第十九幕 解かれる謎と解かれぬ謎と逢引きと
「あたしの……?」
当然のことながら坂ノ下さんが訊き返す。
「あたしの……何ですか?」
〝──いや、何でもないさ〟
お面はそう答えたが、ごまかそうとしているのは明らかだった。
「──今年の春、桜小路さんちの山の中で急斜面を転げ落ちた時に」
坂ノ下さんが慎重に、食い下がるように言葉を発する。
「やっぱりあたしは、あなたに何かをしてしまったんでしょうか? 大切な場所に入ってしまったとか……いいえ、もしかしたらあたしは、あなたの上に転げ落ちてしまったとか……? それであなたは壊れてしまい、実体を失うことになって──だからあたしは、ただでは帰してもらえなくなったんでしょうか……?」
もしそうだったとしたら、不幸な事故というべきだろう。
しかし、壊されてしまったほうにしてみればたまったものではなかったに違いない。何かしらの代償を求めたとしても不思議ではないだろう。
あるいは、お面という実体が壊されてしまったためにその中に宿っていた霊魂が行き場をなくして坂ノ下さんの顔にくっついた、ということもあり得るのだろうか……などと思いつつ、僕はお面を見つめた。
〝……この数ヶ月、ずっと一緒におったのですでに承知していたが、やはり陽菜はあの日のことをまともに憶えてはおらんのだな〟
ボソッとそう呟いたあと、お面は言葉を選ぶような口調で語りはじめた。
〝私がいた場所に偶然にも陽菜が転げ落ちてきたというのは、確かにそのとおりよ。しかし、そこは別に大切な場所ではなかったし、何よりおまえは私の上に転げ落ちてきたわけではなかった。私は壊されていないどころか傷一つ負わされてはいない。おまえは何も悪いことなどしておらんさ〟
「でもさっき、『陽菜の』って何か言い掛けましたよね? つまりあたしは、あなたが実体を失ってしまったことに無関係ではないんですよね? あたしはいったい何をしてしまったんでしょうか? それはこうして顔にくっつかれてしまうようなことだったんでしょうか?」
坂ノ下さんが困惑しながらも、切実な問いを投げ掛けた。
〝……〟
しかし、それに対するお面の返答はいつまで経っても発せられなかった。
またもや、広場に沈黙が降りた。
さっきもそうだったけど、核心──坂ノ下さんの顔にくっついた理由になると途端にお面は閉じた貝のようになってしまうのだ。
僕はしばらくお面を見つめつづけたままでいたけれど、お面のほうも沈黙を守りつづけたままだった。坂ノ下さんもどうしていいのか解らないらしく口をつぐんでしまっている。
……仕方がない。ここはもう一度「急いては事をし損じる」作戦を決行してみようか。いきなり暗礁に乗り上げるという経緯はあったものの、最終的には一応の成果を出せたわけだし。それにまだ訊いておきたいことも残っていた。
「え、えーっと……細かいところは取り敢えず措くとして、あなたが実体を失ったのは坂ノ下さんと出会ったあと──ということでいいんですよね? それまでは風雨に晒されてボロボロになってはいたものの実体を失うまでではなかった」
〝──うむ〟
お面の声はかなり警戒しているようであったが、それでも答えてくれたことには違いない。僕はホッとしつつ質問をつづけた。
「素人考えですけど、その実体を失ったということによりあなたは普通の人には見えないようになったんじゃないでしょうか……?」
〝確かに面という実体を失ったことにより、私は普通の人間には見えない状態となった。霊魂だけの存在など、よほど徳の高い神職や僧侶でもない限り見ることはできないだろうからな〟
坂ノ下さんによれば、ご両親も学校の友だちも彼女の顔にくっついているお面を見ることはできなかったという。僕自身も商店街の人々や喫茶店のマスターなどがそうであったことを確認している。
「でも──僕や坂ノ下さん、それに僕のお父さんにはいまのあなたが見えています。それはどうしてでしょうか? 僕たち三人はもちろん徳の高い神職や僧侶なんかではないですし」
〝ふむ。そもそも私は、桜小路家の人間が納面祭に参加するための面として丹精を尽くしてつくられているからな。つまり桜小路家の人間は、私という存在にとって根源そのもの──非常に特別であるわけよ。ゆえに、最初から霊的な波長が合うようになっている。それは神と呼ばれる存在になろうとも、いまのように霊魂だけの存在になろうとも変わりはしない。おまえとおまえの父にいまの私が見えているのは、その霊的な波長が合っているからだな。──ただし、いくら霊的な波長が合っているとはいえ、限度がある。霊魂だけの存在となった私を見ることはできても、さすがに触ることまではできんというようにな〟
