第二十一幕 転換点を見下ろして思うこと
ちっぽけなバス停と古ぼけた商店街、それらに隣接した道路を少し進んだところにある木陰の中に僕は佇んでいた。
昨日までは聞こえなかった蝉の声が、今日はあちこちから届いてくる。いよいよ夏本番という感じだった。
「桜小路さーん」
しばらくすると、道路の先に自転車に乗った坂ノ下さんの姿が現れた。はたから見れば、それは昨日、一昨日と変わらない光景だっただろう。しかし僕にしてみればまったく違っていた。いまここにやってくるのは坂ノ下さんだけでなく、もう一人の──もう一柱の女性も一緒であるからだ。
「すみません、お待たせしてしまいましたか?」
坂ノ下さんが少しだけ息を弾ませて訊く。
「いや──」
ほとんど時間通りだよ、と僕が答えようとしたところ、それよりも先に呆れたような声が頭の中に響いた。
〝陽菜よ。おなごなのだから服装選びに気を遣うのはよく解る。しかし、いくら何でも時間を掛けすぎだろう? いったいどれだけ着替えたのだ。今日だけではないぞ。昨日も一昨日もではないか〟
「や、やだなー。そんなに着替えてないですよ。ちょっとだけですよ。シシ様が早く出掛けたくって仕方なかったからそう見えたんじゃないんですか?」
〝な、何を言う。私は別にそんな……〟
「桜小路さんとの約束は午後からだというのに、朝早くから『まだ時間ではないのか』『まだ出掛けなくていいのか』ってもう子供みたいにソワソワしっぱなしだったのでは誰ですか?」
〝そ、ソワソワなどしていない。私はただ、時間に遅れるのが嫌だっただけだ〟
「ふ~ん」
坂ノ下さんとお面──シシ様が言い合っていた。しかし険悪な雰囲気は一切ない。むしろ何処か楽しそうだった。一晩でずいぶんと打ち解けたようである。
〝そ、それで、今日は何とか牧場とやらにいくのだったな〟
形勢不利だとでも思ったのか、シシ様は坂ノ下さんとの会話をうやむやにし、こちらに話を振ってきた。
「はい。竹原ファミリー牧場ってところなんですけど。ここから自転車で二十分くらいです」
昨日、何処かいい場所はないかと悩みながら家に帰ると、そこにはお母さんが待ち受けていた。書き置きだけを残して僕と坂ノ下さんがさっさといなくなってしまったからである。
僕が自室に入れたのは、お母さんの心配と不満にしばらく付き合ったあとだった。その途中、観光案内のプランについて相談してみようかとも思ったのだが、「また呼ぶのよ」「逃がしちゃ駄目よ」というようなことを言いはじめたのを見て、断念せざるを得なかった。
どうにか解放された僕は、ネットで情報収集をしたり過去の経験を思い起こしたり七転八倒したりして観光案内のプランを立てたのだった。
それが、今日これから向かう竹原ファミリー牧場である。いつもと待ち合わせ場所が違ったのは、ここからのほうがいくぶんか目的地に近いためだった。
〝おおっ、あの背の高いやつは何だ、和雅よ〟
目的地に向かって自転車を漕いでいると、シシ様が何度目かとなる好奇心に満ちた声を上げた。
「あれは電気を送るための鉄塔ですよ」
延々と広がる田畑の間に、鈍色の鉄骨で組まれた二十メートルほどの高さの塔がいくつか立っている。それらの間を送電線が繋いでいた。
〝電気。火によらず、明かりをつけるやつだな〟
「はい。──この道路の脇に立っている電柱と同じようなものですね。その大きいやつだと思っていただければ」
〝ほう、そうかそうか。それにしても大きいな〟
シシ様が感心したような声を洩らす。
こうやって出掛けるのが楽しいのか、それとも恐がられる心配をせずに喋れるのが嬉しいのか、はたまたその両方か、シシ様の口数は結構多くなっていた。
さっき聞いたところによると、シシ様はここ数ヶ月を坂ノ下さんと一緒に過ごしていたのでそれなりに現代知識を持っているらしい。ただ、坂ノ下さんは受験生であり、めったに遠出をしなかったということで、こうして町中では見掛けないものを目にするとそのたびに興味を示すのだった。
はじめて電車に乗ってはしゃぐ子供を見ているようで何だか微笑ましかった。……まあ、僕よりはるかに年上なんですけどね。
それしても、ちょっとホッとした。いま向かっている竹原ファミリー牧場というのはどちらかといえば地味なところであり、気に入ってもらえるかどうか少々不安だったのである。しかし、あんな鉄塔にこれだけ反応してくれるのだ、たぶん大丈夫だろう。
バスなり電車なりに乗って他の町に出向いていいのであれば、観光名所らしきものはいくつかあるのだが、シシ様の要望は〝この町を見てみたい〟というものだったので、非常に限られた中から選ぶしかなかったのである。
田畑沿いの道路から逸れ、ゆるやかな坂道を上ると開けた高台に出た。ここが目的の場所である。
〝ここが牧場というやつか。おお、何やら鳴き声が聞こえてくる。楽しみだな〟
シシ様が弾んだ声を響かせた。
「気に入っていただけたようで何よりです」
十台分のスペースもない駐車場。「ようこそ、竹原ファミリー牧場へ」というペンキの剥がれ掛けたアーチ形の入り口。その先に見える厩舎も牧草地も決して広くはない。
