第十三幕 急転
「ご、ごめんね、坂ノ下さん。うちのお母さん、今日はどうかしてたみたいで……。普段はもっと──もうちょっと落ち着きのある人なんだけど」
「い、いいえー……」
と応えた坂ノ下さんの声は何処か引きつっていた。
桜小路家の門前からつづく私道をしばらく進むと、雑木林が木陰をつくっている場所がある。逃げるように自転車を漕いできた僕たちは、いまそこで一息ついているところだった。
「実は……うちのお母さんに伝えていなかったんだよね、今日来るのが女の子だってこと。でもそれで、こんな騒ぎになるとは思ってもみなかったよ」
「あははは……」
坂下さんは苦笑したあと、もじもじと言う。
「でも……実はあたしも、お母さんには『友だちと出掛けてくる』って言ってるだけで、それが男の人だってことは教えてないんですよね……」
僕たちにやましいところは何一つないのだが、どうしてだか妙に口に出しづらいのである。たぶん、そういうお年頃なんだろう。
「それにしても……」
顎の先を指で触りながら、僕は口調をあらためる。
「うちのお母さんには見えていなかったね」
「はい……」
もちろん、ホラーっぽいお面のことである。僕の母親にはそれが見えていなかった。つまり、うちの山に入ったかどうかは、ホラーっぽいお面が見える条件なり反応する条件なりではなかった、ということになるのだった。
「う~ん、当てが外れてしまったみたいだね」
「そうみたいですね……。でもこうなると、また解らなくなってしまいますね。どうしてこのお面はあたしたちには見えるのか、どうして他の人たちには見えないのか……」
「うん……」
二人して考え込んでしまう。しかし、容易に答えが出るようなものでもないかった。仕方なく僕は話題を変える。
「何か……坂ノ下さんには悪いことをしてしまったね。恐いところをわざわざ来てもらったのに、お面は見えないわ、まともに話は聞けないわで……ああ、もちろん、あとでちゃんとお母さんの勘違いは訂正しておくし、うちの山についても聞いておくからその点は安心して」
「あたしのことはそんなに気にしないでください。──山について聞いておいていただければ十分ですよ。それに」
坂ノ下さんは後ろを──うちの山や屋敷があるほうを振り返って言う。
「桜小路さんのお母さんに圧倒されてしまったせいか、あの山、いまはそんなに恐く感じないんですよね」
「それはよかった。……これも『母は、強し』っていうのかな。いや、何か違う気がする」
僕たちの間に笑いが広がった。
と、その時。
自動車が結構なスピードを出して近づいてきた。
今度は僕が振り返る。ここは桜小路家の私道なので、うちの人間か、うちに用のある人間しか通らないのだが……と思っていると、それはまさしく僕の父親の運転する車だった。向こうも、木陰に立っているのが僕だと気づいたようで、すかさず車を停止した。
運転席のドアを開けるのももどかしそうに、僕の父親が話し掛けてくる。
「か、和雅か。お父さんな、さっきな、お母さんから電話をもらったんだ。おまえがついに、お、お、女の子を連れてきたって」
……それで、昼休みはとうに過ぎていて、帰宅にはまだ早い時間にもかかわらず慌てて飛んできたっていうわけですか。仕事はどうしたんですか。
母親につづいて、父親までもが冷静さを失ってしまっていた。もちろん、それだけ僕のことを大事に思っていてくれているっていうことだから嬉しいには違いないんだけど……もう少し落ち着いてほしいものである。
とはいえ、それをいまさら言ってもすでに遅いので、僕は取り敢えず坂ノ下さんを紹介することにした。
「えーっと、こちら坂ノ下陽菜さん。僕の後輩のような人で、いまはわけがあって一緒に調べものをしているんだ。断っておくけど、カノジョとかではないからね」
「は、はじめまして、坂ノ下陽菜と言います。桜──和雅先輩にはいつもお世話になっております」
僕の言葉につづいて、坂ノ下さんがぺこりと頭を下げた。
「────はじめまして。和雅の父でございます。こちらこそ、いつも息子がお世話になっております」
最初に妙な間があったけど、その挨拶は至って落ち着いたものだった。どうやらお母さんとは違い、お父さんにはちゃんと聞く耳が残っていたようである。よかった。
「それにしても、和雅。どうしてこんなところにいるんだい? うちに遊びに来たのではなかったのかね?」
「えーっと……」
お母さんがどうかしてしまったので逃げてきました──と真実を告げるのはさすがに憚られた。なので、残してきた書き置きと同じことを言う。
「僕たち、ちょっと急用ができてしまいまして。──一息ついたら、ここもすぐ離れます」
「そうか、それは残念だね。──けどよろしければ、また今度遊びに来てください」
坂ノ下さんに向かい、お父さんは如何にも老紳士然とした丁寧な態度でそう言った。──両親はなかなか子宝に恵まれなかったため、僕が生まれた時には結構な年齢になっていたのである。なので、はたから見れば両親というよりは祖父母に近いのだろうが、僕はそれを恥ずかしく思ったことは一度もない。当たり前だ。こんなにも僕に愛情を注いでくれる人たちに、そんな思いを抱けるはずもない。
「しかし和雅、その……何だ、自分が気に入っているものや大切にしているものを女の子にプレゼントするということ自体は悪くないと思うんだが、何もそんなボロボロのものをあげなくても……」
不意にお父さんが歯切れ悪く、そして意味不明なことを言い出した。
「ん? 何のこと? お父さん」
「何のことって、それは──」
お父さんは、坂ノ下さんほうをチラリと見た。
「坂ノ下さんがつけている、そのお面のことに決まっているだろう」