1 お酒を飲むと楽しいのは脳細胞が破壊されバカになるから
何故20歳になるまでお酒を飲んではいけないのか。『脳細胞の破壊が加速される』『アルコール分解能力が未熟』『アルコール依存症になりやすい』グーグル先生に訊けば、様々なそれらしい理由を説明してもらえる。なるほど、それらはたしかに、きちんとした医学的根拠に基づいた信頼に足る根拠なのだろう。
しかし、と出帆は思う。違うだろう。そうではないだろう。そんな面倒くさい理由は、ただの後付けだろう。もっと言えば、この説明では『なぜ20歳からはお酒を飲んで良いのか。なぜ20歳を過ぎた人はお酒を飲むのか』がわからない。
その答えが、出帆はずっと気になっていた。そして、今この瞬間、この場所で。澄み渡る青空を眺め、おにぎりを口に含みながら、唐突に理解した。
『大人がお酒を飲むのは、そうしないと世界を楽しめないからである』
逆説的に、子供がお酒を飲んではいけないのは、お酒なんてなくても世界を楽しめるからだ。
ならば。出帆は思った。
飲酒は、高校二年生の六月からできるようにするべきじゃないかしら、と。
……阿呆らしいわね。溜息をついた。なぜこんなくだらない事ばかり考えてしまうのか。以前はもっとまともで建設的な思考をしていたような気がするのだけれど。最近、時間の使い方がものすごく下手になってしまった。もう本当、嫌になる。どうしてこうなったのか。なんもかんも政治が悪い。すべてを政治のせいにして投げ出してしまえれば、それはそれで楽になるわね、と、誰が政権取っても激しい非難にさらされる理由が少しわかった気がした。こうしてまた一つ、この世の真理を知ってしまった。悲しいかな、こうして人は大人になってゆくのね。ああ、無邪気な子供だったあのころに、お酒なんてなくてもただひたすら楽しかったあのころに戻りたい。もっとも、お酒があったところで、今のこの退屈がやわらげられるとは思えないのだけれど。
「退屈……そうね、退屈。お昼休みって、こんなに長いものだったかしら」
呟いて、周囲へ目をやる。
昼休みの中庭は多少にぎわいを見せるらしい。特に今日は梅雨にしては珍しく陽光が差しているからか、ほとんどのベンチが埋まっている。昨日までの雨のせいで空気がジメジメしており、心地よいとはとても言い難いのだが、それでも太陽が好きな生徒が多いのだろう。よくわからない感覚だ。首をひねるものの、傍から見れば自分もその一員なのだと気付き、なんだかやるせなくなった。
そんなだから日向ぼっこをするような気分にもなれず、かといって、今の出帆に会話をして時間を潰すような相手もいない。あるいは今までだったら空き時間はとりあえずぷよぷよをしていたのだが、そういう気分でもない。結局、弁当を口に運ぶことでしか暇を潰すことができない。このままでは過食で太ってしまうではないか。そんな心配が一瞬脳裏をよぎったが、そうなったらそうなったで特に困らないから、まぁいいか。そう結論づけ、唐揚げを口に突っ込んだ。しょっぱい。
出帆はあの敗北から、一週間近く寝込んだ。といっても、敗けたショックで寝込んだというわけではない。単なる風邪だ。土砂降りの中を30分も歩けば、元々あまり身体の強くない彼女が体調を大きく崩すのはもはや必然と言えた。
その、寝込んでいる間。出帆は看病してくれる母に対し、ずっと主張しつづけた。
転校したい、と。
無茶な願いであることは、風邪引きの頭でも理解できていた。高校二年生の六月だ。もはや超能力者と疑われてもおかしくない程に、転校する時期としては中途半端だ。もちろんお金もかかるし、面倒な手続きもしなければならない。
しかし、それでも、出帆は転校をしたかった。ぷよぷよ部の強制退部と同時に引退を決意。そんな状況に置かれて、まだ栄高校に通い続ける気にはなれなかった。もう、栄高校の誰とも顔を合わせたくなかった。
母親も、出帆のその思いを察してくれたのか、風邪が治るころには既に転校手続きを済ませていた。こういうとき、決断の早い母親で助かるな、と思った。
そうして風邪が完治したところで、いざ新しい学校へ。と登校してきたのが昨日。既にグループが完全に作られてしまっている高校二年生の六月だ。もともとコミュニケーションを取るのが苦手で、ぷよぷよ以外まともに話せる話題を持たない出帆が孤立するのは当然の結果だった。
きゃあきゃあと楽しげな女子生徒の集団をいくつか見回して、小さくため息をついた。
「いや、まぁ。別に友人が欲しいとは思わないからいいのだけれど。というか、むしろ一人でいたほうが気が楽だったりするくらいなのだけれど。……って、なんだかものすごく言い訳くさいわね」
言い訳をする相手すらいないというのに、何を言っているのか。自嘲気味に笑って、再びオカズを口にする。元々食事スピードは遅い方だが、今日は人生で最もゆっくり食べていると言っても過言ではないだろう。健康的で良い事だ。健康記念日とでも名付けようかしら。また適当なことを考える。それ自体特に問題ないのだから好きにすれば良いではないかとも思ったが、単純にこのまま頭の悪いことばかり考えていると頭が悪くなっていく気がした。
と、結局空を眺めて適当な事を考えながら暇をつぶしていると、ふと、右の方に気配を感じた。ん? と気になったままそちらへ目を向けると、出帆の隣、本当にすぐ隣に、一人の女の子が座っていた。
出帆は目を丸くして、その小学校高学年か中学生くらいの少女を見つめた。誰? とか、なんで私の名前を? とか、いろいろ尋ねたいことはあったけれど、それ以上に、思った。
「可愛い」
可愛い。ずるい。ずるいくらい可愛い。短めに切りそろえられた、いっそ古風な黒髪も。活発で明るい性格を感じさせる、あどけない表情も。それでいて上品さを失わない、整った顔立ちも。あらゆる要素が可愛い。
小学校高学年から中学生といえば、ちょうど可愛い子と可愛くない子に分かたれる時期だ。それまでの、みんな可愛い時期から、可愛い子と可愛くない子とで身分が天と地ほどに隔たれる時期となる。その選民期を経て、なお極めて可愛いこの少女は、一体なんなのだ。妹属性がないにも関わらず、一瞬脳天をやられかけてしまった。
「ええと、あなたは」
「あきは芳乃灼といいます!」
何がそんなに楽しいのか、少女は脚をぶらぶらとさせながら元気に名乗る。
ヨシノ。初めて聞く名字だ。親戚というわけでもないらしい。
さて、どう話を聞いたものか。思考していると、灼の方から言葉を発してきた。
「出帆さん! 弟子にしてください!」
は? でし? 何が? いきなり何の話? 突如放り込まれた全く心当たりのない言葉にあわあわとする。と、その間に灼に手を取られ、「とりあえずついてきてください!」と半ば引っ張られる形で歩き始める羽目になった。
何がなんだかわからない。出帆はその急展開に翻弄されながら、一つだけ思った。
せめてベンチに置きざりにしてきた食べかけのお弁当のフタだけは閉めさせて、と。