夕立
終業式から一週間が経った水曜日の午前のこと。僕は太陽の光でタイヤが焦がされそうな自転車に跨り、熱波を受けながらバイトへ向かった。通勤途中、坂道を降りながら眺める巨大な入道雲は、今が夏であることをいつも教えてくれる。子どもの頃から、『午後からもっと熱くなるぞ! 今日も頑張ってな!』っと、入道雲が語り掛けているような気がして、僕は夏になると無意識に入道雲の姿を探してしまう。入道雲にまつわる思い出があるわけでもないのに、何故だか意識してしまうのだ。そうして、自分の中の夏の風物詩を感じながら、夏の暑さに負けないようにペダルを回した。
住宅街を抜けて、大通りを進む。僕は一軒のスーパーへたどり着いた。全国規模で展開する大型スーパーではなく、地域の中小企業が経営する昔ながらの地元密着のスーパーだ。ここが僕のお世話になっているバイト先だ。ここにした理由は自転車で十五分で行けて、そこそこ時給がいいからだ。あとは特にない。
「おはようございます」
従業員の休憩室兼ロッカー室を開けると、店長が神妙な顔つきでパソコンを叩きながらシフト表とにらめっこしていた。以前に、パートのおばさん達は夏休み時期になるとお子さんに構う必要が出てくるから必然と働く時間が短くなる、とスナック菓子をボリボリと食べながら独り言とため息を漏らしていたこと思い出した。あれは、僕がロッカー室にいることを知ってて言ったのか、それとも気付かずにぼやいていたのか。真相は分からないが、働く女性たちを管理する仕事だ。店長は、男の僕に聞いてほしかったのだろうと勝手に解釈している。僕は店のエプロンを身に着けて、休憩室を後にした。部屋から出る際に、店長が新しいスナック菓子の袋を開ける音と豪快な咀嚼音が僕の耳に入ってきた。
「いらっしゃいませ――」
僕はレジカウンターで二つの饅頭を買いに来たお爺さんへ笑顔で接する。お爺さんはビニール袋に詰めた一円玉を釣り銭受けにばら撒いた。
「すまないが、必要な分だけ数えてくれないか? ちょっと手の感覚が鈍くてな」
お爺さんは小刻みに手を震わせながら申し訳なさそうに話した。
「はい、いいですよ」
釣り銭皿に載っている一円玉を216円分を数える作業へ移った。忙しい時間に一円玉だけで精算することはお断りすることもあるが、現在の時刻は9時20分。開店して間もない店内はお客さんよりも従業員の方が多いぐらいだ。少し寒く感じる空調と新商品の告知を流がすラジカセの音声、一昔に流行った最近見ないアーティストの音楽が店内放送で流れる。
店内の独特の空間は普段の日常生活とは違う、別の空間にいるような気分になれる。もしかしたら、僕は店の雰囲気が好きでここを選んだのかもしれない。
「では、216円ちょうど頂きますね」
僕は一円玉を数え終えると残りの一円玉をビニール袋へ戻し、お爺さんへ返した。
「お手数をかけてすまんね」
「いえいえ、このぐらい大丈夫ですよ」
「ありがとね。ところで貴方、歳はいくつだい?」
あっ、これは長くなるパターンだ、と僕は反応した。
「はい、今年で17歳になります」
「そうかい、17歳か。すごく背が大きいね」
「生徒の中では僕よりも大きいやつはいっぱいいますよ」
「ほほっ、そうなんか。……うちの孫も17歳になっていたら大きくなってたのかねぇ」
お爺さんは一瞬僕に目を向けたが、流れるように目を逸らし寂しそうな口調で饅頭とレシートを自分のポケットに詰めて、杖を使いながらぎこちない足取りで店の出口へ向かった。お爺さんの問いに対して、肯定、否定、分からないと言う返事すら僕は答えることができなかった。
