊かれなかっただけでもよしとしよう。
〝相変わらず、桜小路家のおぼっちゃんとして扱われるのは嫌か〟
ややあってから、シシ様が心配するような声を響かせた。
「え、どうしたんです? いきなり」
〝そういう話になると、和雅の様子はいつも固くなるからな。喫茶店の時も図書館の時も先ほどもな〟
「……」
僕としてはちゃんと平静を装っていたつもりだったけど、シシ様の目にはそうは映っていなかったらしい。
〝幼い頃にも言っていたが、いまでもか〟
その憐れむような声を聞いて、僕はシシ様と山の中を駆け巡っていた頃のことを思い出した。あの頃はヒーローごっこばかりしていたけれど、時折シシ様を両手で持って、友だちに相談するかのように悩みごとを打ち明けたりもしていたのだった。もちろん、まさかそれをちゃんと聞いてもらえていたとは予想もしていなかったけど。
「ええ、まあ……ちょっと」
僕は返事を濁した。坂ノ下さんに聞かせる話でもないと思ったからである。
シシ様はそれ以上何も言わず、坂ノ下さんも微妙な空気を読んだのか何も訊いてはこなかった。
「お待たせしましたー」
という台詞とは裏腹に、それほど待たせることもなく先ほどの中年女性が注文の品を運んできてくれた。
気まずい沈黙が訪れ掛けていたところだったので助かった。
「美味しい。しっかりとした甘さなのにしつこくはないですね」
坂ノ下さんはガラスの器に盛られたアイスクリームを一匙すくったあと、そう感想を漏らした。
〝濃厚だが、まろやかでもある。陽菜が家で食べていたのとはまた別の美味しさよ〟
つづいて、シシ様も満足げな声を響かせた。どうやら本当にアイスクリームの味が伝わっているらしい。
〝ところで陽菜よ。その脇にある茶色いやつは何だ?〟
「ああ、これはええーと……何でしたっけ? ──お菓子、ですね」
〝いやさすがにお菓子であることは私にも解るぞ〟
当たってるけど遠すぎる答えに、シシ様が呆れた声を出した。
「ウェファースですね。小麦粉を板状にして焼いたものです。アイスクリームをつけて食べるんですよ」
度忘れしてしまったらしい坂ノ下さんに代わって僕が答えた。
〝そうかそうか。では陽菜よ、早速食べてみるのだ〟
「はーい」
それからも女性陣は何やかやと話に花を咲かせながら、さらに二つほど注文を追加した。一杯目のアイスコーヒーを飲みながら僕は目をぱちくりせずにはいられなかった。
〝そういえば、先ほどは聞きそびれてしまったのだが、あそこにあるオモチャのようなものは何だ?〟
一時間ほど過ごしてから食堂を出ると、シシ様が興味深そうに訊いてきた。
施設の入り口付近にゾウさんとパンダさんが並んでいた。遊園地やデパートのキッズコーナーなどにも設置されている遊具である。
「あの上に腰掛けて、硬貨を入れるんですよ。すると、あれが前後や上下に揺れるんです」
〝ほう……面白そうだな。陽菜よ、ちょっとやってみよう〟
「え」
坂ノ下さんが固まった。無理もない。あれは幼児向けの遊具であり、中学三年生が乗ったら変人コースまっしぐらだ。
「し、シシ様。あれはですね、小っちゃいお子さんが遊ぶためのものなんですよ」
凝固した身体を無理やり解きほぐし、坂ノ下さんが慌てて説明を補足した。
しかしシシ様は、どうしても遊具に乗りたいようだった。やや強引に話を進める。
〝私から見れば、陽菜も十分小っちゃいお子さんだからな。何も問題はないな。さ、早よう〟
「いや、それは……」
という坂ノ下さんの声は明らかに嫌がっていたのだが──そこはそれ、亀の甲より年の功、シシ様のほうが一枚上手であった。
〝昨日、陽菜はできる限りのことはします、と言っていなかったか?〟
「うっ……」
〝言っていなかったか?〟
