あみだくじ
私は芹沢良子40歳、介護歴9年の中堅です。神戸にある有料老人ホーム「ラ・デュース愛の里」というところで、常勤として勤めています。
話しは10月初旬のことです。私は夏期休暇5日間を取り、主人と台湾旅行に行っていたので、6日振りにお土産のパイナップルケーキを持って出勤しました。すると、なにやらスタッフルームで、職員2人が深刻な雰囲気で話しているのを見つけました。もしかしたら、私が呑気にパイナップルケーキを選んでいる時に、何か重大問題が発生したのかもしれません。
「どうしたんです?」
気になって私が聞くと、オカッパ頭の53歳の女性正職員、少々太った山本さんが1枚の紙を見せて言いました。
「ちょっとこれ見てーな」
山本さんの見せてくれた紙を見ると、そこには誰かが手書きで書いたあみだくじがありました。
「なんですか?このあみだくじ?」
「先月の会議で、介護事例発表会の事例を誰が書くか決めなあかんなぁって話しになっとったやんか」
「はい」
「それをなあ、急に主任がな、こんなあみだくじ作って勝手に決めとんねん。ホンマあのくいだおれ人形、全部自分で、職員の名前も当たりの文字も線も書いとんねん、どない思う?」
山本さんはかなりご立腹の様子で、その証拠に、主任の事をいつもは「主任」と呼ぶのに、「くいだおれ人形」だなんてアダ名で呼んでいました(確かに32歳の主任は、大阪にある「くいだおれ人形」に似ていました)。さて、私があみだくじ見てみると、汚い字で書かれた私の名前もそこにありました。よく見ると2つも。もしかしたら、私がパイナップルケーキを選んでいる時に、私が事例発表者に選ばれていたのかもしれないのです。
「あれま、確かに私の名前が2つもありますね。でもあみだくじで決めるんなら、せめて自分の名前くらい自分で書きたいですね」
「そうやろう。なんか常勤は名前2つらしいねんけどな、そんなん主任が勝手に決めて勝手に書いて誰が納得すんねん」
ところで、このあみだくじ最大の問題は、その当選者にありました。選ばれた職員によってはそれ程問題にならず、すんなり物事は進んだのかもしれません。しかし、晴れて当選者に選ばれていたのは、「般若の相崎」と皆に煙たがられている34歳の女性非常勤職員だったのです。なぜ、相崎さんが煙たがられているかと言うと、発言は誰に対しても上から目線、ビシビシと自信満々にダメ出しや指図をしてくるからです。さらに妙に甘えたところがあり、自分に不都合が生じると、文句は言いまくるわ、いろいろ要求してくるわで、関わるとろくな事にならないのです。
「これはでも、選ばれた人が悪かったですねえ」
なので私は笑って言いました。相崎さんがしゃくれたアゴを動かして目を細め、いつもの般若スタイルで文句を言いまくっているのが、目に浮かぶようでした。
「でもなぁ、アンタだって知らん間に選ばれとったら嫌やろ」
しかし山本さんの返事は、私が想定するものとは違うものでした。相崎さんの悪口を言うことは職員共通認識かと思っていたのだけど、山本さんはそうじゃないみたいです。これは、ごまかさなくてはなりません。
「嫌ですね。もし私が選ばれてたら困ります」
なので、私は真剣な感じでそう言いました。
「そうやろう。それにな、あみだくじ結果出てから、主任が変やってん。ジーッと1時間くらい隅っこであみだくじ眺めとんねん」
「そうだったんですか」
その主任の気持ちは分からないでもないです。よりによって相崎さんが当たってしまったので、どう言えば良いのかと思い悩んでいたのでしょう。
「相崎さんも怒っとったからな、主任に抗議するって言うとったわ」
それはそうでしょう。般若の相崎が怒らない訳がないのです。これほど分かりきった事はありません。だからこそ主任は1時間もあみだくじを眺めていたんです。
さて、私が相崎さんに会ったのは翌日の事でした。案の定、帰り際に文句を言いまくっていて、少し離れたところにいた相崎さんの言い分が聞こえてきました。それは、今回の事は出来レースで、私に事例を書かせようと主任が仕組んだに違いない、といったいささか被害妄想的な飛躍した内容でした。
実際のところどうなんでしょう?相崎さんの言うように主任はそんなイカサマをしたのでしょうか?