レジ係のバイトをしていると、理解はしているつもりではいるが、他の人もこの町に暮らしていてその人たちもご飯を買ったりお風呂に入ったり就寝したりと同じ町で暮らしているのだと実感が湧いてくる。チラシに載っている広告品を効率よく購入するおばさんや閉店間際にお惣菜ばかり買うサラリーマン、果物ばかり買う謎のお婆さん、洗濯用洗剤だけを急いだ様子で買っていったお姉さん。趣味が悪いが、人の買い物の中身を見ると少し楽しくなる。
サービスカウッターの時計の針を見るとそろそろ13時を指そうとしていた。うちの店は水曜日の午後を半休としているため、店内放送で何度も流して音質が劣化した蛍の光が流れ始めた。店内で今までゆっくりと買い物していたお客さんたちが蛍の光を耳をするとワラワラとレジに集まってきた。この現象に誰が偉い人間の行動科学を研究している先生に名前を付けてほしいものだ。
いそいそとお客さんの対応をしていき、最後のお客さんになった。小さな子どものようだ。
「これ、くださいな」
「いらっしゃいませ――」
顔を覗かせるとその最後のお客さんは大量の駄菓子を買いに来た茜だった。僕は思わず授業参観日に親と目があった時の顔をしてしまった。
「店員さん、どうしたの? はやくお会計をお願いしますね」
「仕事モードでふいに来たからびっくりしただけだ。別に必要なものがあるなら、僕が帰りに買っていくのに」
駄菓子の細々としたレシートに苦戦しながらレジに商品を通していく。
「それじゃあ駄目なの。私がこの場で買いに来ないとね」
「また、茜ちゃんのやりたいことリストってやつ?」
「そう。今回は『駄菓子を食べながら帰宅する』というやりたいこと」
海水浴の後も、茜とは山へ登山したり、バーベキューしたり、花火したりと、リスト通りの行動に付き合ってきた。おかげで本来の一人だけの夏休みでは体験できない日々が送ることが出来ている。普段行かないような場所へ行くのは実際楽しく、刺激になったりと嫌いではなかった。そして、茜がそれで楽しくなってくれるのであればと心の中で呟いていた。
茜は駄菓子代を払うと、裏口で待ってるから、と言って駄菓子が入った袋をふわふわ浮かせながら足早に外へ出ていった。
レジを閉めて休憩室に戻ると、僕のロッカーに麦茶とオレンジジュースのペットボトルが入った買い物袋がフックに掛けられていた。周りをキョロキョロを見渡していると僕の反応を察してか、店長がパソコンを打ちながらカーテン越しに話しかけてきた。
「それ、俺からのおごり。妹さんと二人で飲んでよ」
僕は普段、不愛想に見える店長からの差し入れに戸惑いながら、カーテンから頭を覗かせて、
「ありがとうございます。でも、急にどうして?」
と伝えると、そこにはパソコンの画面に集中している店長の後ろ姿があった。
「妹さんな、並木君が仕事してる姿をずっと遠くから覗いてたよ。眺めてないで話しかけてきたら?と伝えると、『総一郎の仕事の邪魔になるから。あと、少しこのまま働いている姿をみていたい』と答えるわけよ。そりゃ、ジュースの一本もあげたくなるもんよ。あっ、その緑茶はいつも頑張ってる並木君へのおまけ」
「酷いですよ。僕のはおまけですか?」
「そう、おまけだ」
プレゼントのオレンジジュースもおまけの緑茶もよく冷えていることを、僕は知っていた。
「妹さん待ってるだろ。早く行ってやれ」
僕は急いで着替えと荷物をまとめて休憩室から出ようとした時、
「店長」
「なんだ?」
「いつも、お仕事お疲れ様です」