「……い、言いました」
はい。それは僕も言いましたが、坂ノ下さんもこの観光案内に同意する時に言っていましたね
軍配は、こうしてシシ様に上がったのである。
渋々とパンダさんに腰掛ける坂ノ下さんを僕はただ憐みの目でもって見守るしかなかった。と思っていたら──
「桜小路さん、隣空いてますよ?」
「……」
「と・な・り、空いてますよ? うふっ」
……うふっとか言ってるけど、坂ノ下さんの声はちっとも笑っていなかった。
僕はゾウさんに腰掛けた。
〝おお。これはなかなか、愉快愉快〟
硬貨を入れられた遊具がウィィインと動きはじめると、シシ様がご満悦の声を上げた。
僕と坂ノ下さんからは「ハハハハハ」と乾いた笑いが漏れるだけであった。
□ □ □
シシ様がひとしきりパンダさんを堪能したあと、僕たちは竹原ファミリー牧場からそそくさと立ち去った。
まだ夕暮れには遠いので再び牛なり景色なりを見にいってもよかったのだが──いや、当初の予定ではそうするつもりだったのだが、僕と坂ノ下さんが無性にそこから立ち去りたくなってしまったのである。シシ様も特に反対しなかったので、僕たちはいま牧場のアーチをくぐって引き返しているところだった。
ゆるやかにつづく坂道を、自転車には乗らずにゆっくりと下っていく。
この近くにはもう他に観光に適しているような場所はない。だから、せめて散歩でもしながら帰ろうか、ということになったのである。
〝蝉も元気に鳴きはじめたな〟
左手は高台の斜面。そこはちょっとした雑木林となっていて僕たちが歩く坂道に木陰を落としているのだが、それと一緒に蝉の声も降り掛かってきていた。
「夏といえば、これですね」
梢を見上げながら、僕は相槌を打つ。ついさっきゾウさんの上で味わった喪失感などはおくびにも出さずに。
この観光における主役は、何と言ってもシシ様である。彼女の気分を盛り下げるような真似はすべきではなかった。それに僕も少しでも早く忘れたかったし。
「確か蝉って寿命が短いんでしたっけ?」
自転車を両手で押しながら、坂ノ下さんが小首を傾げた。彼女の声も至って普通だった。たぶん、僕と同じように考えたのだろう。
「羽化してからは一ヶ月くらいだったかな。ただ、それまでに土の中で数年を過ごしているから、昆虫としては長いほうだって聞いたことがあるよ」
「へえ、そうなんですか。でも、大人になってからっていうか、ちゃんと蝉らしくなってから一ヶ月しか生きられないなんてやっぱりちょっと儚いですね」
「うん。そういうふうに思うと、蝉がこんなにも一生懸命に鳴いているのは残されたわずかな時間を悔いなく過ごそうとしているかのように見えてくるよね」
ちょうど木の幹に一匹の蝉が止まっていたので僕はそれに目をやりながら言った。すると──
〝残されたわずかな時間を悔いなく、か……〟
蝉しぐれの下で、消えてしまいそうな遠い声で、シシ様がその言葉をくり返したのだった。
「シシ様?」
〝いや、何でもない。──ところで陽菜よ、知っているか? 蝉もまた食べられるらしいぞ〟
「ええっ!?」
坂ノ下さんが驚きの声を上げる。
僕も目を見開いた。
「せ、蝉そのものをですか? 抜け殻じゃなく? 抜け殻なら漢方薬で使われるって聞いたことがありますけど……」
〝蝉そのものだったはずだ。──ずいぶんと前のことだが、桜小路家の母屋でそんな話がされていたのを憶えている〟
そういえばシシ様は、蔵の中にいながらでも付近のことなら──山の中での出来事や桜小路家の生活などは感じ取ることができるって言ってたっけ。
〝というわけで、陽菜よ──〟
「無理です!」
坂ノ下さんが悲鳴のような声を上げた。
〝まだ何も言っておらぬが〟
