茜ちゃんのやりたいことノート
泥のように眠っていた身体を起こすと陽は完全に昇りきり、午後になっていた。部屋には茜も有栖も居ない様子で台所の蛇口から滴る水滴がグラスの水面に落ちる音しか聞こえない。外から蝉の鳴き声も、近所の子ども達の遊ぶ声も飛行機の飛ぶ音も聞こえなかった。自分だけ取り残されたかのような妙な感覚。
お腹も空いていたので冷蔵庫へ歩を進めると、テーブルの上に四角いメモ用紙が置いてあることに気付いた。
『買い物に行ってきます。冷蔵庫にそうめんがあるからそれを食べてね。茜より』
と書かれていた。
「僕を残して買い物か。声をかけてくれればいいのに」
残されたことによる不服な感情のあとに、いつもの茜の反応だと安心する気持ちと今はあまり茜に会いたくないという気持ちが僕に流れ込む。
「今は一人で居たいし丁度いい、か」
冷蔵庫から少し固まり始めたそうめんを再び流水で解し、つゆに生姜を入れ、そうめんを半分ほど浸して黙々と食べ始めた。
今朝の茜はまるで別人のようだった。自分が欲しいもののためには何でもするような、そういった人物のように見えた。欲望と願望、自分の理性が無くなり表面からにじみ出ていた。相手のことを理解しない、配慮しない、自己中心的な思考。まるで獣のようだ。あれが茜が隠している本当の願望。
だが、僕に殺意を抱いている茜のことを僕は助けたいと思った。茜の満たされない気持ちを癒して、転生して次の生を楽しんでほしいと。自分にできることなら何でもする。たとえ、自分が殺されるとしても。
心の中で自問自答をして覚悟を固めていく。心の中では自分自身たちの大論争と怒号が飛び交っているが、僕がそうめんをすする音だけが部屋に響く。そうめんを頬張り、食道へ押し込み、つゆしか残ってない器を眺めながら僕は呟いた。
「やっぱ、死ぬって怖いなぁ」
昼食をとって一息しながら僕しかいない部屋をぼけーっと眺める。いつも視界に入ってくるなじみのある空間。何気ない日常がここに詰まっている。
だが、そんな平穏な場所に普段目にしないモノがあることに気付いた。
それは「茜ちゃんのやりたいことノート」だった。
ノートは他の本と一緒に荷物の外にほっぽり出されている状態だった。おそらく、何か別の作業に気を取られて鞄の中に戻すのことを忘れてしまったのだろう。いつもなら茜が自分の荷物の中に大事に隠して、僕の前ではそうそう広げようとしない本。
以前に有栖と話した、茜がこうして僕の前に現れた原因が現世に対する強い執着であるとすれば生前から残しているあのノートに何かヒントが書かれているかもしれない。そう考えると自然とノートに手が伸びる。
年季が入ったそのノートは所々しわと汚れが付いていた。勿論、開くことには罪悪感を覚えた。理由はどうあれ決して見てよいことにはならない。だが、これは見ないと本当の茜のためにならない。僕は言い訳を頭の中で復唱しながらノートの表紙を開いた。
最初のページには、海水浴に行きたい。散歩しながらアイスを食べたい。面白い恋愛映画を堪能したいなど、この夏に僕を行ってきた内容が綺麗に書かれていた。実行したものに対しては赤いペンで丸印とにっこりとほほ笑むキャラクターのイラストが書かれていた。
書かれていた内容を見て、僕は先ほどの緊張が解かれてほっと胸を撫でおろした。あとも、焼き肉が食べたいだの海外旅行に行きたいと他愛もない願望が散りばめられているページが続いた。ぺらぺらとノートをめくっていると最後のページとなった。
僕は目を疑った。手の先から生暖かいものを感じた。その最後のページを見て触れた瞬間、ノートを投げ捨てて声にならないほどの悲鳴を僕は泣き叫んだ。僕の手から離れ、宙を舞うことになったそのノートから赤い液体が吹き出し、僕の部屋を赤く染めた。
最後のページには”肉”が張り付いたのだ。
ただ単純に張り付いているのではない。血管が張り巡らされ、均一に鼓動が起こり、血が巡っている”生きている”肉だった。その悍ましい光景はさながらホラー映画のワンシーンのようだ。
