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夏と言えば

 「おーい、総一郎。朝だぞ。さっさと起きろ」


 夢心地の耳に彼女の声とカーテンが引っ張られる音が聞こえてきた。窓から日の光が差し込み、私は吸血鬼のように日光に不快感を得ながらしかめっ面になった。


 「……おはよう、姉さ」


 僕は思わず目覚めの挨拶は止めた。


 「……今更、改まって聞くけど。僕は君のことをなんて呼べばいいんだろう」


 呆気にとられたような顔で彼女に見られた。


 「あら。本当に改まってるわね。昨日あれだけ熱い抱擁をしてあげたのに」


 彼女はそう答えて、口に指を当てて考えた。


 「まっ、お父さんも昨日私のことを”茜”って呼んでたし、茜で良いんじゃない? お姉ちゃんは一回死んじゃったんだし」


 僕は彼女の言葉に少し喉元に引っかかるものを感じたが、それを無視して飲み込むことにした。


 「分かった。僕もこれから茜と呼ぶことにするよ」


 「そっか。あっ、まだ朝の挨拶を聞いていなかったと思うんだけど?」


 茜は後ろに手を組みながら僕の表情を覗いてきた。


 「……お、おはよう。茜」


 この言葉を話した後、窓からの朝陽が眩しくて良く見えなかったが昨日出会ってから初めて茜が穏やかな表情を見せたように感じた。すると、茜はゆっくりと僕の耳元に顔を近づいてきた。


 「別に、茜ちゃんって呼ぶのもいいんだよ? お兄ちゃん??」


と悪戯心に火が付いたような小悪魔のような声で茜は囁いてきた。


 「いや、それは。恥ずかしい……」


 「ふふふっ、そうか」


 茜はこれはこれで面白いと言いたそうな表情で頷いた。


 「ところで、総一郎。夏休みも始まったことだし、私と一緒に遊びに行かないか?」


そういうと、茜は一冊のノートを持ち出してきた。


 「何このノート?」


 「茜ちゃんのやりたいことノート」


 見るからに古そうなノート。最近、買われたものではなく数年以上前に購入された物のように見えた。


 「総一郎から希望がないのであれば、私の計画にしたがってもらいたいけど、いいかな?」


 「別に僕は構わないけど。茜はどこか行きたい場所でもあるの?」


 「行きたい場所ではない。行くべき場所だ! まず、夏と言えば海! 水着! 海水浴だ!!」


と、茜は僕に”海で遊ぶ”と黒い油性マジックで書かれたノートの一面を見せてきた。僕はその提案に賛同した。


 「海か、いいね。それじゃあ、いろいろ準備しないとね」


 「ふふっふ。既にお弁当と新しい水着の準備はできているぞ!」


 ウキウキな様子で茜は二人分の弁当と鞄から真新しい水着が入っているのであろう買い物袋を取り出して、これ見よがしに晒した。


 「手際がいいね。あとは金物屋でポリタンクと三輪車も調達しないと」


 僕の言葉に一瞬、茜は思考の流れが止まった。


 「え? 海水浴にポリタンクに三輪車? なんで??」


 「まぁ、行けば分かるよ」


 僕はそれだけを茜に伝え、金物店へ向かった。






 僕は借りてきた荷台が付いた三輪車を漕いで自宅に戻ると、身支度を済ませた茜が大きな麦わら帽子を被り仁王立ちをして待っていた。


 「何なのこのリアカーは……。こんなの海水浴に必要ないでしょ?」


 「絶対必要になるから」


 「ふーん。まあ、いいわ。総一郎の好きにして」


 興味が薄れた茜はお弁当が入ったリュックを背負い、水がいっぱいに入ったポリタンクと一緒に荷台へ乗り込んだ。


 「あっ。そういえば、荷台に人が乗り込むのは駄目じゃなかったっけ?道路交通法的なアレで」


 「そうだったから。お人形のように可愛い茜ちゃんは現世の法律なんて知らないわ」


そういうと、茜は麦わら帽子を深く被り、荷台を背にして丸くなった。僕はお人形になった茜を引っ張りながら海へペダルを進めた。

 家から海までは緩やかな下り坂になっているため、比較的に容易に進んでいった。川に沿って流水とともに海を目指した。川沿いに植えられた広葉樹の葉が一枚、また一枚と一緒に流れ、また岩や小枝に引っ掛かり足止めを受けていた。まるで今まで同行していた仲間と別れるかのような気持ちになった。

