『サモトラケのニケ』
紫苑は床の上のリュックをまさぐった。
そして、まったく入れた記憶のないペンケースを見つける。
どうして探ってみたのかさえわからないのに、意図したとおりに紫苑はえんぴつを手にすることができていた。
あとはもう、衝動のままに白い画用紙を見つけ、えんぴつを走らせる。
ポーズを変えるためにベッドのふちから立ち上がった彼女の細腰から、するりとワンピースが抜け落ちた。
ふだんの紫苑であれば、目のやり場に困ったにちがいない。
けれど、彼女に恥じらいがないからか、紫苑も見てはいけないものを見ているような後ろめたさは感じなかった。
ふと、紫苑の頭にとある女神の絵が浮かぶ。
いつも千夜に揶揄される、女神様のおっぱいが見られる絵こと、カバネルの波間に浮かぶ『ヴィーナスの誕生』──
海の泡から生まれたという伝説の女神を描いたその絵画には、天使が乱れ飛ぶあくまでも宗教画と言われなければとても正視できないほどになまめかしい全裸の女体が描かれているのだが、それは美の象徴であって、性の象徴でもなければ卑猥な絵などでは決してない。
たしかに夢のようにうつくしい女体だが、女神とはかくあらんとおもうだけで、芸術性以外のものをとくに感じることはなかった。
幽霊か、夢か、まぼろしか、彼女が何者なのかは紫苑にもわからないが、どちらかといえば、人間よりは女神に近い存在におもえる。
いや、もっとも近いものは、紫苑の中にある美の理想形かもしれない。
白いベールを被せて赤子を抱かせれば、そのまま聖母子にもなりそうだ。
もちろん、全裸のままならばヴィーナスでも通用するし、理想的な男体を隣に配せばアダムとイブにもなりうるだろう。
その清楚な表情を際立たせれば、処女神アルテミスにもなりはしないだろうか。
そのとき、不意に紫苑の頭に浮かんできたイメージは、アルテミスとおなじギリシャ神話の女神を題材にしたギリシャ彫刻の傑作と呼ばれる『サモトラケのニケ』だった。
朽ちてなお圧倒的な美を誇る大理石の像を、自分も刻みたい……そう紫苑におもわせてくれたのは、『ピエタ』ではなくむしろ『ニケ』の方だ。
腕と頭部が欠けているからこそ、紫苑はその美を完成させる夢を無邪気に描くことができた。
『ピエタ』の美は完全で、『ピエタ』の彫刻にミケランジェロ以上のものは存在し得るはずもないが、『ニケ』には夢想の余地もある──
いつの間にか手を止めうつむいていた紫苑が、意識を『ニケ』から目の前の女性に戻そうとしたとき、もはやそこに彼女のすがたはなかった。
「…………は?」
ぱち、とまばたいてみたが、女性も、その身から落ちた藍色のワンピースも、影も形もなくなっている。
狐につままれたようだ。
手元を見れば、画用紙には紫苑の描いた絵だけがしっかりと残っていた。
女神のごとき、やわらかく均整のとれた女性の裸体──
紫苑は、うっすらと湿った髪を掻いた。
まったく、わけがわからない。
でも、彼女は紫苑のモデルになるために現れてくれたのだろうとおもう。
スケッチブックを渡されたとき、『描いて』と言われている気がした。
紫苑は、かなり長い時間、自分の描いた絵を見つめていた。
その絵に何か意味があるような気がしたし、それが何なのか知りたいともおもったからだ。
けれどやがてあきらめて、紫苑は立ち上がる。
そして、カギをかけて部屋の灯を消すと、スケッチブックを床に置き、ベッドの上に倒れ込んだ。いっしゅん、いずこからかしーちゃんと呼ぶ声が聞こえた気がしたが、おそらくは沈み込んだベッドの残り香に、抱きついてくる千夜の記憶が重なったのだろう。
その夜、紫苑は未来の自分が妻らしき女性といるひどく幸福な夢を見たのだが、目覚めてからいくら考えても、たしかに呼んでいたはずの相手の名前を、どうしてもおもいだすことはできなかった。