「生きている……? ノートが生きているのか?」
壁に叩きつけられて床に落ちたノートはビクンビクンと痙攣でもしているかのように動いていた。しかし、そのノートは動いたり話し始めたりもしなかった。僕は恐る恐る投げ捨てたノートに再び手を伸ばす。
「生き物、ではなさそうだ」
触れた肉の触感は気色悪く、想像を絶する不快感が僕の肌の上を駆け巡った。手でその異様すぎるノートのページを調べていくと二枚のページがくっついていることに気付いた。
「これ、ページとページが張り付いているのか」
僕は肉と肉の隙間に指を突っ込みページの端から剥がしていった。気持ちが悪いし何が起こるか分からない。でも、茜のことを知りたかった。僕はゆっくりと慎重に端の方から順番にめくっていった。
「あとは、中央部分だけだ」
外周りに謎の肉がこびり付いていたが、ページの真ん中付近は普通の紙がのぞかせていた。おそらく、この何か書かれているのだろう、そう直感した。赤い液体でべとべとになった手で残った部分の引きはがしにかかる。
すると、ドタバタと足音が聞こえてきて、荒々しく玄関扉が開いた。
茜だった。左腕には今日の夕飯の食材を詰めた買い物かごをぶら下げながら息を切らせて、僕の様子を確認していた。
「茜っ……! これには事情があって」
下手な定型文が口から出る。人様の秘密を勝手に覗き見る。これは本当に許されない行為だろう。しかも、相手は僕のことを恨んで殺そうとしている茜だ。この次に起こることは明白だった。
僕はほとんど諦めの境地で茜の反応を待った。僕を殺して願いを叶えて未練を失くして幸せになってほしい。でも、やはり出来るだけ痛いのは嫌だなっと頭の中では殺される方法について何が好ましいかと情けなく考え始めていた。
しかし、扉が開けられてから数秒。茜はそこから動かなかった。一目散に首を掴まれて刺されるのではと思っていただけに拍子抜けをした。
「あ、茜?」
名前を呼びかける。
ここで改めて冷静に茜の表情をよく見ることができた。そして、気付いた。
彼女は泣いていた。嗚咽を漏らし、親の大事なものを壊してどうしたらいいか分からない子どものように僕は見えた。
「どうしよう……。心の準備が出来てない」
茜はひどく困惑しているようだった。
「総一郎……。お姉ちゃんのことを嫌いにならないで下さい。変なお姉ちゃんを許して……」
紙をくしゃくしゃにした様な泣き顔を僕に見せると、茜はどこかへ走り去っていってしまった。
「どこに行くんだ!?」
慌てて、玄関から飛び出し家の前の道路を見渡したが、既に茜の姿は見えなくなっていた。道路の向こう側から声が聞こえてきた。
「総一郎さ――ん。どうしたんですかっ!」
疲労困憊で肩で息をしながら走ってきたのは有栖だった。
「茜さん、買い物していたと思ったら……。はぁ、急に走り出して、そのまま私を置いて行ってしまって」
「……茜にノートを見ているところがバレた」
「あの、お話であった例のノートですか?」
「でも、そんな俺の姿を見たら何故だかどこかへ走り去ってしまった。わけがわからんよ……」
「それで、ノートには何と書かれていたんですか?」
「見る前に茜が帰ってきたから、まだ内容は分からないんだ」
僕と有栖は一旦、部屋に戻りノートの中身を確認することにした。
「何ですか、その悪趣味なアイテムは……」
この脈打つ肉のページは、有栖の反応から見ても天界でも常軌を逸脱している代物であることは理解できた。
「それじゃ、開けるぞ」
僕は最後に残ったこびり付いた部分を慎重に開いていき、茜が書いた欲求が綺麗な文字でそこには書かれていた。
「総一郎さん」
「どうした」
「これが、茜さんが叶えたい願いなんですか……?」
「……そう、らしい」
会話はここで止まり、僕たち二人は言葉を詰まらせノートを眺め続けた。そこにはこう書かれた。
「総一郎に殺されて、私がこの世から去れますように」と。




