夏の夜
「いったい、何がなんだか……」
時間は草木も眠る午前2時。茜が寝静まった後、僕と有栖は家を抜け出し、話し合うことにした。
そこは、一本の街灯だけが寂しく輝く住宅街の一角にある公園。昼間の猛暑が和らぐ時間帯、心地よい微かな夜風がベンチで座り込む僕の側を抜けていく。
「存在にすら困惑していたのに、言動もおかしくなっている。……お前が何かやったのか、有栖!!」
頭を掻きむしりながら、隣で先ほど自販機で購入した缶ジュースを飲んでいる有栖へ怒りをぶつけた。有栖は僕の怒りをまるで駄々をこねる子どもへの対応のように冷静に口を開いた。
「いきなり怒らないでよ。私に記憶を操作するなんて高等技術はできないし、しないわよ」
「では、茜の変化は何なんだ。そもそも、君の正体は何なんだ」
疑念の眼差しで有栖を睨みつける。
「……その眼を見る限り、まずは私の正体を知ってもらうのが早いっか」
と言うと有栖は立ち上がり、僕の目の前へ移動し、その場でくるりと1回転すると突如彼女の身体から強い発光が起き、思わず目を瞑る。
その数秒後、目をゆっくり開けるとそこには茜と一緒に居候している黒猫のクロがそこに立っていた。ありえない、非現実的すぎて頭が痛い。
「まさか、こんな。妖怪の類が実際にいるなんて……」
余りの衝撃に驚き、自分の頬を叩いたり、舌を噛んだりしたが痛みはあった。
「古典的な反応をどうも。だけど、クロの姿も本当の姿ではなし、私は妖怪でも化け猫でもないわ」
クロの口元から有栖の声が聴こえてくる。本当に今起こっていることは本物であるし、事実のようだ。
「では、本当の君というのは……」
有栖が僕の太ももに飛び乗り、視線を向けてこういった。
「私は堕天使。神に天界を追放された訳あり天使。たまに悪魔とも言われる」
「だ……、堕天使」
自分の常識がパンクして壊れてしまいそうだ。
「簡単に言うと、クソ職場が嫌になって上司に自主退職届を出した天使のことよ」
「地味に現実味のある表現は止めてくれ」
猫になった有栖は僕の太ももで身を丸くしながら自分が知っている茜のことを話し始めた。
「茜ちゃん、いや、最初に貴方のお姉さんの葵を見かけたのは天界でだった。彼女は他の普通の魂と一緒に転生されることを待っていたわ。そこで彼女は神の目に留まった」
「何故だか理由は知らないけど記憶を保持したまま転生できるようにしてくれた、と茜は話していたが」
「……貴方は何故、魂が天界に行くか知ってる?」
分からない、とだけ呟いた。
「魂はね、浄化しないといけないの」
「全ての人間は善行と悪行が精査され、天界で現世で積み重なった縁や記憶を確立する。人類史のその名を残し、新しい魂として新たな生を受ける。偉人は多くの人間に数世紀単位で、一般人は家族や友人の間でその生き様を、大なり小なり語り継げられる」
「ここで茜ちゃんの状況を整理すると、彼女は天界で”葵としての”人生の精査をしないまま再び現界している。これが意味するものは分かる?」
僕は、静かに有栖の話を聞き続ける。
「言えば、今の彼女はコルクで封されているワイン瓶だ。そのワイン瓶に無理矢理、記憶という液体を注ぎ込もうとして状況になっている。はじめはシャワーのように優しく注ぐが無論それでは記憶は入らない。それが駄目ならハンマーで入り口を無茶してこじ開けようとし、次は電動ドリルでコルクを貫通しようとする。どんどんと記憶が溜まっていき、やり方もエスカレートしていく。そうなると彼女という器はどうなると思う?」
「いずれ、衝撃に耐えられず壊れてしまう……」
有栖の言葉の行き先を考えるとこの言葉しか出てこなかった。
「御名答」
「では、先ほどの夕飯での茜の発言は、昔の姉さんの記憶と今の自分の記憶が入り混じって記憶障害が起きているとでもいうのか」
有栖は僕から視線を背けて、
