並木道と傾斜道
姉さんは、僕にとって頼りがいのある大切な人だった。
あの日の夕方の出来事の時、姉さんは17歳で僕は7歳だった。いつも泣き虫だった僕のことを引っ張り、事あるごとに助けてくれた。僕にとっては姉というよりも、もう一人の母のような存在だった。父母は共働きで家を空けることが多く、僕の世話はいつも姉さんがしていた。食事に洗濯、お風呂に宿題。僕にかかわることはほぼ全て姉さんが担ってきた。姉さんも友達と一緒に過ごしたい年頃のはずだったが、何一つ不満を僕の前で漏らさずに世話をしてくれた。
僕はそのような姉さんは敬愛し、好いていた。いつか自分が大きくなったら、姉さんの望みややりたいことを叶えてあげようと思っていた。
だが、その夢も潰えてしまった。何故なら、姉さんはトラックに轢かれて死んでしまったからだ。
温かい日差しが僕を眠りから覚まさせると、そこは僕の高校の教室だった。時間は11時過ぎ頃。1学期の期末テストと終業式を済ませ、あとは生徒たちが待ちに待った夏休みに向けて、担任の五十嵐がHRの時間を使って諸連絡を伝えているところだった。
「いつの間に寝てたんだ、僕は」
今日は、いつもの猛暑とは違い、ほどよい気温とそよ風が教室の窓際を居眠りには絶好のポジションへ変貌させた。この誘惑に敵う者は世界に数人ほどしかいないだろう。なので、たとえ眠ってしまっても僕は悪くはないのだ。悪くない。
寝起きの状態で五十嵐の連絡に耳を傾けていると、そろそろ連絡が終わる頃合いのようだった。
「では、これで連絡事項は以上になる。みんな、病気やケガをしないように過ごして下さい」
五十嵐の終礼の挨拶が終わるとともにクラスのみんなは足早に教室から去っていった。いつの間にか教室にいる生徒は僕だけになっていた。
ある人は部活へ、ある人は塾へ、ある人は遊びに。皆が思い思いの高2の夏を満喫しに出かけて行った。そんな中、私は今頃からいそいそと帰宅の準備に取り掛かった。私は部活もしていないし、塾もないし、友達もいない。夏休みにあるのは、スーパーのレジ係のバイトのみだ。
今の環境に不満があるわけではないが、僕は客観的に見ても人間的に寂しい奴とは感じている。そんな僕がもそもそと身支度をしていると、五十嵐が話しかけてきた。
「並木、どうした?忘れ物か?」
「いえ、身支度が終わらないだけですよ」
「はははっ、お前は相変わらずだな。いつもながら、テストで毎回高得点を取る優秀者とは思えないマイペースだ。よくそれで勉強についていけるな」
「……スタートが遅くてもゴールさえできればいいんですよ。僕は言わば兎と亀に出てくる亀なんで。あとほら僕って、外見的にも”亀”みたいなもんですから」
僕はふざけながらズボンのすそを捲り上げて、左足に装着している義足を指さした。足元には他の生徒の誰よりも汚れが付いていない上履きが輝っていた。
「あぁ……。先生は、そういうジョークはあんまり好きじゃないな」
声色が低くなり悲しそうであるが、眼を鋭くした様子で五十嵐は答えた。
「ごめんなさいっす」
僕はすぐ軽い調子で誤った。だが、こうでもしないと当の本人はやっていられないんだ。
空気を悪くしてしまったし、僕もさっさと荷物をまとめることにしよう。そして、そそくさと五十嵐から逃げるように教室から去ろうとすると
「あっ、待ってくれ並木」
再び、五十嵐に呼び止められた。
「なんっすか先生。僕も帰りますよ?」
「ああ、ちょっと言っておこうと思ってな」
「??」
「今日のお前なぁ、悪いモノに憑かれるかもしれないから気を付けろ……」
教室が一瞬、無音になりすぎて耳鳴りが聞こえてきた。
「はぁ。またいつもの趣味のオカルトですか?」
僕は鼻で笑いながら冷笑した含み笑いで聞き返した。
「いやいや、今日は本物だ。先生、いつも以上にビビビっと感じてだな!」
「今日”は”と言ってる時点で信用性0ですね。あと女子が言ってましたよ?先生の占い、驚くほど当たらないからどう扱えばいいか超困るって」
五十嵐にアドバイスを添えて逃げるように教室から去ることにした。
「うそっ、マジで? いやいや、先生の占いは当たるから!!超当たるからな!!」
と、生徒がいなくなった教室から自称占い師の叫び声がこだましていた。誰もいなくなった昇降口。トントンと外靴に履き替える音が廊下へ鳴り響く。僕は、校庭で残って練習している野球部員を眺めながら高校を後にした。
