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夕方のやり直し

 人を刺したという感触は、よく分からなかった。ノートの心臓部は鉄杭が貫かれており、そこからおびただしい量の血液が流れている。鉄杭は姉さんの身体も貫いているが、身体からは血液が流れずぽっかりと穴が開いているだけ。まるで人形のような身体だ。

 しかし、その人形の表情は先ほどから微笑んだまま固まっていた。


 「これで……本当によかったんだろうか」


 あの時、僕を救った姉さんを助けてあげたい。恩を返したい。幸せになってほしいと、今のここまで切に願ってきた。でも、姉さんの願いは僕に殺されることだった。正直、驚いたしやるべきかどうか揺らいだ。

 でも、姉さんの望みなら僕は”やる”という選択肢しかなかった。それが僕が背負った十字架だから。


 でも。


 「でも、なんでこんなに辛いんだ……。僕は姉さんの役にたったはずなのに。姉さんを幸せにしてあげられたはずなのに」


 「殺したくなんてなかった……」


 声にしないように踏ん張っていた言葉がついに漏れてしまった。あふれ出る涙を手で拭うと、代わりに手についていた姉さんの血液が僕の涙腺に付着する。今まで涙で見えなかったが、ここがどこであるか再認識した。そうだ、僕は屋上にいるのだ。

 すると、ぼんやりとした意識の中で自然に脚がフェンスへ近づく。ゆらゆらとまるでゾンビのような足取りで金網の隙間に足を押し込み、フェンスをよじ登っていった。そして、頂上に僕は足をかけた。


 「ここから飛び降りたら、すぐに姉さんに会える……かな」


 風が全く吹いていない夏の夜。容易にフェンスの頂上で立つことができた僕は夜空を見上げ、背中を建物の外側へ向けると重心を後方へゆっくりと傾き始めた。綺麗な夜空を眺めながら落ちるというのもいいもんだな。フェンスの頂上に接していた足の裏が宙に投げ出された。ジェットコースターの一番初めの浮遊感が一瞬だけ感じられた。あとのそのまま、落ちるだけ……。


 しかし、目の前の景色に変化はなかった。同じ視点から見える夜空は相変わらず輝いていた。


 「僕、浮かんで……いる?」


 「総一郎さんっ!!」


 屋上の出入り口から僕の名前を叫ぶ声が聴こえてきた。それは有栖の声だった。有栖は険しい表情を浮かべながら僕に訴えかけた。


 「私の力で重力を操作し続けるのは、もう限界ですっ!! 早くフェンスに掴まって下さい!!」


 有栖は自分の力を使って僕の落下を止めているようだった。落ちるつもりだった僕は有栖の行動を目の当りにして、自分がどうするべきなのか分からなくなった。フェンスまでは数十センチ。腕を伸ばせば簡単に掴むことができる。でも、僕がもう生き長らえる理由が。


 「お姉さんが助けた貴方の命を、粗末にするつもりですかっ!?」


 その言葉でハッと気づかされた僕はフェンスに腕を伸ばす。伸ばした瞬間に有栖の力が切れて一気に重力に引き込まれる。落ちる寸前のところをフェンスに掴まることができ、僕は屋上側へ身体を入れ込み、そのまま落ちるような形で屋上のコンクリートに身体を強打させた。有栖は僕へ駆け寄り、そのまま僕の顔をビンタした。


 「何を考えているんですかっ! もう少しで落ちて死ぬところでしたよ」


 「ごめん。そして、ありがとう有栖」


 「お礼なんて必要ありません。自分の命をもっと大切に使ってください」







 有栖にここで起きた姉さんのどんなやり取りがあったか教えた。助けた後ずっと憤った様子の表情を浮かばせたままだった有栖はその後、姉さんの方を向いて沈黙したのちに、同情した様子で言葉を続けた。


 「茜さんのお願い、叶えてあげたのですね。さぞ、お辛かったでしょうに」


 「僕は、姉さんが助けたこの命を大切にしないといけない。でも、大切な姉さんをこの手で殺したことは思っていた以上に辛い。考えていた以上に辛い。苦しい。胸が張り裂けて、死んでしまいたいんだ」


 「でも、僕がやってしまったものは元には戻せない。僕はこのまま生きながら、この覚悟したはずの苦しみに死ぬまで耐えていかないといけない」


 僕の泣き言を聞いていた有栖は神妙な面持ちで話し始めた。その姿は、いつぞやの下校時に見かけた少女を思い出す。


 「総一郎さんは、奇跡を受け入れられますか?」


 「それ、どこかで聞いたような台詞だな」


 「先ほどの総一郎さんの話を聞く限りだと、茜さんは総一郎さんが死にそうになる瞬間を目撃したことで、自分の歪んだ欲望に気付いてしまったと言っていたようですが」


 「あぁ、確か。それまで生きてきて何かモヤモヤとした理解できないものを自分の中に感じていたが、あの時に”分かってしまった”っと姉さんは言っていた」


 「なら、総一郎さんが身に迫る危険な場面と遭遇しなければ、茜さんは総一郎さんに殺されて人生を終えたいという特別な感情に気付かないことになりますよね?」


 「理屈としてはそうだが、もう終わったことは変えられないだろ」


 僕は出来ない仮定の話ほど悲しいものはないと思いながら話して有栖の顔を覗った。しかし、彼女の顔はただのたらればの話をしているようには見えない真剣な表情をし、僕に何かを決めてもらいたそうな様子だった。僕は、その有栖の異様な雰囲気に勘づいてしまった。


 「もしかして、”過去に戻れる”のか!?」


 有栖は一回だけ強く頷いた。

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