 小一時間漕ぎ続けると河口が広くなり、潮の匂いが僕の嗅覚を刺激し始めるようになった。


 「もう海に着いたの?」


 僕と同じく潮の匂いに気づいたのか、茜がうたた寝から戻ってきた。


 「まだ着いてないけど、もうすぐだよ」


 「そっか」


 その後、茜は再び居眠りをし始めたのか静かになった。僕は目の前に広がる海を眺めながら海沿いの景色と小風に打たれることを堪能していた。



 



 「これがこの町の海水浴場……?」


 怪訝な表情で海を眺める茜。僕たちは一時間以上をかけて町一番の海水浴場にたどり着いた。


 「白い砂浜は?」


 砂浜は少ししかなく、ゴツゴツした岩礁が海辺の七割を占めていた。


 「海の家やイベント会場は?」


 無論、そんなものはない。


 「更衣室は……?」


 水道が通っておらず、手入れもされていない公共の更衣室という名の掘っ立て小屋が一軒あるだけだ。


 「想像していたのとは違った……」


 茜は見るからにテンションを下げていた。


 「太平洋側の海だからって、千葉や神奈川の有名海水浴場のような華やかさはどこにでもあるわけではないということさ」


 実を言う僕も、実家の内陸部から引っ越して間もないころに来たときは少しガッカリしたものだ。


 「……いいわ。わたしにはまだこの新調した水着があるわ。総一郎、茜ちゃんのナイスな水着姿を見て卒倒するんじゃないわよ!」


 茜は息を荒げて、あの掘っ立て小屋に入っていった。その数分後、悲鳴と共に水着姿の茜が逃げるように出てきた。


 「ごごご、ゴキブリが出たっ……!! たくっさん、ワサワサとぞろぞろとぶわっ!!っと」


 ゴキブリは流石に想定外すぎて居た堪れない気持ちになってきた。半分泣きべそをかいている茜を僕は優しく頭を撫でた。



 




 茜はあれから海に入らずにずっとシートの上で座りっぱなしだった。


 「茜、大丈夫?」


 「えぇ。虫にはビックリしたけど大丈夫。ただ、総一郎と砂浜でキャッキャウフフとなる計画からだいぶ逸れてしまったからちょっと疲れちゃって」


 「本人を目の前にして欲望が駄々漏れだね」


 僕は人がない海辺のパラソルの下でゆっくりと文庫本が読みたかったから賛同しただけだったが、今の茜の姿を見ると少し心は痛む。

 しゅんっとし続ける茜の姿を見続ける趣味も持ち合わせていないので文庫本にしおりを挟んで、僕はおもむろにクーラーボックスから取り出したアイスを茜の頬に近づけた。


 「冷たいっ!?」


 「ほら、この真ん中で割るキャンディーアイス。確か、これ好きだったでしょ?」


 僕はアイスの中央を割り、片方を茜にあげた。茜は見た目相応の女の子のように美味しそうにアイスをかじった。


 「わたしが一番好きなリンゴ味! やっぱり、この味は堪らなく好きよ」


 「そうだね。僕も一番好きな味だよ」


 辺りには他の海水浴客はおらず、海のさざ波と海鳥の鳴き声が聞こえてくる程度の静かな空間だった。そんな空間に響き渡るのはアイスを食べる二人のわずかな咀嚼音。そのシャリシャリと鳴る氷の音は私にとって不思議と耳触りの良い音で、できることなら永遠に聞いていたい音だ。


 「せっかく海に来たんだし、私少しだけ泳いでくるね」


 アイスを食べ終わった茜は着ていたTシャツを脱いで、浮き輪を片手に海へ走っていった。僕はそんな茜をパラソルの下で見守っていた。ひとしきり泳いだり、浮き輪でプカプカと浮かんでいると茜は僕の方へ戻ってきた。