「更に最悪なことに、自身の理想像や妄想の区別ができないほどに記憶が混濁し始めている。さっきの私への末っ子発言も”妹がいたらなあ”という妄想の類から生まれたものでしょうね」
と少し憐れみを込めた小さな声で答えた。
僕は疑問に感じていたことを有栖にぶつけた。
「なぁ……。神様はこのことを知っているんだろうな? その魂の精査とか何とかをしないと魂がぶっ壊れちまうことを」
「ええ、知っているわ。精査する前の壊れた魂の記憶や歴史は消滅してしまうことも、ちゃんと神は知っている」
「……消滅。風呂場で言っていたそれか。死ぬことと消滅はどう違うんだ?」
「人の魂が消滅すると、周辺にいた全ての人たちの記憶からも記録媒体からも抹消される。”なかった人物”にされるの」
その言葉で全身の血管が切れてしまったかのような感情が爆発し、近くにあったゴミ箱を蹴り上げた。
「ふざけんじゃねぇ!! 何が神様だ! 姉さんの命だけじゃなく、この世に存在した証すらお前は奪うつもりかっ!!」
僕は転がってきたペットボトルや空き缶を見たこともない神の姿を想像しながら、思いっきり踏みつけていった。何個も何個もひたすら踏んでいった。
「……もう20本は潰したけど。少しは、気分は晴れた?」
「いや、全く……」
優しい口調で接する有栖の言葉を聞いて僕は虚しくなった。ゴミを踏みつけていたって茜は助からないし、何も変わらないからだ。
「落ち着いたなら、さっさと転がったゴミを回収しなさい」
「あっ、はい」
僕は自分で蹴り飛ばしたペットボトルや空き缶を夜目を駆使して探し、拾っていった。
「まぁ、そこまで激昂するのは分からないでもないわ。私だって、今回のわざと魂を消滅させたいかのような行為に対して神に問い詰めたら、『お前には、関係ない』と突っぱねられたのよ。流石にほんと、頭にきちゃうわ」
「意外だな。天使ってのは神様に従順だと聞いたことがあるが、有栖は違うんだな」
僕の言葉に有栖は少し戸惑いながらも言葉を詰まらせながら話した。
「えっと、大半の天使は神に忠実よ。神が黒を白と言っても即同意するほどに出来上がってるわ。でも、全ての天使はそうじゃない。天使の中にも自由意思をもった個体は居て、時に神の行いに苦言を呈す者はいるわ。でも、そういう子達は天界ではあまり評価が良くなくて、出来損ないとも言われるわ。……私のように」
誇れることではないと思っているのか、有栖の声のボリュームがどんどん下がっていった。
「でも、私は彼女をこのまま見過ごせない、可哀想だ、助けてあげたいと思ったの」
その時の有栖の目が強く真っ直ぐを向き、その言葉は僕にとってかなり心強い言葉に感じた。
「なるほど、な。それで今回の件で退職届を出したのか?」
「そうよ!! 書類を入れた封筒をこうやって、スパーンっとあいつのおでこに投げつけてきたわ! 見事なクリーンヒットよ! 」
僕はその光景を想像して思わず深夜の公園でゲラゲラと笑ってしまった。
「そ、そんなに笑う事じゃないでしょ」
「いや、悪い悪い。第一印象と違い、思ってたより愉快な奴だし、退職届を投げつけた場面を想像したら面白くってさ。あと有栖だって終業式の帰りに会った時、僕のこと訳も分からず笑ったじゃないか。あれ、なんだったんだ?」
「あっ、それは、貴方が……。いや、何でもないわ」
有栖は何か言いかけたが、言葉を飲み込んだようだったが追及はしなかった。
「とにかく。まだ情報を共有しただけで茜ちゃんの状況を打開する解決策をこれから考えないといけないわ」
そういうと僕の太ももから猫ジャンプした有栖は再び発光して少女の姿に戻った。
「これ、毎回光らせる気か?目が眩む……」
「覗き魔の貴方がいるところではね」
笑顔でそういうと、有栖は手を伸ばしてきた。
「これから茜ちゃんのために一緒に協力しましょ」
僕は彼女の手を握り、大きく頷いた。
「あぁ、宜しく頼む。無職天使」
「その呼び方、何故かイラッとするので止めてください」