異世界ゴーストハウス
そこは、仄明るい燭台の光だけが周囲を照らす、暗い洋館の中。その闇の中で、フィーラアモス王国の一等騎士アナスタシアは部下を引き連れて暗闇に向けて目を凝らしていた。
現在の時刻は午後二時頃と彼女は認識していた。少なくともこの屋敷に侵入する直前、太陽は彼女自身の頭上に輝いていたからだ。
にもかかわらず、屋敷の中はまるで真夜中であるかのように暗い。太陽の光を取り込むはずの窓は得体のしれない深黒の何かに覆われており、光は届かない。それでいて気温と湿度だけは何故か高く、彼女を覆う鎧の内側はすでに不快な汗が流れている。
屋敷はひたすらに不気味だった。廊下はどこか腐っているのか踏めばぎしぎしと鶯廊下のように軋みを上げ、呼吸すれば噎せ返りそうな苔や黴の臭いが鼻に侵入する。視界を照らす燭台の灯りはぼんやりと意味があるのかないのか判らないほどに頼りなく、その灯りさえない場所は完全な闇に埋もれている。
「おい、体調がすぐれない者はいないか?」
アナスタシアは自分の後ろに続く四名の部下にそう呼びかけた。これだけ気温と湿度が高く、しかも暗闇の中で緊張状態が続いているのだ。鍛えられた騎士とは言え体調を悪くする者が出る可能性は十分にあった。
「騎士デイビッド、大丈夫です」
「騎士ドラクマー……体調不良はありません」
「騎士ネメシー、まだ行けます」
しかし帰ってくるのは、いずれも自らがまだ足手纏いでないと主張する声ばかりだった。そのことにアナスタシアはほっとした。
「騎士グレゴリー、体調不良はねぇぞ……。それより、アナスタシアは大丈夫か?」
そう質問したのはアナスタシアのすぐ後ろを歩く他の者たちよりもやや老年の騎士グレゴリーだった。アナスタシアは何でもないように平然と答える。
「問題ない。 ……だが、私は外の部下たちが心配だ」
「あいつらならきっと大丈夫だろ。屋敷の外だしな。いきなり分断されたのは想定外だったが……」
グレゴリーが言っているのは、屋敷に侵入する際に起きた怪現象のことだ。
そもそもアナスタシアは、国王の勅命をうけて七十名ほどの部下を引き連れてこの屋敷に向かったのだ。
人間の希望である勇者が魔物の総大将である魔王を倒した後、生き残った魔物たちが巣食うと言われる屋敷。誰がそう呼んだか、ライラックゴーストハウスと呼ばれるこの屋敷の調査。それこそがアナスタシアと彼女が率いる七十名の騎士たちに下された勅命だった。
その屋敷の玄関で、事件は起きた。
『ようこそ、ライラックゴーストハウスへ!』というふざけきったメッセージが彫られた門をくぐると、全員の目の前に古めかしい大扉が現れた。
全滅の可能性を最大限避けるために、アナスタシアら五名がまず大扉を開いて玄関ホールに入った直後、誰も触れていないにもかかわらず扉が閉まり、窓を覆う物と同質のそれが扉にまとわりついて完全に塞いでしまったのだった。
慌てて扉を破ろうとしたが、帰ってくるのはまるで石の壁を叩いているかのように硬い感触ばかり。アナスタシアたちは屋敷の中に閉じ込められてしまったのを理解した。
そして彼女たちは今、屋敷の中で自力で出口を探そうと彷徨い続けているのだった。
「今ごろあいつら、きっと他の出入り口を探してるだろ。だから俺たちも進まなくちゃな」
「……そうだな。グレゴリーの言う通りだ」
アナスタシアの言葉に再び全員が元気を取り戻したかに見えた時だった。
「…………うわっ!?」
「どうした!」
アナスタシアの後方で叫び声が上がった。彼女が振り向くと、部下の一人が倒れていた。
「おい! しっかりしろドラクマー!」
倒れたのはドラクマーだった。
「どうした、ドラクマー」
「だ、大丈夫ですアナスタシア様。その、後ろから何かに足を引っ張られたような気がして……」
「後ろ?」
警戒したアナスタシアがランタンでドラクマーの背後をランタンで照らすが、そこには何もなかった。
「なにも居ないぞドラクマー。きっと疲れているんだ。どこかで休めれば……」
アナスタシアが周囲を見回すと、目の前にドアが一つあった。
開けてみると中からは涼しい風が吹き込み、もう使われていないのか古ぼけた椅子が幾つかあるので座って休むことも可能そうだ。
「いったんこの部屋で休息する! ついてこい!」
アナスタシアの号令で次々と騎士たちが部屋に入る。そんな中、グレゴリーはふと思った。
(……こんなところにドアなんてあったか?)
