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母と姉

そろそろ離れてくれないだろうか、という願いが届いたのか、里沙が紫苑の肩に伏せていた顔を上げる。

が、瞬間的に、これならくっついていただけの方がはるかにましだった、と紫苑は内心で悲鳴を上げた。

それほど、濡れた里沙の瞳には男を落ち着かないきもちにさせる、色気に近いなにかがある。

紫苑は、少々無理やり、里沙の頭を肩に押し戻した。

ふだんとちがって、里沙はそれに対してひと言の文句もない。

そのしおらしさが、よけいに紫苑の胸をきゅうと締めつけた。

はたから見たら、ふたりは恋人同士のように見えるかもしれない。

街灯はあるがまばらで薄暗く、人通りも少ない道だ。

紫苑は、自分はこんなところでどさくさに紛れて何をやっているのだろう、とおもった。

そうおもっていないと、自分ではないものに、今にも思考を奪われそうな気がしてならない。


「……私のせいで、紫苑がケガしたら、どうしようって────」


紫苑の背中に腕を回した里沙が、ぽつりと言う。


「そんな心配までしてたのか。大丈夫だって言ったろ、俺も、チーも」

「絵、を描くしかできない紫苑に、守る、なんてできるわけないもん」

「……………………」


そうおもわれていたのか、と紫苑は内心肩を落とす。

たしかに、大丈夫としか言わなかったので、ただの気休めにしか聞こえなくても無理はないが。


「彫刻には、それなりに腕力が要るんだぞ。あと、二年前まで剣道の道場に通ってたんで、棒を持たせさえすればそれなりに強い」


 紫苑のことばに、ふふ、と里沙が微笑をこぼす。

どうせ、そうはまったく見えないんだろうと紫苑は苦笑した。

柔道や空手とちがって、見かけではちっとも強そうに見えないのは剣道人に共通していることで、なにも紫苑だけではない。

実際、棒を持たない紫苑は、攻撃を避ける反射神経くらいしか取り柄もないのだが。


「だいたいな、里沙。夜道をひとりで歩くなんて、自覚がなさすぎるだろう。ああいう変なのがふらふら着いてきたくなるようなルックスをしてるんだから、次から迎えを呼べよ」

「……バカなの、紫苑? いつもは千夜とふたりなんだよ。千夜に、夜道を迎えにこいっていうの? それだって危ないでしょ」


千夜とおまえでは男の目を引く度合いがまるでちがう、とおもったが紫苑は口に出さずにおいた。

里沙が千夜のことを対等に考え、本気で心配してくれているのがわかる。

里沙の外見にどうやら劣等感をもっているらしい従妹に、ぜひ聞かせてやりたいセリフだと紫苑はおもった。


「そもそも、実家にいるときは、私なんかだーれも眼中になかったから、注意する必要なんてなかったの!」

「まだ中学生だったからだろ?」


と言ったあとに、里沙ならばさぞかしかわいらしい少女だっただろうに、とおもう。

東京だから、美少女もめずらしくないということか、と紫苑は勝手に納得した。


「今でもだよ。私は、実家じゃただの冴えないオタなの。元モデルの母親とかアイドルの姉がいっしょにいるのに、こんな地味なのが目に入るわけないでしょ」

「モデルと、アイドル……?」


紫苑のつぶやきに、里沙は顔を上げた。

こんどは、いつもに近い怒り顔をしている。


「そうだよ。私の人生に登場したヘテロ男はみーんな、お姉ちゃんの顔を見た瞬間、私のことなんて記憶から抹殺すんの。もう、慣れっこだけどね」

「──はあ。まあ、里沙イコールきれいな子としか見てない男はそうなのかもな」


オムライスをとある友人宅で食べる以前、紫苑の好物は母親が作るオムそばだったので、より理想の存在に出会ったとたんオムそばが好きだった事実自体どうでもよくなる──という心変わりは紫苑にもおぼえがあった。


「紫苑はちがうってーの?」

「会うなり、ヘテロだ何だといちゃもんつけてくれたやつを、どうやったら記憶から消せるんだよ。ああ、それに、チーのほかに絵を描いてやった初めての女の子だしな」

「えっ……」


紫苑を見つめる瞳が長いまつげとともに、ぱち、とまたたく。


「高杉と義清だったよな? できたから持ってきてるぞ」

「うそうそ! 見たいっ」


うそだろ、と言いたいのは紫苑の方だ。

いっしゅんで、里沙はさっきの出来事など忘れたようにはしゃいだ声を出し、紫苑の手を引いてマンションの中に急ごうとする。


「…………おまえ、たしかにオタクだな」

「は? なにか言った?」


紫苑は、何でもない、とだけ応じた。

里沙が笑ってくれて、すなおによかったとおもう。

無意識なのだろうが、まるで小学生のころの従妹のようにぎゅう、と手をにぎりしめている少女に、もうヘテロだという理由で自分を拒絶する意志は感じない。

そのことも、紫苑はばかみたいにうれしかった。



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