「おうよ。こっちは妹さんのようなお嬢ちゃんじゃなく、『お姉様』たちの相手しないといけないからな。モテる男は辛いよ」
冗談交じりの軽い口調で店長は話した。僕は含み笑いをしながら休憩室を後にした。去り際、店長の方からスナック菓子を頬張る音は聞こえてこなかった。
僕は店の裏口から出ると茜が日陰に設置されている従業員の喫煙スペースのベンチに座って待っていた。
「やっと来たか。身体に煙草の匂いがこびり付いてしまうところだったぞ」
「そんなに待たせてないでしょ」
「それもそうだな。まあ、いいや。早く帰ろう」
茜はやけに上機嫌だった。持っている買い物袋を空へ投げ飛ばしそうなぐらい気分がいいようだ。
「では、さっそく。私はミニドーナツから」
「僕はグミを食べようっと」
僕と茜は各自好きな駄菓子を買い物袋から引っ張る。僕は自転車を引きながらグミを口に頬り投げて、夏の青空を眺めながら口に広がるグレープ味を楽しんだ。茜も買ったミニドーナツに舌鼓を打っていた。
帰り道の街路樹は青々と茂り、わずかにできた木陰に身を寄せながら、熱気に溢れる商業地区を二人の兄妹は歩いていく。
「こうして、あの店で買い物するのも懐かしいな」
「え? 茜、僕のバイト先に今回初めて来たでしょ?」
一瞬、茜の表情が固まる。そして、思い出したかのようにいつもの豊かな表情を取り戻す。
「あ、あぁ! そうそう。前の記憶と混同してたわ。あのお店には行ったことはなかったわね」
茜の駄菓子に伸びる手のスピードが速くなった気がした。そして、茜の後ろから猫の鳴き声が聞こえてきた。
「あぁ、その猫もついてきていたのか」
僕は後方へ眼を向けると、クロが僕たちの後ろを一定間隔距離を保ってついてきてることが分かった。
「クロも駄菓子が欲しいんでしょうね」
「猫にはあげられないよ。最悪死ぬでしょ」
「なら、あげなければ別についてきて問題ないでしょ? ただついてきているだけ」
「それもそうだが……」
ただ、クロに自分を見られるのはどうも気分が悪く、見透かされているようで気味が悪くて仕方がなかった。そのことをクロは知ってか知らずか、その大きな眼でじっと僕の姿を定めて離さないかのように視線を動かさない。
「あら。マズイわね」
僕がクロにかまけていると茜は残念そうな声を上げた。ポタポタと周辺で小さな雨音が聞こえてきた。僕は空を見上げると、いつの間にか雨雲が僕たちの頭上を覆い隠していた。
「うわあぁ! 本格的に降り出したぞ」
突然の夕立が僕たちの行楽に水を差してきた。
「総一郎! 私、図書館に返す本があるから先に家に帰ってて!! お菓子、お願いね」
そういうと茜は駄菓子が入った袋を自転車籠に押し込んで、手さげバックだけを持って走り去っていった。分かった、と言う頃には茜の姿は小さくなり自分の声を豪雨でかき消されていた。
「僕も早く帰らないと風邪をひいてしまう」
僕は自転車に跨ろうとすると、先ほどまで後ろにいたクロの姿はすでになかった。
「逃げ足の速いやつめ」
悪態をついてペダルを漕ぎ始めた。雨が降り始めた時に臭わせる土と雨の香りを堪能しつつ、土砂降りの中、自転車を走らせた。
自宅に到着した時には、全身ずぶ濡れの状態で靴も下着も水を吸っていた。アパートの階段をべちゃべちゃと妖怪のような足音を立てながら登っていき、自分の部屋の鍵を開けた。自宅に戻っても天井から降り注ぐ雨の音が響き渡り、部屋の中で音が反響していた。
「まるで台風だな」
そう、呟きながら服を脱ぎ、風呂場へ足を踏み込む。
風呂場には先客がおり、終業式に出会った金髪の少女が全裸で気持ちよさそうにシャワーを浴びていた。