第十六幕 正体
「……っ」
お面が喋るということは、坂ノ下さんから聞かされて知っていた。しかし、実際にその場面に遭遇したわけではなかったので、何処か現実的に捉えていなかった部分があったのだろう。いまはしっかりと恐怖という鎖に身体を縛られていた。
缶ジュースで潤したばかりだったのに、僕の喉はカラカラになってしまっていた。「和雅」と名指しされたこともその状態に拍車を掛けている。つまりお面は、ここにいるのが誰であるかをちゃんと認識しているということだ。
「ほ……本当です」
それでも僕は、どうにかこうにか返事をした。
さっき頭の中に響いたお面の声には──何と言うか、ひどく切実なものが込められているように感じられたのだ。このまま黙っていてはいけない、と咄嗟に判断していた。
「嘘じゃありません。一年くらいはずっと探し回っていました。でも、どうしても見つけられなくって……」
〝そう……だったのか〟
張りつめていた糸が、ぷつんと切れてしまったような声が頭の中に響いた。
〝落とされたあと、どんなに待ってもおまえが来てくれないものだから、てっきりどうでもよくなってしまったのかと……。それまではそんなに掛からずに見つけにきてくれていたからな〟
「い、いいえ、どうでもよくなったわけじゃありません。僕にとってすごく大切なものでしたから。ただあの時に限って、何処で落としたのかを上手く思い出せなくって……」
〝──そうか。すごく大切なもの、と思ってくれていたのだな……〟
お面は噛みしめるかのように呟いた。
しかしすぐに、その声を拗ねたものへと変える。
〝そうは言うが和雅よ、おまえはついさっきまで、私のことにまるで気づかなかったではないか〟
「うっ、それは……」
返答に詰まる。しばし視線を泳がせたあと、僕は思い切り頭を下げた。
「す……すみませんでしたっ。僕の目が節穴でしたっ」
ここはもう下手な言いわけなどせず、誠意を込めて謝るしかないと思ったのだ。それに、この件についてはちょうど後悔していたところだった。謝る機会を得られたのはむしろ幸運と呼べるのかもしれない。……ただ、相手はなにぶんにも怪奇現象なので、この謝罪を受け入れてもらえるかどうかは解らないけど。
しばし、広場に沈黙が降りた。
僕が油の切れた機械のようにぎこちなく固まったままでいると──頭の中に、ふっと吐息のようなものが響いた。
〝いいさ。本当は解っているのだよ。このとおり私は変わり果ててしまったからな。おまえが気づかなかったのも無理はない〟
お面はそう言って、小さく笑った。
しかし、その乾いた響きがかえって僕の胸を締めつけた。
「そうなってしまったのは……僕が落として、見つけられなかったせいなんですよね」
〝もうよい、気にするな。一年も探し回ってくれていたのであろう? 私のことがどうでもよくなったわけではなかったのであろう? ならば、それで十分だ。あの山も決して狭いわけではないからな。見落としがあったとしても仕方あるまい〟
「でも……」
〝それにだ。私を落としたことや見つけられなかったこと、私に気づかなかったことに対する仕返しはすでに済ませてしまっているからな〟
「仕返しを済ませた……?」
何のことか解らず、僕は首を傾げる。
〝二日前、偶然、再会を果たした時にな〟
そう言われて、僕は訝りながらも記憶を巻き戻す。
仕返しという言葉に関連していそうなことといえば──
「えっ!? もしかして、いきなり殴り掛かってきたことですか?」
〝うむ。あの時は、私のことなどどうでもよくなったのだと思い込み憤懣やる方なかったからな。しかも私は一目でおまえのことが解ったというのに、おまえは明らかに気づいていないようだったからついカッとなってしまったのだ……〟
あれはそういうことだったのか。僕は知らず知らずのうちに下顎を撫でてしまう。すると──
〝まだ痛むか……?〟
いたわるような声が頭の中に響いてきた。
僕は慌てて片手を振る。
「い、いいえ、全然。──それに元を辿れば、悪いのは僕のほうですから。一発くらい殴られたところで何の文句もありません」
〝そうか……そう言ってくれるか〟
お面がホッとしたような、やわらかい声を響かせた。
目の前のお面は、どう見ても怪奇現象である。しかし少なくとも、話の通じない相手ではないようだった。というか……奇妙かもしれないが、僕は昔の友だちと仲直りできたような気分を覚えていたのである。恐怖という鎖はすでに解かれつつあった。
「あの……っ!」
その時、坂ノ下さんが声を上げた。どうやら僕たちの会話が一段落するのを待っていたらしい。