 「やっぱり、一人だけだと盛り上がらないわ。総一郎も来てよ」


 「……僕もね、行きたいのは山々なんだけどね」


 僕はちらりと左足の義足を見せた。


 「あっ。 やっぱり、塩水に浸かると壊れやすくなるの?」


 心配そうに尋ねる茜。


 「いや。単純に海の水に浸かりたくない。汚いし」


 こんなことを言っておいてなんだが、この発言で静かに茜がキレたことが雰囲気で分かった。


 「この海を汚水とかいう現代もやしっ子はこっちに来なさい! 茜ちゃんが海水浴の何たるかを教えてやる!」


 そう言うと茜は僕の手を引っ張った。力が弱い小学生程度の握力。到底、茜だけでは男子高校生の僕の身体を動かすことはできない。

 だけど、この風景は昔に姉さんに手を引っ張られた時と全く同じ視界、同じ感覚に似ていた。僕は思わず足の筋肉に力を入れて茜の引率に従った。当時の記憶を蘇らせながら茜の手を握り続けた。

 そして、僕は茜に波際で背中を押されて倒れて全身水浸しになった。


 「うわぁ、しょっぺー」


 「まだまだ沢山海水はあるぞ――」


 茜は持ってきた水鉄砲で僕の顔へ海水の追い打ちをかけてきた。必要以上に鼻を集中して狙ってくるため、鼻の中が非常に痛く為すがままではいられなくなってきた。


 「こっちだって、やられっぱなしじゃないぞ」


 足で大きく海面を蹴り上げて海水を茜にめがけて掛けた。


 「つめたーい! 流石、男子高校生。筋力を利用したいい水掛けっぷりだ

 再び、水鉄砲で僕の鼻を狙う茜。


 「だから、鼻を集中して狙うなよ。本気で痛いんだぞ!」


 「敵の弱点を狙うのは戦いの定石よ」


 「……なら、その武器を奪うまで!」


 「あぁ!! 総一郎、相手の武器を奪うのは反則よ。この水鉄砲は茜ちゃん専用の装備なんだから!――」


 僕らは走ったり、泳いだり、水を掛けたり、海に浮かんだりしながら今までの時間を埋めていくかのように一緒に過ごした。




 太陽が傾き始め日が暮れてきた。心地よかった海の陽気も肌寒い風が吹き始め、いつの間にかどこかへ行ってしまったようだ。


 「暗くなってきたし、そろそろ帰ろうか。総一郎、シャワー室はどこ?」


 「…………」


 僕はシャワー室を指差す。だが、その先には『修理中』と書かれた看板と規制線テープが張られている建物があるだけだった。茜は深いため息を漏らした後に怒りを露わにした。


 「またかいっ!! どうなってるのよ、この海水浴場は」


 「僕も前に来た時もこうなってて使えなかったんだ。おかげでベタベタした海水を滴りながら自転車を漕いで帰ったよ」


 「……あぁ、だからポリタンクいっぱいの水がたくさんいると言ったのね。やっと謎が解けたわ」


 「そういうこと。出来れば今回で修理済みになってた方がよかったんだけどね」


 すると、茜はあることに気付いた。


 「ん? ちょっと待って。真水はあるにしてもどこで水を浴びるの? シャワー室は作業道具とかも置いてあるみたいだし、入れないわよ?」


 僕は海水浴場の隅にある岩場を指差した。


 「昼間に少し調べてみたけど、死角が多くて着替えやすそうだからあそこで着替えることにしよう」


 そう言って振り返ると、茜はわなわなと肩を震わせていた。


 「はぁ! 馬鹿じゃないの!? 完全に外じゃない!! そんなことしたら完全に露出狂よ、露出狂っっ!!」


 「人なんて僕たち以外誰もいないし、このまま水浴びないままだと日が完全に暮れてベトベトしたまま帰ることになるよ?」


 「ううぅ……」


 茜は眉間にしわを寄せて熟考した。諦めた様子で口を開いた。


 「分かったわよ……さっさと水を浴びて帰りましょう。 でも、ちゃんと周りの様子は常に見ててよね」


 僕は、うんっと頷くと重いポリタンクを岩場まで運ぶことにした。


 ポリタンクに手動ポンプを取り付けてその先にシャワー部品を取り付けた。


