プロローグ 敗者に許される事
敗けた。
出帆は天を仰いだ。身体中から力が抜け、レバーを掴んでいた左手がだらりと滑り落ちる。観戦していた部員たちの歓声が耳に入ってくるにつれ、現実を理解する。終わった。終わってしまったのだ。
49-50
画面を見なくとも、刻まれた数字はわかっている。誤差と呼んで差し支えない、一本差。されど、決定的に、絶対的に覆らない、敗北。
絶対に勝たなければならなかった。だから、今日この日この時間に合わせて、一か月前からコンディションを整えてきた。調整は、完璧に上手くいった。かつてない絶好調だった。大満足の戦いぶりだった。
そして、敗けた。
もはや、言い訳のしようもない。ただただ自分が弱かった。敗因は、その一言に尽きる。
「…………………………ありがとう、ございました」
敗者が勝者に握手を求めるのは、暗黙のうちに決められたマナーである。出帆は力なく席を立ち、筐体の向こう側に座る部長へ右手を差し出した。
「ありがとうございました。出帆ちゃん。強くなったね」
「………………いえ」それでも、届きませんでしたから。
強く握られた右手を振りほどき、背を向けた。今は、優しい言葉も、柔らかい声も、――悲喜入り混じった表情も、欲しくはなかった。
「おい、出帆!」
歩き出した背後から、自分を呼ぶ顧問の声が届く。しかし、出帆はふりかえることもせず、ふらふらとした足取りを出口へ向ける。
心なしか、いつもより重い扉を開く。ざあざあと、まるで出帆の心のように激しく雨が降っていた。来たときはまだ晴れ間も見えていたのに。傘なんて持ってきていない。まぁいいか。この有り余った熱を冷ますには、ちょうど良い。そう思って、そのまま歩き出した。
激しい雨に打たれる。思ったより、冷たく、痛い。
あてどなく歩みながら、自然、瞳の奥から、熱いモノがこぼれた。怒りか、悲しみか、屈辱か。自分でも分からない感情が降り注ぎ、洪水となり、流れ落ちる。
灰色の空の下、こんなに激しく雨が降り注いでいるのだ。強がる意味はない。この雨に打たれる限り、好きなだけ感情を吐き出す事が許される。
だから、流した。ひたすらに。この悔しさを。怒りを。やり場のない、慟哭を。
やがて、雨も収まってきた頃。ぽつりと呟いた。
「……引退、かしらね」
この、あまりに痛い敗北を。いかんともしがたい感情を。次の糧にするには、手にした栄冠が少なすぎた。
6月12日。太田出帆は『名門』栄高校ぷよぷよ部を退部。同時に、ぷよぷよの公式戦からの引退を決意した。