第十五幕 そして声が響く
十数分後、僕たちは最近待ち合わせに使っている広場へと戻ってきていた。互いに少しだけ距離を開けて、そこに立つ大樹の根元に腰掛けている。
それぞれの手には缶ジュースが握られていた。この近くにある自動販売機で買ったものである。僕の父親を見送ったあと、取り敢えず喉が渇いたので何か飲もうかということになり、ここまで自転車を漕いできたのであった。
坂ノ下さんのお面に触れるかどうかを試すのは、あとでお父さんに連絡を取ってみて、その帰宅が遅くならないようだったら今晩にでも、遅くなるようだったら後日にしよう、と話し合っていた。いずれにせよ二度手間になってしまうのだが、それにどうのこうの言う坂ノ下さんではなかった。
「……いい天気だね。暑いけど」
ジュースを半分ほど飲んでひとまず喉を潤した僕は、たいした意味もなくそんな言葉を言ってみた。しかし、坂ノ下さんの反応は薄かった。
無理もない。坂ノ下さんがいま聞きたいのは世間話などではないだろう。
僕はチラリと、坂ノ下さんのほうに視線を向ける。そこにはホラーっぽい──まるで長い間、風雨に晒されたかのようにボロボロになってしまったお面があった。……いや、「晒されたかのように」ではない。そのお面がボロボロになってしまったのは、実際に長い間、風雨に晒されたせいに違いなかった。
そして、そうしたのはこの僕に他ならないのだった。
両手に持った缶ジュースの飲み口を見下ろしながら、僕は語りはじめる
「そのお面は……さっきお父さんが言ってたとおり、幼い頃、僕が一緒に遊んでいたお面に間違いないよ。蔵の中にずっとしまわれっぱなしになっていたのを、五、六年前、そこを探検していた僕が偶然見つけたんだ」
一言も聞き漏らすまいというように、坂ノ下さんがこちらに少し身を乗り出した。
「見つけた時、そのお面はいまのようにボロボロではなかったよ。むしろ、すごくカッコよかったんだ。ライオンのたてがみのような白いふさふさがついていて、鬼の牙のようなものがついていて──」
「……」
「幼かった僕は、一目でそのお面を気に入った。それからはほとんど毎日、そのお面を被ってうちの山で遊ぶようになったんだ。いわゆるヒーローごっこというやつだね。いま思い出すとちょっと恥ずかしいんだけど、当時は本当に楽しかった。──実は、幼い頃の僕には友だちがいなくてね。いや、優しくしてくれたり親切にしてくれたりする同級生はいっぱいいたんだけど」
僕は肩をすくめる。
「僕が桜小路家の一人息子ということで、みんな何処か遠慮しているというか慎重になっているというか……結局、心から打ち解けてっていうのはなかったんだ。僕のほうもそういうふうに扱われるのが嫌だったから、一人で遊ぶことが多かった。……まあそういう理由もあって、そのお面は単なる遊び道具ってだけじゃなくて、当時の僕には唯一の友だちってくらいに大切なものだったんだ。でも──」
あれは、お面と出会ってから一年くらいが経った日のこと。
僕はいつものように、そのお面と一緒にさんざん山の中を遊び回っていた。しかし日が暮れて家に帰ってみると、そのお面がいつの間にかなくなってしまっていることに気がついた。汗をかいたため、帰り道はお面も衣装も外して両手に抱えていたのだが、その中からお面だけがポロリと零れ落ちてしまったようだった。
慌てて探しに戻ろうとする僕を、お母さんが止めた。暗くなった山に子供を入らせるわけにはいかなかったのである。仕方がないので、お面探しは翌日からすることにした。
当初、僕は楽観視していた。大切なものを落としてしまったこと自体には負い目があったものの、実はこれまでにも何度か同じような失敗を仕出かしており……その度にちゃんと見つけ出せていたからである。