いずれにせよ、あみだくじの作成から当たりの決定まで、主任が全部1人で誰も立ち会う事もなく行った事が、様々な憶測を生む結果になったのは事実です。
それからさらに2日後、私が出勤してみると、新しいあみだくじが職員用連絡ノートに挟まれており、自分の名前を書いて下さいと書かれていました。他にも、事例を書くのは常勤であるという風潮があるが、そんなことはなくて、誰でもやらなくちゃいけないという事や、ある利用者を対象にしてこんな風に書けば良いみたいなフォロー的な事が書かれていました。
なるほど、相崎さんにいろいろ言われたのでしょう。それにしても、なんだか腰が引けてるなぁというのが私の印象でした。
私は新あみだくじに名前を書く事にしました。常勤は例の如く2つです。ところで新あみだくじがどのようなスタイルになっているかと言うと、職員の名前の数だけ縦線が印刷されており横線はありませんでした。ようするに横線は後で自由に職員が記入出来るシステムで、当たりは予め折りたたまれていて、両端にホッチキス、真ん中はセロテープで止められていました。
なるほど、今回はなんか公正な感じがします。私は名前を2つ書きました。後は誰かが横線を書き足して、3日後の発表の日を待つばかりです。
発表の前日、私は夜勤入りでした。出勤してみると遅出の60過ぎの女性パート職員が、本当に嫌そうに同僚に訴えていました。
「はあ、嫌やわあ。当たったらどうしよう」
「当たりのとこ、開けてみたらええんちゃう」
それを聞いた同僚は冗談半分に言っていました。その50代の女性非常勤職員は数年前に書いていたので免除されていて、お気楽な立場でした。
それを見た私は、嫌がる60過ぎの女性パート職員の気持ちは分かるとつくづく思いました。だいたい相崎さんがグチャグチャ文句を言わずに書いていればこんな事になっていないんです。私だって事例発表だなんて面倒臭そうな事したくありません。
その後の夜勤中も私はなんだかソワソワ落ち着かず、当選者になっていたら嫌だなあとか時おり思いながら過ごしていました。そしてふとした瞬間私は、出勤した時の「開けてみたらええんちゃう」という同僚の言葉を思い出し、あみだくじを開けてみたいなと思い至りました。言い訳するならば、夜勤中というのは寝ていない事もあっていろいろ魔が差しやすいのでしょう。夜中の4時、スタッフルームにある連絡帳を開き、あみだくじを改めて見てみました。すると、厳重に止まっていると最初は思っていた当たりゾーンの折りたたみは、よく見ると、真ん中のセロハンテープなんて簡単にペロッと剥がせそうだし、両端のホッチキスだって、外してまた同じ所に打てばなんとかなりそうでした。
早速私は、慎重に取り外し作業に取りかかりました。もし相崎さん以外の職員に当たっていたら、横線を付け足して、相崎さんを当選させてやろうと思い、折りたたみ部分を開き、当たりから逆にあみだくじを指でなぞりました。
その結果、その指先は「芹沢」に辿り付きました――。
げ――。
そうです。私の名前です。それから3回、慎重にあみだくじをなぞったのだけど、やっぱり私に辿り着きます。どうしましょう?私はしばらくその場に佇んでいたのだけど、そのうち、なんで私が相崎さんが書くべき事例を書かなくてはならないのかと思えてきました。だいたい文句を言ったら思い通りになるなんて、そんなの腹が立つじゃないですか。
「よし」
私は意を決するように言いました。そして私の横が相崎さんだったので、私の名前のすぐ下に横線を引きました。ただその線があまりに名前に近くて少し不自然に思われたので、他の名前の下のギリギリにも横線を引き、普通感を装いました。その後、私は慎重に同じ位置にホッチキスをして、「ホッチキスは案外同じ穴に打ち直せるものなんだなあ」と相田みつを思いながら小声で呟き、鼻歌交じりにその場を立ち去りました。
しかし私は、うまく元通りに戻せたものの、段々と不正が発覚しないかと心配になってきました。もし、あみだくじの当たり部分を、他の職員がいない夜勤中に私が開けて、自分が当選者になっていたので線を足して相崎さんにした、だなんて、当の本人にバレでもしたらどエライ事です。という訳で、私は何度もあみだくじを確認しに行きました。でも何度確認してもバレそうな要素はありません。それから私は念のため、一切あみだくじの事には触れない事にしようと決めました。全く興味のない風に装うのです。
朝になり、日勤勤務の主任がやって来ました。柔らかな物腰で、職員にいろんな声かけをして働いており、いつもの主任と何ら変わりありません。あみだくじの事には、私も主任も口にしなかったのだけど、私が気になったのは、主任と一緒の日勤勤務のメンバーの事でした。2人共60歳くらいの女性で、パート職員と月2回くらいしか来ない看護師だったのだけど、どちらも、いろいろ職場の事をよく分かっていない人たちだったのです。あみだくじを開ける時は、後から横線をいくらでも足せるというその性質上、当然誰かの立ち会いの元に行わなければいけないと思うのだけど、そのおばちゃんたちは、果たしてその事を分かっているのでしょうか?とても分かっているとは思えないけど――。
――2日後、私は緊張混じりで出勤しました。
昨日は休みだったのだけど、私の不正がバレてやしないかちょっと心配になったり、再び相崎さんに当たったと知った主任は一体どうしたのかと思ったりして落ち着きませんでした。実際に一悶着あったのでしょうか?ああ怖い。
私は素知らぬ顔をして、連絡帳を確認してるだけだよ~という風に、さりげなくあみだくじを見てみました。すると相崎さんではなく、山本さんの所に蛍光ペンで丸がしてあり、当たりから辿った後がありました。あれ?そんなはずはないのだけど、よく見てみると、相崎さんの名前の下に1本線が書き足されているではありませんか。
これは主任の仕業に違いありません。再び相崎さんに当たってると知って、ビビって線を足したのでしょう。せっかく私が、相崎さんに書かせてやろうと線を足したというのに、蹴り飛ばされてしまいました。見事なまでのヘタれっぷり、ヘタれキック炸裂です。それにしても、気の毒なのは山本さんです。1回目の、自分に当たっていないあみだくじの時からあんなに怒っていたのに、もし、私の不正と主任のヘタれが原因で、当選する事になったと知ったら、怒るなんてもんでは済まないでしょう。「このくいだおれ人形が!」と怒りまくって、主任の胸ぐらをつかむ山本さんを想像してしまいました。
あれまぁ~、私はまさかの結果にあ然としながら業務に入りました。もちろんあみだくじの真相の事は誰にも言いません。だって最初に不正を働いたのは私なので、言える訳がありません。主任のヘタれっぷりを存分に知っているのも私だけです。
それにしても、不正の余地が入りまくれるこのあみだくじは一体なんなのでしょう?だいたい、後からいくらでも線を足せるのが駄目で、最初から縦線と同じく横線も印刷されてたらこんな事にはならなかったのです。
しかし、いくら不正にまみれたポンコツあみだくじだったとは言え、もう結果は出てしまいました。後は山本さんに頑張ってもらうしかありません。
なんまんだぶ、なんまんだぶ――。