 「茜、シャワーの準備は終わったぞ」


 「……ちゃんと周りを見ててよ?」


 「分かってる。あれ、水着を着たままシャワー浴びるの?」


 「私にすっぽんぽんで外に居ろとでも? 家に帰ったら即お風呂よ……って、冷たいっ!!」


 「なら、ささっと浴びて帰らないとね」


 「水を出すぐらい言いなさいよ!」


 水平線の彼方で太陽がどんどん姿を隠していく光景を見ながら、右手では手動ポンプを動かし、死んだはずの姉の水浴びを手伝っている奇妙な状況に、僕はあまり実感が持てなかった。

 あの日のあの時、僕が道路に飛び出さず別の行動をしていたら、このような一般常識から逸脱した不可解の姉弟の関係ではなく、普通の姉と弟として海に遊びに行くようなこともあったのだろうかと。僕はこの状況に感謝すべきなのだろうか、受け入れるべきなんだろうか。


 「そういち……、総一郎っ!! もう水はいいから止めてタオルを頂戴!」


 「あっ。嗚呼、ごめん。ぼーっとしてた」


 「もぅ、全く。着替えるから外向いて、誰か来ないか見張っておいて」


 茜の言葉に僕は従い、岩場の外側の様子を眺めた。後ろからゴソゴソと衣服が擦れる音が聞こえる辺り、着替え始めたようだ。

 ここで僕に悪戯の天啓がひらめいた。今、僕が知らない男性グループが近づいていると嘘をつくことだ。以前なら姉さんに悪戯をするなんて思いもしなかったが、何故だか今回慌てる茜の反応を少し見てみたいと感じてしまったのだ。


 「あら。こっちに学生が花火を持って向かってくるよ」


 「えっ? ホントに!?」


 「あぁ、楽しそうに談笑しながら歩いてくるよ。六人ほどいるかな。この岩場に来るみたいだよぉ?」


 すると、その瞬間に僕の背中に人肌を感じた。僕は思いもしなかった反応にビックリしたが、それは紛れもなく茜の肌だった。茜は僕の背中から腕を回す形でぐいぐいと密着してきた。


 「茜……さん?」


 「お願い…… それとなく事情を話して別の場所で遊んでもらって……」


 夕暮れの風の寒さとは別の震えが茜の身体から伝わってきた。


 「あぁ、えっと……」


 「これでもね、身体を男の人に見られるのは恥ずかしいのよ?」


 「あっと、ええ、大丈夫!! 今のは嘘! 嘘だから。学生たちなんていないから。ははっ、はぁ……」


 僕は慌てて真実を話した。そして、僕はこう思った。『驚かせるんじゃないわよ!!』っと怒る茜の声が。でも、反応は違った。


 「嘘なの?」


 「うん、ゴメン……」


 「そっか。 それはよかったけど、少し怖かったよ……」


 その後、背中からすすり泣く声が聴こえてきて、僕は慌てふためいた。


 「悪気があったわけじゃないんだ。少しどういう反応するか興味が湧いてきて……」


 

 「ほぅ。興味が湧いたっと」



 茜から聞こえてきたすすり泣く声は部屋の電気のオンオフのように簡単に切り替わった。


 「何時でも何処でもお兄ちゃんにピッタリついていくような、か弱い妹の反応したらどうなるかなと思ったけど、ここまでうろたえるとは茜ちゃん思わなかったわよ」


 「僕を騙したのかっ!?」


 僕は振り返り、詐欺師に抗議をした。


 「最初に騙したのはそっちでしょうが」


 ぐぅの音も出ない。


 「それで、どっちがいいの?」


 「えっ? 何が?」


 「どっちが可愛い?? 反抗的な妹キャラか、お兄ちゃん大好き妹キャラか、どっちがお好み? 総一郎が好きな方に茜ちゃん合わせてあげるわよ??」


 からかい度満点の笑顔で茜は僕の妹的要望を聞いてきた。回答なんてどちらでもいい。ただ、僕の反応や表情を嘗め回すかのように待機している、そのような感情だ。


 僕はこの人には死ぬまで勝てないのだろうなと悟った。

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