「え、えーっと……」
突然出てきた「霊的な波長」という言葉に僕は目をしばたたきつつも、何とか頭を巡らせる。
「よ、要するに、あなたと桜小路家の人間との間には特別な繋がりがあって、それで普通の人間には見えないはずの、霊魂だけの存在となっているいまのあなたが僕とお父さんには見える──ってことでいいんでしょうか?」
〝うむ〟
「ただ、その特別な繋がりにも限度があって、さすがに霊魂だけの存在となっているいまのあなたを触ることまではできない、と」
〝うむ。だいたいそれで合っている〟
「だから僕は、あなたが見えていても触ることはできなかったんですね……。じゃあ、さっきの雑木林でお父さんに試してもらっていたとしても僕と同じ結果になっていたってことですか」
〝まあ、そうなっていたであろうな〟
「そうですか……」
僕は小さく息を吐き出した。理解できたとは到底言えないけれど……一応これで、普通の人には見えなかったお面がどうして僕とお父さんには見えたのか、ということに関してはその理由が明らかになったわけである。どうして僕がお面に触れなかったのか、ということに関しても。
しかし……そうなると腑に落ちないことが二つほど出てきてしまう。
「桜小路家の人間って言いましたけど、さっき僕のお母さんにはあなたがまったく見えていませんでしたよね?」
〝ああ。私が言う桜小路家の人間というのは、その血を引いている者のことだからな。桜小路家の血筋であれば男も女も関係なくいまの私を見ることぐらいはできるだろうが……おまえの母は他家から嫁いできた者だからな、私と自然に霊的な波長が合うようにはなっておらんのよ。おまえの母を除け者にするようで悪いが、こればっかりはどうにもならん〟
「桜小路家の血筋そのものが必要ってことですか。だからお母さんにはあなたが見えなかったんですね」
〝そういうことだな〟
「でも、それじゃあ……坂ノ下さんにあなたが見えているのはどうしてですか? 彼女はうちの親戚ではないですよ。当然、桜小路家の血も引いていないはずですが?」
まさか誰かの隠し子? あるいは、それこそ何代も前にさかのぼれば実は親戚に入るとか? ──そんな可能性が僕の頭の隅をよぎった。
〝それは、おまえとおまえの父に私が見えている理由と、陽菜に私が見えている理由とがまったく別物であるからだ。──こうしてくっついていることにより、陽菜には私の力の影響が及んでいる。そのため普通の人間には見えないはずのものが見えるようになっているのだよ。しかし影響が及んでいるといっても、さほど大きいわけではない。私のことが見えても触るところまでいかないのはそのせいさ〟
「僕たちとは違う理由で、坂ノ下さんにはあなたが見えていたってことですか」
〝うむ〟
「なるほど……」
状況が同じだからその原因も同じだろうと勝手に思い込んでいたけれど、実はそうではなかったというわけだ。
また、うちの山に入ったかどうかも関係なかったようである。ちょっとガックリときたが、そもそも怪奇現象なんてその筋の人でもなければちゃんとした判断を下せるはずもないことだろう。
ただ何にせよこれで、「どうして僕たちだけにお面が見えるのか」「どうして他の人たちにはお面が見えないのか」、そして「どうしてその僕たちでさえもお面に触れないのか」という謎については解き明かされたことになる。
残る謎は──
「あなたがくっついていることで坂ノ下さんにも付喪神の力の一部みたいなものが与えられているって感じなんですかねー。それって何かすごいですねー」
僕はできるだけさり気ないふうを装ってつづけた。
「ところで、どうしてあなたは坂ノ下さんの顔にくっついたんですか?」
〝……〟
お面は沈黙した。
引っ掛かってくれなかった。
「急いては事をし損じる」作戦は前回につづいて一応の成果を上げたものの、残念ながら肝心なことは引き出せなかったのである。
広場には何度目かの沈黙が降りていた。