だが彼はそんな疑念より休憩の方を選んだ。とにかく蒸し暑かったのだ。汗が不快で、インナーはその汗を吸い込んで鉛の様に重たかった。
グレゴリーは最後に入り、周囲に何も居ないことを確認してドアを閉めた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
全員が椅子に腰かけ兜を脱ぐ。さすがに鎧を脱ぐ者は誰も居ない。部屋の中をあらかた調べたアナスタシアが最後に兜を脱いだ。
その途端だった。彼女が被っていた冷たい鋼鉄の兜からまるで蜂蜜色の滝のように長い金色の髪が零れ落ちた。
目鼻立ちは整っており、気品のある美しさを醸し出している。凛々しさを感じさせる氷蒼色の瞳も相まって気高さと自信を感じさせる美貌が兜の中から現れた。
「な、なあ。やっぱりアナスタシア様って美人だよな」
「だよな。しかも王国一勇敢な騎士の称号と宝剣まで国王陛下から賜ったんだぜ? まさに高嶺の花って感じだよな」
デイビッドとネメシーが噂する。そしてそれは、この場に居る騎士のみならず、アナスタシアを知る者なら誰でも思うことだ。
彼女は王国唯一の女性騎士である。だがその剣の実力は将校並であり、部隊を率いる時も常に部下の様子に気を配るため部下の騎士たちからの人気も高い。そもそも、今回彼女が最初に分断されたのも、彼女の部下を気遣う性格が災いしてしまった結果だ。
しかも、公爵家の血筋なので彼女に縁談を持ちかける貴族も少なくない。それこそ、王国の騎士たち全員から《高嶺の花》と思われても何ら不自然は無いほどに。
「デイビッド、ネメシー。どうした」
二人がひそひそ話しているのを不審に思ったアナスタシアが二人に声をかけた。
「え!? あ、いえ! 何でもございません!」
「この屋敷を必ずぶっ潰してやりましょうと相談していただけです!!」
若干慌てて答える二人だったが、アナスタシアは『屋敷を潰す』という言葉に好感を持ったのか声を弾ませた。
「そうかそうか! だがそのためにも休息は必要だ。此処も危険かもしれないが、まさか屋敷中魔物だらけということもあるまい。周辺への警戒は私がやるからゆっくり休め」
アナスタシアは二人を激励した後扉の前に陣取った。一等騎士の証しである金色のマントに覆われた凛々しい背中が部下たちに向けられる。
「大丈夫か? アナスタシア。なんなら俺がやるが」
「グレゴリーか。私なら問題ない。ドラクマーは?」
「あいつは問題ねぇ。むしろ何で転んだのか不思議なくらいだ……」
現在アナスタシアと共にいる騎士四名の中で、グレゴリーだけは上司である筈の彼女に敬語を使わなかった。
グレゴリーは元々アナスタシアの上司だったのだ。しかし、彼女が騎士として驚異的ともいえる急成長を遂げたために隊長の座を彼女に奪われてしまう。
だが、グレゴリーはアナスタシアを恨まなかった。むしろ、その敗北を引き際と考え、後進の育成に力を注ぐことにしたのだ。
「すまねぇ、アナスタシア。俺がもうちょい注意深ければ良かったんだが……」
「言うな。この状況は、私の未熟さが招いたものだ」
アナスタシアは優しい性格だ。だがそれは、指揮官として有能であるとは限らない。
彼女は指揮官なのだ。いわば部隊の頭脳。一番倒れてはいけない人物だ。
その指揮官がこともあろうに真っ先に屋敷に囚われてしまった。考えうる中でも最悪に近い状況だ。
「……ま、敵将の首でもとってくりゃ挽回には十分だろ。俺も歳だが、そのくらいは協力できるぜ」
「ドラクマー先生……」
「おいおい、俺は部下だぜ? わきまえろよ」
茶目っ気にドラクマーが言うと、アナスタシアは思わず「ぷっ」と小さく噴き出した。
「ようやく笑いやがったか。お前も気を張りすぎるなよ?」
「ああ。そうさせてもらおうか」
アナスタシアは固かった表情を崩した。その時だった。
「……ん? 何だ今の音は」