〝──陽菜か。どうした?〟
お面が返事をし、しかも自分の名前を呼んだことに坂ノ下さんは一瞬ビクッとなったようだったが、それでも努めて冷静な声で答える。
「いろいろとお訊きしたいことが、あるんですけど……」
確かに現段階ではっきりしたのは、お面がボロボロになってしまったのはやっぱり僕のせいであったことと、僕がいきなり殴られた理由くらいであった。まだまだ訊くべきことはたくさんあるだろう。
〝ふむ。できる限りおとなしくしていようと決めておったのだが……″
お面は自嘲するような声を響かせた。
〝二日前のみならず、今日もまた自分を抑えきれないとはな。しかしこうなっては、いまさら黙り込んだところで仕方あるまい。──それに仕返しをした際、陽菜の身体を勝手に操ってしまっているからな。そのせめてもの詫びに、私に答えられることであれば答えるとしようか〟
「で、ではまず……」
坂ノ下さんが警戒と緊張の籠った声を出す。──それにしても、自分の顔にくっついているものに向かって喋り掛けるというのはどんな気分なんだろうか。
「あなたは、いったい何ものなんですか? 桜小路さんちの蔵にしまわれっぱなしになっていた、というのは聞きましたが……」
〝私か? 私は、光獣戦士・獅子王牙というものだ〟
「っぎゃあー!!」
──ちょっとお面さん、勝手に僕の恥ずかしい過去を蒸し返すのはやめてくれませんかね?
〝どうした、和雅。変な声を出して?〟
「ど、どうしたもこうしたも……それって昔、僕が勝手につけた名前ですよね? 他にちゃんとしたものがあるんじゃないんですか?」
〝いや。私の名前はこれ一つきりよ。私が桜小路家のお面としてつくられてからずいぶんと経つが、私に名前をつけてくれたのは──和雅、おまえだけであった〟
「そ、そうなんですか……」
お面は別にふざけているようではなかった。むしろ名前をつけてもらったことに感謝しているようですらあった。
ど……どうしよう。確かに僕は最高にカッコいい名前をつけたつもりである。しかしそれは、あくまで幼い頃の僕の感覚で、である。高校生になったいまの僕の感覚からするとその名前は非常に恥ずかしいものであり、お面に対しても非常に申しわけなくなってしまうのだけど……。
「それでその、獅子──あなたはいま、桜小路さんちのお面としてつくれたって言いましたけど、ただのお面……というわけではないんですよね?」
坂ノ下さんがいたって真面目な口調で話を先へと進める。しかしながら、彼女が「獅子王牙」と呼ぼうとしてそれを途中でやめたことは、地味に僕の精神を削っていた。
〝最初はただの面であったよ。祭祀用ゆえ、丹精を尽くしてつくられてはいたがな。ほれ、昨日、図書館とやらでおまえたちが調べていたやつよ〟
「……納面祭?」
坂ノ下さんが反射的に洩らした言葉に、お面の頷くような気配を感じた。
〝そう。私は、桜小路家が納面祭に参加する際につける面としてつくられたのよ。いまから三百年くらい前にな〟
「三百年……」
坂ノ下さんがやや呆然とした声で言う。確かに、簡単には想像がつかない時間の流れであった。
〝その三百年のうち、私がただの面であったのは最初の百年くらいであったかな。つまり、いまのように喋ることなどができるようになったのは、ここ二百年というわけよ〟
頭の中に響く声はこともなげであったが、僕のほうはそうもいかなかった。
「い、いったい何がどうなれば、ただのお面であったものが喋ったりできるようになるんですか……!?」
〝ふむ──。長い年月を経た道具というものにはな、ごく稀に霊魂を宿す場合があるのだよ。霊験あらたかな神木などを素材にしたり腕の立つ名工によってつくられたりすると、そういうことが起こりやすくなるらしい。そして私は、その二つを兼ね備えた面であった。名家の桜小路家が発注しただけあって山神様が住まう山より選び抜かれた木を素材とし、当代随一と呼ばれた職人の手によって彫り上げられたからな。こうして霊魂の宿る存在になったのも、ある意味では必然であったのかもしれぬ〟
「道具に霊魂が宿るって、何となく聞いたことがあるような……」
坂ノ下さんの呟きに、僕は頷いた。僕にも聞き覚えがあったのだ。
「付喪神、というやつだね。日本に昔からある伝承の一つだった思うけど……百年を経た古道具には霊魂が宿るって言われていて、それを付喪神って呼ぶんだ」
僕は自分で説明しながらも、心の隅では「まさかそんなものが実在するわけがない」と思っていた。しかしこうして目の前にいるお面と会話ができてしまっている以上、まさかもへったくれもないのだった。