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おやすみのあいさつ

が、それから約一時間後、紫苑はもう一晩ここに泊まるという選択をしてしまったことを、かなり本気で悔いる羽目になった。


「紫苑」


ダイニングテーブルで真名が淹れてくれたコーヒーを飲んでいた紫苑は、声に振り返ってあやうくコーヒーを噴き出しそうになった。


「はい、返す」


目の前に突きつけられたカギが、目に入らない。


「それ…………真名の、か……?」


見覚えのあるパステルグリーンのワンピースすがたの里沙に、紫苑はそれしか言えなかった。

いつものショートパンツなどからすればずっと丈は長く、太ももの露出という意味ではまちがいなく減っている。

にもかかわらず、そのすらりと伸びた脚を直視することなど紫苑には到底できなかった。

真名と里沙の身長差は、十五センチ弱だ。

真名が着ればさわやかな膝上丈が、里沙が着ると極めてきわどい丈、としか言いようがない。

真名がその格好でコンビニに行くと言っても止めないが、里沙が外に行くと言ったら紫苑は意地でも止めるだろう。

すこし風が吹けば、下着が丸見えになるのは目に見えているからだ。


「あのね、紫苑。ひとこと言ってもいい?」


紫苑は、罵られるのも覚悟してうなずいた。

かつて、これほどやましいきもちに苛まれたことはないかもしれない。

が、里沙は予想に反してワンピースのすそに手をやり、ひらりと揺らす。


「この格好、いつもの格好よりむしろスースーして、べつにあたたかくないんだけど」

「あたたかいとおもって着たのか?」

「だって、真名の服装に関しては何にも言ってないし。紫苑は、真名みたいにしてれば文句はないんでしょ?」


ワンピースが意外に涼しいことなど、男の紫苑が知るはずもない。

第一、丈の長さによる差はぜったいにあるはずだ。


「里沙ぁ。寝ようよー。寝に行くよー。しーちゃんに、女の子アピールしてないでさー」


廊下への戸を開けて、太ももの上部を辛うじて覆うTシャツを着ただけの千夜が目をこすりながらやってくる。

腕の動きに引きつられたすそから今にも下着が見えそうではあったが、それと里沙、どちらが目のやり場に困るかといえば、なぜか里沙だった。


「里沙ちゃん。それ、明日着るつもりだった服……なんだけど」


バスタオルを手にした真名が、千夜の背後から顔を覗かせる。

と、里沙の両手がむんずと胸のやや下をにぎりしめた。


「はーいはい。ごめんね、脱ぎます。返せばいいんでしょー」


いっしゅんその手を押し止めるべきか、と紫苑はおもったが、それより目を背ける方が先決だ、という体の反射に従った。


「里沙のばかー! しーちゃんの前で堂々と脱ごうとすんなっての。しかも、カーテン開いてるから。外から丸見えなんだってよ。不用心。不用心っ!」

「二回も言わなくても聞こえてる。脱いでないから、こっち向いても大丈夫だよ、紫苑」


千夜がダメだと言わないあたり嘘ではないんだろうと、紫苑はおずおずと視線を向けてみる。

とたん、ぐいっ、と紫苑の首に腕が絡まってきた。


「オイッ」

「おやすみ、紫苑」

「────っ!」

「今、名前のうしろにハートマークがついてたぁ!」


千夜が猛然とわめいたが、紫苑には頬に触れたわずかに湿った髪の感触や、耳元でちゅっ、とかすかに聞こえた音の衝撃で、それどころではなかった。

仮に、欧米文化に育った兄妹間などであればこういうおやすみのあいさつもありなのかもしれないが、純然たる日本人の紫苑にはまったく縁のない行為であって、動揺するなという方が無理なはなしだ。


「おやすみ……。チーもな」


燃えるように熱い顔を覆って、それだけ言うのが紫苑はやっとだった。



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