不意に部屋の隅の闇の中から、カサカサゴソゴソと音が聞こえてきた。無数の小さな何かが、床を叩いているような、そんな異音だ。
何かが居る。全員が椅子を蹴り飛ばすような勢いで立ち上がり、抜剣したその時だった。
「ひ、ひいいいいいッ!」
暗闇から、無数の蟲が這いずり蠢き蠕動しながら出てきた。
無数の群体となった芋虫。壁を這い回るゴキブリ。黒い霧のように群がる蠅。パースが狂ったような大きさの蚤。無数の足をバラバラに蠢かす百足。毒々しい色合いの蛙。糸を垂らして降りてくる蜘蛛。そのすべてが、人間にとって生理的嫌悪感の塊だ。
「ひ、引け! 部屋から出ろ!」
そんな中アナスタシアはそう叫ぶ。恐怖からではない。とても対処しきれないという判断に基づく的確な指示だった。
号令にか、或いは生理的嫌悪感からか。騎士たちはすぐさま扉に向かって走り出した。一刻も早く部屋から出るために。一刻も早く、気持ち悪い蟲の群れから逃れるために。
だが、そんな彼らをあざ笑うかのように、悪夢のような事態が彼らを襲った。
「うわ!」
「なっ!?」
何と部屋を覆っていた暗闇が触手の様に伸びてグレゴリーとアナスタシアを掴んで部屋からたたき出すと、玄関と同様に黒いものが扉に纏わりついて残った三名の騎士を部屋の中に閉じ込めてしまったのだ。
「ドラクマー! デイビッド! ネメシー! 大丈夫か! 返事を……」
「「「ぎゃあああああああああああああああ!」」」
ただひたすらに自分の部下が心配だったアナスタシアの叫びは、だが彼ら自身の悲鳴によって掻き消された。いくら叩いても、国王から授かった宝剣で斬りつけても、扉はびくともしない。
「う、あ、ああああああああああ!」
部下を喪った慟哭が、暗闇の中に響く。宝剣を無茶苦茶に振り回すその様が、彼女を襲う全ての感情を表していた。
「み、皆……すまない……わたし、は……」
自らの不注意によって部隊から切り離され、そして手塩にかけて育てた部下を一度に失う。グレゴリーの忠告があったとはいえ、緊張を解いてしまった直後の出来事に、アナスタシアは茫然とする。
「あっ!?」
黒い影が再度触手の様に伸び、アナスタシアの宝剣を奪い取ったのだ。
「返せ! このっ!」
触手がふらふらと宝剣を取り返そうとする彼女をあざ笑うかのように揺らめいた後、すーっと闇の中を滑る様に影は廊下の奥へ消えて行った。
「あ、ああ……」
部下を喪い、宝剣を奪われ、彼女の心はもうズタズタだった。いかに王国一勇敢な騎士といえど、不注意によって部下を喪い、更に自らの実力の証明であった宝剣をも奪われた。もし一人きりなら、再起不能なほどに彼女は打ちのめされていた。
「おいアナスタシア! 追うぞ!!」
だがそんな彼女を励ます者がいた。グレゴリーだ。
「グレゴリー先生……」
「あの宝剣を取り戻さなきゃ話にならねぇ! 行くぞ!」
グレゴリーが勇ましく抜剣し、果敢に闇の中へと斬り込む。アナスタシアは慌ててその背中を追った。
その場に奇妙な香りが漂っていることにも気が付かずに。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
不思議なことに影は宝剣を掴んだままふらふらと二人が追いかけられるギリギリのスピードで移動していた。もし二人が冷静で、注意深く観察していれば、二人ともそれが作為的な物で、何者かが何かしらの意図をもって何処かに誘導しているのではと疑うこともできただろう。
だが、二人はそれに気づくことなく、わき目もふらずに宝剣を追った。やがて二人は屋根裏部屋にたどり着いた。
屋根裏部屋は先程まで二人が居た廊下に輪をかけて不気味だった。木材が腐った臭いがきつく、その中に妙な青臭さが混じっている。
だが、二人の目の前の床には宝剣が無造作に置かれていた。
「おい! あったぞ!」
「あ、ああ」
グレゴリーに促されるままアナスタシアは宝剣を拾った。そして彼女は、それを愛おしそうに抱きしめると再び腰に差した。