蝉の鳴き声がけたたましく響く並木道を、僕はまるで水を求める遭難者のように歩き続けた。枝葉の隙間から注がれる日光はじわりじわりと僕の体力を奪っていった。道沿いに流れる小川のせせらぎが少しばかりではあるが、夏の厳しい暑さを和らいでくれているかのように感じた。
並木道から外れ、傾斜になっている小道へ進んだ。ここから5分ほど進んだところに学校公認のアパートがあり、僕はそこに去年の春からお世話になっている。お世辞にも綺麗な佇まいとは言えないが、学校から近くて部屋の広さも十分、家賃も安かったので満足している。しかし、このリンゴを落としたら止められない速さで転がっていきそうな急勾配な坂道は、体育などで疲れた日には堪えるものがあるのは事実だ。僕は日差しでやられているわが身を癒すべく自分のオアシスへ向かった。
太陽が照り付け、こんがりと焼きがあっている歩道を登山者のように登る僕の先に、小さな人影が見えた。逆光のおかげでよく見えなかったため眼を凝らして見ると、
それは黒いワンピース服を着た少女だった。
彼女は、髪は金髪で碧眼、肌は白く、童顔であるが見た目に反して手足は歳不相応にすらっと伸びている。ここらでは見かけたことがない外国人の子どものようだ。中学生ぐらいだろうか。
そんな、おそらく初対面の少女は両手を後ろに組み、視線を僕の方へ向けているようだった。
「お兄さん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど――?」
流暢な日本語で話しかけ、坂道の上で少女は手を振った。僕は周囲に目を配ったが、この猛暑日の正午頃に好きで外出している物好きな人間は近くにはないようで、少女は僕に声をかけているようだった。僕は歩きながら少女に答えた。
「なんだ? 南高校なら、この坂を下った先のT字路を右だぞ」
「違うの。わたし、道を聞きたいんじゃないの」
高校のクラスメイトか関係者の子どもやきょうだいかと思ったが、的が外れた。
「じゃあ、一体なんだ?」
僕はこの暑さからめんどくさそうに訪ねると、少女は純粋な眼差しと興味に取りつかれたような表情を浮かばせて答えた。
「ねぇ。お兄さんは、奇跡を受け入れられる?」
見ず知らずの少女から想像もしえない質問をされて言葉に詰まらせた。
”信じる”ではなく、受け入れられるとはどういうことだ?
「はあぁ? 奇跡?」
「そう、奇跡。夢や欲望ではなく、人類がどうやっても不可能な人智を超えた現象のことよ」
「……あぁ。そういう話なら僕の担任と話すといいよ。きっと君の話を喜んで聞くためにジュースとアイスをもって歓迎すると思うよ」
この子、五十嵐と同じ種類の子か。僕はそう思いながら少女をあしらうと歩みを進めた。すると、少女はいきなり僕の腕を掴んだが、想定していた力とは異なった。単なる腕力ではない、何か接着剤のようなもので止められた感覚。僕は彼女に足を止めさせられた。
「ちょっと! 話は終わってないわ。ほら、”これ”を御覧なさい」
僕は警戒心を持って振り向くと、先ほどの不思議な感覚はなくなり歳相応の女の子の腕力だけが腕に伝わていた。
少女は、自らの足元を指さしていた。僕は先ほどの現象に戸惑いながらも少女が見ろと言った先を見た。すると、彼女のか細い足と水色のサンダルが目に入った。
「いいサンダルだな。ご両親に買ってもらったのか?」
僕の言葉のあと、一瞬の静寂が訪れた。
少女も、先ほどの僕と同様に反応に困っている様子だった。少女は鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かばせたのち、次第に僕に指を差しながら口元が緩め大笑いをし始めた。
「ははっ、はははっは! 貴方って面白くって最高ね!! ここまでくると芸術級よ。ふふふっ」
終いには、地面で笑い転げるブロンドの少女がそこにいた。僕は彼女の思考の流れについて理解が追いついていなかったが、馬鹿にされていることは理解できた。悪くないはずなのに、妙な気恥しさが僕を襲った。
「なんなんだ、一体……。急に人のことを指差して笑って……。失礼だぞ」
「ごめんなさい、ごめんなさい。その返答は想定できなかったから、つい。でも、こんなお兄さんなら逆に大丈夫な気がしてきたわ」
「だから、その受け入れるとか大丈夫って……」
僕が言葉を言い終わる前にいつの間にか少女は坂道のふもとまで移動していた。
「いい結果を期待しているからね、お兄さん」
そう、少女は言うと坂を下り、並木通りに姿を消していった。
「あの子はいったい、なんだったんだ……?」
まるで台風のような少女の後姿を消えていく光景を、僕は唯々眺めることしかできなかった。