「言われなくても解ります! 無理です! ごめんなさい! 何だってしますって言いましたけど、さすがにそれはっ……」
ぶるるるっと坂ノ下さんが全身を小刻みに震わせた。
うん、よく解る。なので僕は助け舟を出すことにした。
「シシ様、人には好き嫌いというものがどうしてもあるんですよ。だから、どうかここは大目に……」
「桜小路さん……」
僕のフォローに、坂ノ下さんが嬉しそうな声を洩らす。
〝ふむ、陽菜は無理か。では代わりに和雅に食べてもらおうかな。蝉の味が直接伝わってこないのは残念だが、まあここは和雅の感想を聞くだけで我慢するとしよう〟
……僕は助け舟を引っ込めることにした。
「さ、坂ノ下さん、がんばって! 大丈夫、昔の人はイナゴの甘煮とか食べてたらしいからきっと蝉もいけるんじゃないかなっ」
「桜小路さんっ!?」
僕の掌返しに、坂ノ下さんが愕然とする。
その一瞬後、シシ様の朗らかな声が響いた。
〝あっはっはっは。冗談だよ、二人とも。いまの時代、あまり虫が食べられていないという知識くらい私も持っているさ〟
どうやら今回、僕たちはシシ様にからかわれていたらしい。
「何だ、そうでしたか……」
坂ノ下さんがホッと息をつく。ただ、彼女はすぐにジトッとした声を出す。
「それにしても桜小路さん……我が身可愛さにあたしを売り飛ばしましたね?」
「いやっ、僕のあれも冗談だよ?」
〝あっはっはっは″
再びシシ様の朗らかな声が響いた。
それに釣られたように坂ノ下さんも笑い出す。よかった、本気で怒っていたわけではないようだ。まあ実際、冗談だったし。……一、二割くらいは本気も交じっていたかもしれないけど。
そんなこんなしながら、僕たちはゆるやかな坂道を下りきった。商店街までつづく道路へと出たが、帰るにはまだ早かったのでちょっと遠回りをしていくことになった。
道路脇から農道に入り、田畑に実る収穫前の農作物や用水路沿いに咲く野花を眺めたりしながら歩いていった。
「あ、そうだ」
商店街近くに戻ってきた頃にはすでに結構な時間が経っていた。なので「今日はここまで」となったわけだが、その別れ際に僕はあることを思い出したのだ。
「シシ様、これ……」
僕は持ってきていた鞄の中から大学ノートほどの楕円体を取り出した。
「──お面、ですか」
坂ノ下さんの言葉に、僕は頷く。
「えーっと、付喪神とか霊魂とかよく解っていないんですけど……シシ様が坂ノ下さんから外れてくれた時に必要になるんじゃないかと思って、一応、用意してきました」
シシ様が坂ノ下さんから外れてくれると約束してくれたのは確かによかった。しかしそのあと、シシ様はいったいどうするのだろう? と今朝になってから思ったのである。素人なりに、とにかく霊魂のままになってしまうというのはマズい気がして、出掛ける前に蔵の中で探してきたのだった。
〝……ほう、気が利くな〟
「蔵の中にあった中から一番立派そうなものを選んできたんですが、何か要望なり条件なりがあったら言ってください。あらためて探してきます。そもそも、うちの蔵に眠っていたものでいいのかさえ解らないんですが……」
〝いや、それで構わないさ。──ただ、まだ必要ではないからな。夏祭りの日に忘れずに持ってきてくれればよい〟
「そうですか……」
シシ様の言い方がずいぶんとあっさりとしていたので、僕は何だか肩透かしを食らったような気分になった。付喪神の新たなる居場所というのはこんな簡単に決めていいものなのだろうかと疑問に思ったのだが……シシ様自身がいいと言うのだから、きっとそうなのだろう。
〝それではまたな、和雅。明日も楽しみしているぞ〟
「桜小路さん、今日はこの辺で失礼します」
去っていく女性陣を、僕は手を振りながら見送った。