「ったく。簡単に盗られてんじゃねぇよ」
「面目ない。これは国王陛下から賜った宝剣なのに……」
二人が宝剣と同時に希望をも取り戻し、閉じ込められた部下たちの救出に向かおうとしたその時だった。
ズル……ズル……と何かが腐りかけた木材の床の上を這いずりまわる音が聞こえる。その瞬間、何もない空間にぼんやりとした青白い灯りがともる。
「なんだっ!?」
「剣を抜けアナスタシア!」
二人は薄明りに照らされて巨大な太い何かが這いずりまわるのを見た。警戒しながら剣を向けるとすでにそれはズルズルと這い回りながら二人を取り囲んでいた。
「どこのどいつだ! 出てきやがれ!」
アナスタシアと背中合わせになったグレゴリーが叫ぶ。その声に応えたのか、それはピタッと這いずることを止めた。
何かが近づいてくる。アナスタシアは視覚で、グレゴリーは背中に突き刺さる禍々しい気配を察してそれを見た。
青白い灯りが部屋全体に灯されて姿を現したそれは、人間の女性だった。ただし上半身だけ。下半身は、全長十メートルはあろうかという巨大な蛇のそれであり、青白い灯りを不気味なうろこがてらてらと反射していた。
半人半蛇の怪物ラミア。それが彼らを自らの蛇体で取り囲み、獲物を見据える瞳で二人を睨んでいた。
そのラミアに対して、グレゴリーは震え上がっていた。
(何てこった……ラミアなんて聞いてねぇぞ!?)
ラミアが目線を合わせた相手を石に変える魔法を持ち、数ある魔物の中でも特に危険とされる種族であることは、グレゴリーはもちろん騎士たち全員が士官学校の時点で叩き込まれることだった。いかにアナスタシアが居るといえど、たった二人で挑むにはあまりに危険すぎる。
「逃げるぞアナスタシア。こいつは俺たちだけで勝てる相手じゃねぇ。宝剣があっても石に変えられたらアウトだ。俺が斬り込むからお前は扉を破れ」
グレゴリーがアナスタシアに耳打ちする。だが、彼女はまるでうわの空でそれを聞いていなかった。
「アナスタシア?」
グレゴリーが見ると、驚いたことにアナスタシアは今にも宝剣を取り落としてしまいそうなほどにガタガタと震えていた。足は生まれたての小鹿のように頼りなく、鎧のパーツが彼女の震えに合わせてかしゃかしゃと音を立てている。明らかに目の前にいるラミアを恐れていた。
「う、わ、ああ、」
戦慄くアナスタシア。その姿からはもう凛々しさも何もなかった。
「しっかりしろアナスタシア! ともかくここから出て体勢を―――」
グレゴリーの声が最後まで彼女に届く事は無かった。突然上空から無数の蛇が降ってきたからだ。
「あ、あ あ ああああ」
アナスタシアが茫然と降りかかってきた蛇を見つめる。その中の一匹と目が合う。その瞬間。
「う、わ、ああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
アナスタシアが絶叫する。そのまま一目散に入ってきた扉に飛びつくと影がまとわりついて開かないそれを半狂乱になって殴りまくった。
「出して! 出して! 出してェェェェェェ!!!」
凛々しい顔を涙でくしゃくしゃにし、扉を殴る彼女を見てグレゴリーは茫然とした。毅然とした態度を崩さないはずの彼女の醜態が、信じられなかった。
だが今度は彼に、悪夢が文字通り降りかかった。
「な、なんだ! 入ってきやがった!」
グレゴリーの頭上に降りかかったのは巨大な蜘蛛だった。毛に覆われた足が首筋に、鎧の隙間から背中に入り込んでわさわさと這い回る。
「だぁ、くそ!!」
「だして! 出してよ!!」
もはや正気を保てない二人は意味不明に暴れながら脱出を試みる。その間にもずるずるとラミアは這いよってその腕を二人に近づける。
ついにその腕が二人を掴もうとしたその時、ドアが突然抵抗を無くしたかのように開いた。
「うわっ!」
「わあッ!?」