しかし予想に反して、その時のお面探しは難航した。お面などを外した場所やそこから家までのルートをくまなく探してみたにもかかわらず、その影も形も見つけ出せなかったのである。どうやら記憶違いをしていたようだった。
僕はにわかに焦った。そしてその焦りは、記憶のさらなる迷走を呼び起こした。ほとんど毎日同じような遊びをしていたために、いま思い出しているのが昨日の記憶なのか、一昨日の記憶なのか、それとも別の日の記憶なのか、だんだんと区別がつかなくなってしまったのである。
「それでも僕は、探しつづけたんだ。毎日毎日、山の中をあちこち探し回ったよ。当時の僕にとって本当に大切なものだったからね。けど、一週間経っても、一ヶ月経っても、一年経っても、お面は見つからなかった。……そして、ついに僕も諦めることにした。これだけ探しても見つからないということは、風なり動物なりに運ばれてしまって、もううちの山にはないんだろうって」
しかし、お面はうちの山にあったのだ。坂ノ下さんがそこでお面に出会ったということは、つまりそういうことなんだろう。大きくはない山で、遊び回った山でもあったけど、やはりそれなりの広さと複雑さは持っていた。見落としというものがどうしてもあったのだろう。
何にしてもそのお面は、長い間、風雨に晒されることになり──いまのようなボロボロの姿になってしまったに違いなかった。僕のせいなのだ。
それなのに僕は、ホラーっぽいだなんて思っていたのである。お父さんに指摘されるまで、そのお面が自分の大切なものだったなんて気づきもしなかったのである。僕の目はとんでもない節穴だった。
「このお面が、桜小路さんちの山にあった経緯は解りました」
そう頷いたあと、しかし坂ノ下さんはすぐに首を傾げる。
「でも、桜小路さんがこのお面をつけて遊んでいたってことは──つまり当時は、このお面に触れたってことですよね?」
桜小路が二人から一人になって、僕の呼び方も「和雅先輩」から「桜小路さん」に戻っていた。ちょっと残念だったが、いまはそれどころじゃない。
「うん、普通に。──それは僕だけじゃなく、お父さんもお母さんもそうだったはずだよ。何度か居間に置き忘れてしまったことがあるんだけど、それを僕の部屋に片付けておいてくれたことがあったからね。当然、片付けられるってことは、触れるだけじゃなく、ちゃんと見えていたってことでもあるから……当時そのお面は、誰にでも見えて誰にでも触れるものだったというわけだよね。もちろん喋るところなんて一度も見たことはないし、怪奇現象とは無縁だったはずなんだけど……」
「それが……何がどうなれば、見えなくなったり触れなくなったり喋るようになったり、あたしの顔にくっついたりするようになるんでしょうか?」
坂ノ下さんの疑問は当然のものだった。しかし、僕は首を横に振るしかなかった。ふと、長い間、風雨に晒されてボロボロになってしまったことと何か関係があるのだろうか……と思ったが、さすがにそれは憶測にすぎる。
「いや、僕にもそこまでは解ら──」
〝……和雅よ〟
僕の言葉の最後のほうを、何かが遮った。
それは、天井から落ちた滴がトンネル内で響くような声だった。
耳からではなく、直接頭の中へと響いてくるような声だった。
嫌でも、それが人間のものではないと察せられた。
〝本当か? 本当に私のことをそんなに探し回ってくれていたのか、和雅よ?〟
再び滴が落ちて、響いた。
目を見開いて、僕は坂ノ下さんのほうを見る。声は直接頭の中に響いてくるようだったけど、不思議と発声された方角も感じ取れたのである。それに現状、このような怪奇現象を起こせるものといったら、心当たりは一つしかなかった。
坂ノ下さんはびっくりしたように背筋を伸ばし、固まっていた。その様子からして、彼女の頭の中にもそれは響いているに違いなかった。
三たび滴が──お面の声が響いた。
〝本当に私のことをそんなに探し回ってくれていたのか、和雅よ?〟