どうしよう。もう他に作戦なんて思いつかない。こうなったら力ずく、とか? ……いやいやいや、付喪神相手にそんなことをしたらこちらがひどい目に遭うだけのような気がする。第一、僕に乱暴な真似などできるはずもない。
となれば──
「光獣戦士・獅子王牙様」
大樹の根元で居住まいを正し、僕は敢えてその名前を口にした。これから最後の手段として頼み込もうというのだからそこはちゃんと呼ぶべきだと思ったのである。
「そうまでしてお話にならないということは、きっと何か事情があるのでしょう。……でもどうか、あなたが坂ノ下さんの顔にくっついた理由を教えてもらえませんか? そうしてくれれば、それが解決されるよう僕たちはできる限りのことをさせていただきますから。──ね、坂ノ下さん」
「は、はい! できる限りのことをします」
僕の呼び掛けに、坂ノ下さんは誠意の籠った声を返した。
〝……〟
それでも頭の中には何の声も響いてはこなかったが、僕はめげずに言いつづけることにした。
「直接、坂ノ下さんから聞いたわけではないですけど、いま頃の女の子が自分の顔を見れないっていうのは結構つらいことだと思うんですよね。──花にたとえれば、ようやく蕾を終えて、まさにこれから咲こうとする大切な時期でしょうから」
喫茶店で坂ノ下さんが自分の画像を見せてくれた時のことを僕は思い浮かべていた。あの時彼女は、お面イコール坂ノ下陽菜と見られるのは「悲しい」と口にしていた。あれは端的に、彼女の心情を吐露したものではなかっただろうか。
鏡の前に立っても自分の素顔を見ることのできない彼女は、いつもそういうふうに思っていたのではないだろうか。
〝……〟
「だから、どうかお願いします。あなたが坂ノ下さんの顔にくっついた理由を教えてもらえませんか。そうしてくれれば、それが解決されるようできる限りのことをさせていただきますから」
「お願いします」
くり返し、僕も坂ノ下さんも頼み込んだ。精いっぱいの真剣さを込めて。
〝……〟
それが通じたのだろうか──相変わらず頭の中には何の声も響いてはこなかったが、お面からはじっと考え込むような気配が伝わってきたのである。
〝解決されるよう、できる限りのことをする、か……〟
ややあって、お面はボソッとした声を響かせた。それからどうしてだか僕の様子を窺うような声で訊く。
〝和雅よ。そうまでして私が陽菜の顔にくっついた理由を教えてほしいのか?〟
「そ、それはもちろん」
何となく不審を覚えつつも僕は頷いた。
〝そのためなら、本当にできる限りのことをしてくれるのか、和雅よ?〟
ど、どうして僕ばかりに訊くのだろうか。この場合、どちらかといえば坂ノ下さんのほうに訊くべきではないのだろうか。お面と坂ノ下さんの間に何かがあったからこそこういう事態になっているわけだし──と、僕の胸に薄く霧のようなものが立ち込める。
しかし、いまここで引くわけにはいかないだろう。僕は戸惑いながらも返事をする。
「は、はい。できる限りのことはさせていただきます……」
〝そうか……〟
お面は何処か満足げであった。しかしそれをすぐに収めると、しれっとした声でこう告げた。
〝だがやはり、私が陽菜の顔にくっついた理由を教えてはやらぬ〟
「ええっ!?」
僕は素っ頓狂な声を上げてしまう。流れ的に、ここはてっきり〝教えてやろう〟というふうになると思ったのだが……。
〝そう慌てるな。──要するにおまえたちは、私が陽菜の顔から外れればそれでいいのだろう? 私が陽菜の顔にくっついた理由を教えてやる気にはならんが、顔から外れてやらんことはないぞ?〟
「ほ、本当ですか……!?」
それだと、問題をまったく考えることなく答えだけを得るような形になってしまうので道理的にも心情的にもいろいろとすっきりしない気がするのだが……お面がそれでいいと言うのであればこちらに異論はない。
〝しかし、だ。それをするのは実は一苦労なのだよ。よって、ただというわけにはいかない〟
「で、できる限りのことはさせていただきます」
僕はあらためてそう言った。お面が坂ノ下さんの顔から外れてくれるというのなら、この言葉を引っ込めるわけにはいかないだろう。
〝そうか。では、和雅にはやってもらいたいことがあるのだが……〟
「やってもらいたいこと?」
僕の問いに、答えはすぐには返ってこなかった。
ややためらったあと、お面は小さな声で、しかし思い切ったようにこう言った。
〝か、和雅。おまえ、私と、あ、逢引きせよ〟