二人は前のめりにつんのめり、それでもラミアから蛇から蜘蛛から逃げのびるために立ち上がって走る。その背後を、怪物たちが追いかける。
二人が走り続けていると、その先の廊下の横に取り付けられた扉からデイビッド達が這う這うの体で脱出してきたのが見えた。無数の蟲が跋扈する部屋から辛くも脱出したのだ。出てきた場所は、なぜか入ってきた廊下ではなく、図ったかのようにアナスタシアとグレゴリーが逃げ惑う廊下だったが。
だが、そんな彼らを再び悲劇が襲う。彼らが見たのは、アナスタシアとグレゴリーを追うラミア……ではない。それは牙を剥く巨大な闇と瞳だった。
比喩表現ではなく、そのままの意味でその闇は牙を剥いていた。赤く裂けた口のような部分には鋭い牙がずらりと並び、不気味に輝く赤いぎょろりとした単眼が獲物をしっかりと捉えていた。
アナスタシアとグレゴリーはラミアに追いかけられていると思い込んでいたが、彼らには自然界には絶対にありえない化物が二人を食い殺そうと迫っているようにしか見えなかった。
直後、三人も絶叫し逃げる。暗闇に閉ざされた廊下の先がどこへ続くかも知らずに全員が走り続ける。
走り続けていると、最初に入ってきた玄関に辿り着いた。不思議なことに扉は開いていて、外から陽の光が差し込んでいる。
「あ、アナスタシア様! ご無事で何よりです。実は、騎士たちの中から脱走者が―――」
「あああああああああああああああああ!!」
部下の報告を無視してアナスタシアは逃げ去る。
「アナスタシア様?」
「お、おい! アレは何だ!?」
茫然とする騎士たちの背後に、牙を剥く闇が現れ、本能に訴えかけるかのように悍ましい吠え声を上げる。
元々指揮官不在で混乱していた。その指揮官さえ、ようやく帰ってきたと思ったら叫びを上げて逃走。
更にその後ろには、見るだけで理性を失いそうな化物が現れ、自分たちに牙を剥く。
全員が恐怖し、逃げ出すには十分すぎた。
「「「「うわああああああああああああああああああああああ!!!」」」」
それがもう誰の叫びかもわからない。全員が恐怖に半狂乱になり、理性を失い、騎士としての誇りさえ悪夢のようなこの事態に塗りつぶされ、国王からの使命さえ戦慄のあまり忘れ果てて、まさしく無様に玄関から外へと逃げ出した。
もう誰も振り返らない。もうあの悪夢のような、いや悪夢そのもののようなライラックゴーストハウスを目に映したくもない。あの闇が何だったのか気にする余裕さえない。こうして七十名の騎士たちは恥も体面もなく、逃げ去っていった……。
扉がひとりでに閉ざされ、屋敷の中が闇黒に沈む。屋敷の中には蠢く人外の気配しかない。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
やがて屋敷の内部も外も真の闇に包まれたころ、一人の男が屋敷の大広間に居た。彼の頭上から青白い光がスポットライトのように降り注ぎ、その細い漆黒のシルエットを浮かび上がらせている。
「……諸君。今日はご苦労だった。だが、その働きのおかげで彼らは追い払われた。金輪際二度と来ることはあるまい」
闇の中で声が響き、それに追従するように同意する声が更に響く。
「今宵の宴は今日の働きの褒美。存分に食おう。存分に騒ごう。存分に踊ろう存分に歌おう! さあ!」
男が両腕を上げる。その闇を、闇に潜む化物の喜びを、一身に受け止めるかのように。
「灯りを!」
瞬間、パッと部屋中に明かりが灯り、怪物どもの姿が浮かび上がる。めいめいの手と思しき器官に好物の食べ物や飲み物の入った食器を持ち、男の号令を今か今かと待っている。
「乾杯!」
『乾杯!!』という掛け声に合わせて、宴が始まった。
踊る骸骨があばら骨を木琴や鉄筋のように奏で、動く死体が内臓を振り回しながら踊る。ウィルオーウィスプが色とりどりに輝きながら宙に彩を加えれば、彩色の変化に合わせるかのようにセイレーンが唄う。
