8 壁の高さは同じ。異なるのは、
逃げるように部室から出た。
帰ろう。この二日間は、何かの間違いだったんだ。環境が変わってすぐだったから、なんかそういうアレだったのだろう。どういうアレなのか全く分からないけれど。多分、ビギナーズラック的な何かだ。
鞄を背負いなおし、帰路を歩み始める。
「待てよ。逃げるのか」
数歩進んだところで、早くも止められた。
振り返るまでもなく、声の主は明らかだった。正直無視を決め込みたかったが、それで追いかけられるのも面倒くさい。
経験上、目先の面倒くささよりも後の面倒くささの方が厄介な場合が多い。
仕方ない。合理主義を自称する出帆としては、ここはおとなしく振り返るしかない。
偉そうに腕を組んで見下してくる深緒へ、問う。
「逃げるって、何の話かしら?」
「逃げるなよ。ぷよぷよから」
深緒の言葉を、出帆は鼻で笑った。てんで見当違いな指摘だ。
「逃げてなんかいないわ。そもそも私は定型が好きなだけで、ぷよぷよ自体はそんなに好きではなかったのよ。もともと心が離れていた場所からさらに少し離れただけ」
「……あえてぼかして言ってやったのにな。馬鹿な奴だ」
深緒は、呆れるような、哀れむような目を向けてくる。
「じゃあ、言い方を変えるぞ。――才能から逃げるな」
ぐぅ。今度こそ、返しに詰まった。
図星だった。完全に。
才能のなさから逃げて、才能のある人から逃げて。そんな自分を見て見ぬふりする才能だけは一丁前にあって。
全く嫌になる。
とはいえ。一つだけ反論したい。
「あなたにだけは言われたくないわね。私と違って、天才の冠をほしいままにしていたくせに。たった三年でぷよ界の頂点を掴みかけたのに。なのに、あっさり引退したあなたには、私の苦しみなんてわからないでしょう」
負け犬みたいな悪態のつきかたに、嫌気がさす。しかし、そんな自分をコントロールする余裕は、今の出帆にはない。
「……ああその通りだよ。頂点に立つ化け物みたいな連中に勝てる未来が見えなくて、ぷよぷよをやめた。それからはぷよぷよから、才能の差から逃げて生きた。一年間、逃げ続けた」
目線を落とし、忌々しげに吐き捨てる。
「そんなアタシだからわかる。逃げた先には何もないって。才能が壁として立ちふさがるなら、頑張って踏み台を組み上げなきゃなんねえんだって」
「……そんなの、わかっているわ」
言われるまでもなく、わかっている。逃げた先の景色などまだ知らないけれど、簡単に想像がつく。
才能の壁は努力で超えるしかないのだということも。
でも。知ってしまった。
どれだけ石を集め、丹念に磨き、整え、一つ一つ丁寧に積み上げても。
高すぎる壁は、越えられないのだと。
「わかって、いるわ」
小さな声で繰り返し、背を向ける。
もうこれ以上、彼女と問答はしたくなかった。現実を見たくなかった。
だから、歩き出す。
そんな出帆の背を、深緒の、叫びに似た声が呼ぶ。
「灼は! 灼はどうするんだ! お前の弟子だろ!」
「……あの子が勝手に言っているだけよ。私は師匠なんかじゃない」
振り返ることすらせず、出帆は静かに答える。
「あの子は10年に1人いるかいないかの天才よ。いずれ一人でも頂点まで登り詰められるわ。なんなら、あなたが師匠になってあげれば良いじゃない。あの子の才能は、私よりあなたの方が育てられるわ」
「……何も知らないくせに……」
お互い様でしょう、それは。