第十四幕 僕は知っていた
「え──」
と言ったきり、僕も坂ノ下さんも固まってしまった。僕の父親の言葉は不意打ちに等しかった。
しかしそれも一瞬のこと、二人して次々に驚きの声を上げる。
「お父さん、このお面が見えるの!?」
「おじさん、このお面が見えるんですか!?」
「何を言っているんだね……?」
老紳士は、どうして僕たちがそんなことに驚いているのかまったく解らない、というふうに首を傾げた。
……たぶんお父さんのいまの状況は、二日前、僕が坂ノ下さんに両肩を摑まれて、「このお面が見えるんですか?」と迫られた時と同じようなものなのだろう。
「まあ……確かに最近は、歳のせいでものが見えにくくなってはきたけどね。さすがにこの距離でそのお面が見えないほど目は悪くなっていないよ」
お父さんは苦笑しながら肩をすくめた。
「いやお父さん、そうじゃなくって……」
と咄嗟に言ったものの、次の言葉が出てこなかった。お父さんにもホラーっぽいお面が見えているという事実に、僕の意識の大半が持っていかれてしまったからである。
──さっき坂ノ下さんが挨拶をした時、お父さんに妙な間があったのはそのせいだったのか……。
しかし、これはいったいどういうことなんだろう?
僕につづいてお父さんにも見えたってことは、やはりうちの山に入ったってことがホラーっぽいお面が見える条件なのだろうか。──いや、だとしたら、さっきお母さんには見えなかったのはどうしてだ? もしかして男には見えて女には見えない……? なるほど、つまり坂ノ下さんはこう見えて実は男だったということか……ってそんなわけはないな。うん、混乱しすぎて思考がおかしな方向に進みはじめたぞ。
「あの……このお面が、まるで和雅先輩からのプレゼントのように言ってませんでしたか……?」
ポンコツ化した僕をよそに、坂ノ下さんはさらなる情報を得ようと質問を発していた。
……そうだ。さっきお父さんはホラーっぽいお面が見えるだけでなく、まるで心当たりがあるような口振りをしていた。
「ん? 違うのかい? でもそれは、和雅が幼い頃遊びに使っていたものだろう? その頃に比べるとずいぶんボロボロになってしまっているようだけど。和雅がとても気に入っていたから、よく憶えているよ。だからてっきり和雅が坂ノ下さんにプレゼントしたのかと思ったんだが」
「……!」
お父さんの言葉に、僕は目を見開かざるを得なかった。
その間にも、お父さんは懐かしむようにつづけている。
「えーっと確か……『参上! 光獣戦士・獅子王牙!!』だったかな。とにかく、うちの蔵にしまいっぱなしになっていたそのお面やら衣装やら刀やらを持ち出して、よく裏山を駆け回っていたじゃないか、なあ和雅」
「っぎゃあー!!」
──ちょっとお父さん、勝手に息子の恥ずかしい過去をぶちまけるのはやめてくれませんかね?
「どうしたんだ、和雅。急に変な声を出して」
どうしたもこうしたもお父さんのせいで顔から火が出たんですよ……と思ったが、いまはそんなことを言っている場合ではなかった。僕は頭を軽く振って気を取り直す。
ただちに確認しなければならないことがあったのだ。
「ご、ごめん。ちょっとよく見させてもらえる?」
そう断りを入れると、僕は返事も待たず坂ノ下さんに顔を近づけた。
まじまじと見つめる。
装飾は剥がれ、彫刻は欠け、彩色は褪せ、もはや何を象っていたのか判然としないお面を──ホラーっぽいので、最初からなるべく視線を向けないでいたお面を、まじまじと見つめる。
坂ノ下さんが困ったように身じろぎしても、まじまじと見つめる。
そして──僕は呆然と呟いた。
「お父さんの言ったとおりだ。……これ、僕が一緒に遊んでいたお面だ……」と。
そうなのだ。
坂ノ下さんの顔にくっついているお面は、僕が幼い頃、蔵の中で偶然見つけて一緒に遊ぶようになったお面に間違いなかった。
にもかかわらず、お父さんに指摘されるまでどうしてそのことに気づけなかったのかといえば──
あまりにもかけ離れていたからだ。
目の前にあるお面の姿と、僕の記憶にあるお面の姿とが。
たとえば、かつてその頭部をライオンのたてがみのように覆っていた白いふさふさとした髪がごっそり剥がれてしまっていた。
たとえば、かつてその両頬に鬼の牙のように生えていた突起物がほとんど欠けてしまっていた。
たとえば、かつてその口元に描かれていた神秘的な紋様がすっかり褪せてしまっていた。
つまり、幼い僕が「光獣戦士・獅子王牙!!」と妄想を爆発させることになった要素がことごとく失われてしまっていたのである。
そしてまた、そういう強い思い入れがあった分、僕の目はお父さんのそれよりも曇ってしまっていたのだろう。
「和雅先輩は、このお面を知っていたっていうことですか?」
至近距離で坂ノ下さんの声がして、僕は我に返った。慌てて数歩離れると、ぎこちなく頷いた。
「うん……知っていた。──ごめんね、この前は何も知らないようなことを言っちゃって。ただ、僕が知っていたものとはあまりにも見た目が違いすぎていたものだから……」
二日前の喫茶店で、坂ノ下さんは僕に向かって「このお面に何かしらの関係がある人じゃないか」と言っていた。それに対して僕は「まったく心当たりがない」なんて答えてしまっていたけれど……彼女の勘は、彼女の考えは見事に的を射ていたのである。
「──」
微妙な空気が流れる中、坂ノ下さんが何かを言おうと小さく息を吸い込んだ。しかしその時、不意に電子音が鳴り響きはじめた。
発信源は、僕たちの様子をさっきから訝しげに見ていたお父さんだった。「失礼」と言うと、お父さんは携帯端末を取り出す。漏れ伝わってくるところから察するに会社からの連絡のようだった。
「すまない、二人とも。私は会社に戻らなくてはいけなくなってしまった。私が勝手に出てきたせいで、ちょっとトラブルが発生したみたいでね。──何だか話が途中になってしまったような気がするけど、今日はこれで失礼させてもらうよ。坂ノ下さん、またいつでも遊びにいらっしゃい」
お父さんは穏やかに苦笑を浮かべたあと、少し急いだ様子で車の中に戻っていった。
その慌ただしさに巻き込まれるようにして、僕も坂ノ下さんも別れの挨拶を返す。しかしややあって、坂ノ下さんが何かに気づいたように「あっ、そうだ……」と声を発したが、その時にはもうお父さんの車はUターンして走り出してしまっていた。
「どうかした?」
僕が訊くと、坂ノ下さんが如何にも残念そうに頷く。
「せめて、このお面に触れるかどうかだけは試していってもらいたかったです……」
「あー……、それは確かに」
深く同意を示しつつ僕も私道の先を見やったが、そこを走る車の影は遠く、米粒くらいにまで小さくなってしまっていた。