まさしく化物の宴。しかし、今日の苦労と働きを労いあうかのように華やかな宴が催されていた。
その上座。屋敷の主人が座る席に、乾杯の号令を下した男が座っていた。
男の右の座席には、一言も喋らないまま男に酌を取る少女が居た。少女はまるで喋る事が出来ないかのように男の隣に座ったまま黙々と男に酌を取りながら自身も皿に盛られた木材を食べ続ける。
そしてもう一人、男の左横には、アナスタシアを退散させたラミアが居た。
「……本当に成功するとはね」
ラミアが口を開く。彼女の好物らしいゆで卵を満足げに呑みながら、男を見つめる。
このラミアもまた、人間の、それも騎士に対して恨みを持っていた。だから嫌いな騎士に恥をかかせてやったことに彼女は清々しい気持ちよさをおぼえていた。
「でもどうしてあの騎士の弱点が私だってわかったの? えっと……ヤミっていったかしら? アナタ」
ラミアが男の名前を呼ぶ。ヤミは酒を飲みながらラミアの質問に答えた。
「俺は普段からよく王都の方に行く。有名な騎士の情報収集にな。そうしたら王国一勇敢な騎士と有名な女が騎士を志したきっかけが、大きな蛇に呑みこまれかけた時に騎士に助けられたことだと知った」
その経験は彼女が騎士になるきっかけになると同時に忘れ難いトラウマにもなった。ゆえに彼女は、蛇の群れや自分よりも大きな蛇が耐え難いほどに恐ろしいのだ。
「来た者に耐えがたい恐怖を与え、二度と来ようと思わせない。一切の死者もけが人も出させないために。これ以上人間たちに目を付けられ、警戒されないために。魔王が死んだ今、我々が生き残るために。此処のやり方は万事そうだ。分かったか? 新入りのラミア……いや、ラミーネ」
「ええ。良く分かったわ」
実のところ、アナスタシアを担当したのはラミーネの他にはケニーという蟲使いの少女と、サンタナという催眠術師の少年だけだった。ヤミ自身は全体を監督しなければならないため数にはカウントしない。
まず屋敷中を歩き回らせ、疲れ切ったところでヤミが狭い部屋に入るよう仕向ける。そこへ、ケニーが蟲を操って怯えさせ、サンタナが薬物を焚くことで思考を鈍らせ、トドメにラミーネが驚かせる。アナスタシアたちを襲った恐怖は、簡単に言えばこういうことだった。
実は彼女が連れてきた部下たちの一部も、入口を見つけてはバラバラに分断される形で屋敷の中に居たのだ。最終的に全員恐怖に晒されて逃げていったが。
「それと……ずっと気になってたけどアナタの隣にいるその子、誰なの? そんなのを食べていたらお腹を壊すと思うけど……」
ラミーネが不思議そうにヤミの隣に座って木材を食べる少女を指さす。彼女の皿に盛られているのは木材やレンガであり、コップになみなみと注がれているのはペンキだ。
「こいつが食べているのを見て分からないか? こいつはこの屋敷そのもの。正確にはこの屋敷の化身だ」
「……は?」
「ここはバケモノ屋敷ライラックゴーストハウス。なら、この屋敷自身が化物でもおかしくはあるまい? なあ、ライラ」
少女……ライラがこくりと頷く。
実際、そうであった。ヤミは屋敷の主人であり、ライラックは屋敷そのもの。
ヤミが操る闇のような黒い物質で屋敷を閉ざし、光を断ち、ライラックが自分自身である屋敷を自在に変化させて侵入者を迷わせる。そして他の化物たちが彼らを襲い、恐怖と絶望に叩き落す。
化物の総大将だった魔王が死んで、化物の居場所がない今の世界で、化物たちの最後の砦。それがこの屋敷だった。
宴がいよいよ盛り上がる。セイレーンが高らかに唄い、ウィルオーウィスプが輝き踊る死体の内臓があちこちに飛び散る。
バンパイアとハーピーが空を舞い、鳥人間と狼男が吠え、厨房ではせわしなく料理を担当する化物が働く。デュラハンが同僚の化物とお喋りを楽しむ。
饗宴の中でヤミは新しい仲間を抱きしめて受け止めようとするように両手を広げた。
「歓迎するぞラミーネ。ようこそ、ライラックゴーストハウスへ!」