正直、本格的に観光客を呼ぼうとしているところとは比べようもないけれど、もちろん僕は余計なことは言わなかった。ただ、「この高台の端にいけば町が一望できたはずですよ」という情報だけは付け加えておいた。
施設内に入ると、子供たちのにぎやかな声が聞こえた。駐車場に二台の車があったので誰か来ているのだろうとは思っていたが、どうやら二組の家族連れが一緒になって見学しているらしい。
ちょうどよかったので、僕たちもその家族連れのあとにくっついて施設内を回らせてもらうことにした。
牧場の係員が牛の生態や生活について説明しながら施設内を案内してくれる。仔牛に餌をやるイベントもあり、まだ小学校低学年であろう四人の子供たちがおっかなびっくり、でも楽しそうに挑戦していた。
坂ノ下さんはこういう施設に来たのははじめてであるらしく、時々子供たちと一緒になって物珍しそうな声を上げていた。
一方、肝心のシシ様といえば──ここに来るまでのはしゃぎようが嘘のように黙りこくっていた。とはいえ、別に不機嫌になっているわけではない。楽しんでいる雰囲気はちゃんと伝わってきていた。
面という実体を失い、霊魂だけの存在となっているシシ様の声はいま、その姿と同じように普通の人たちには認識できないものとなっているそうだ。例外は桜小路家の血筋を引く人間と、シシ様の影響下にいる坂ノ下さんだけ。
だから、シシ様がここでいくら喋ってもその声が家族連れの頭の中に響くことは一切ないはずなのだけれど……やはり僕たち以外の人間がいるところで喋るのは嫌なようである。
ちなみに、坂ノ下さんが〝帰りたくば、私を受け入れよ〟というシシ様の声を聞いた時、彼女はまだシシ様の影響下にはいなかった。にもかかわらず、その声が聞こえたのはシシ様のほうもあの時はまだ面という実体を失っていなかったからである。第三者に向かって話し掛けることは普通にできたそうだ。
そういえば……シシ様がどうして坂ノ下さんの顔にくっついたのかは解らずじまいになってしまったが、シシ様がどうして坂ノ下さんにあんなことを言ったのかも解らずじまいになってしまっていた。
〝和雅、和雅、ちょっとあちらにいってみよう〟
係員の案内が一通り終わり、二組の家族連れとも挨拶をして別れることになった。すると、それを待っていたかのようにシシ様が声を響かせた。
シシ様の言うあちらとは牧草地の先──高台の端であった。
「ああ、見晴らしがいいですね」
高台の端に設けられた白い木の柵に手をついて、坂ノ下さんが感嘆の声を上げる。
〝うむ〟
シシ様の声も満足そうだった。
ここからだと町が一望できるので、〝この町を見てみたい〟と言っていたシシ様には、ある意味ぴったりの場所だったろう。
ただ僕にしてみれば、畑や田んぼばかりの光景は面白みに欠けたんだけど、坂ノ下さんやシシ様は何やら盛り上がっていたようなので水を差すような真似はしなかった。
「あ、商店街も見えますね。ちっちゃいけど」
白い柵から少し身を乗り出して、坂ノ下さんが言う。
「ああ、ホントだ」
つられて視線を向けると、遠くに骨董品めいた建物群が見えた。
そこは──さっき待ち合わせた場所であるだけでなく、重要な転換点でもあった。
僕はそこで坂ノ下さんとはじめて出会い、そしてシシ様とも数年ぶりの再会を果たしたのだから。
シシ様の声と姿は、桜小路家の血筋を引いた人間であれば誰でも認識できる。つまり、僕よりも先に──たとえば僕のお父さんや親戚が坂ノ下さんと出会う、という展開もあり得たわけである。
僕が四ヶ月ほどこの町を離れていたことを踏まえれば、むしろ可能性としてはそちらのほうが高かったかもしれない。
しかし現在、坂ノ下さんやシシ様たちと一緒にいるのは他ならぬ僕である。そのことを少しだけ大げさに言えば、きっと「運命」という言葉になるのだろう。
「ん? 何かいい匂いがしてきましたね」
……僕がポエミーになっていることなど知る由もなく、坂ノ下さんが背後を振り返り、くんくんと鼻を鳴らした。
夏の陽射しは厳しいけれど、ここは高台のせいか涼しい風が吹き抜けている。その風向きが変わったのだろう、何処からともなく甘い匂いが流れてきていた。
「入り口付近にあった食堂からかな。確かここで採れた牛乳を使用したヨーグルトやアイスクリームが食べられたと思う」
「シシ様、いってみませんか?」
〝うむ〟
坂ノ下さんが誘うと、シシ様は二つ返事で答えていた。
「え、坂ノ下さん、昼食を取ってきたんじゃないの? それにシシ様に食事というのは……」
「甘いものは別腹ですよ?」
当たり前のように坂ノ下さんが言った。
……別腹。そういえば女性には胃袋とは別の消化器官があるんでしたね。
〝和雅よ。確かに私はものを食べられない。しかし、私が陽菜に影響を与えているように、実は陽菜も私に影響を与えているのだよ。多少ではあるがな。──まあ要するに、陽菜がものを食べれば、その味は何となく私にも伝わってくるということだ。だから気にせず食堂へと向かうがよい〟
「そうなんですか」
坂ノ下さんの声もシシ様の声も何だかノリノリであった。であれば、僕に拒む理由はなかった。




