追跡者
しかし、最寄り駅を下りた里沙から電話がかかってきたのはとっくに日も落ちた夜の九時すぎで、紫苑はそのとき、東行こと高杉晋作の背後に梅の花を描かされていた。
「しーちゃん、里沙がやばいって!」
と、唐突に千夜のスマホを差し出されても、紫苑には何のことだかまったくわからない。
「は? やばい?」
「いいから出て! 早くはやく!」
急き立てられてスマホを顔に近づけるなり、里沙の声が聞こえてきた。
『どうしたらいいのっ、紫苑!』
おもわず、紫苑は背筋を伸ばした。
そのくらい、ただごとではない雰囲気が伝わってきたのだ。
「どうしたんだ、里沙?」
『誰かが着いてくんの。どうしよ……』
「どうしようって、今どこだ。駅前の交番に駆けこめねーのか」
『やだよ。交番、戻らないとだもん。着いてくるやつに寄ってけるわけないでしょ』
それはそうだ。
紫苑は髪を掻き回した。
『ねえ、これ、ストーカーってやつ? よくテレビで、ナイフで刺されたとか言ってるよね』
「なわけねーだろ」
と言いつつ、夕方に見た郵便物がふと思い浮かぶ。
危害が加えられることはないと言い切れるほど、紫苑も楽天家ではない。
『そこに帰ったら、千夜に迷惑がかかる……! どうしよ、紫苑。どこに行ったらいいの』
「里沙、今どこだ?」
『今、ポストがある横断歩道を渡ってるところ。ねえ、走った方がいい?』
「走るな。追われたらよけい怖いだろ。大丈夫、マンションまでまっすぐ歩いて来い。入口で止まらず、駐車場の方に回り込め。俺が居る。ぜったい、おまえは守ってやる」
『でもっ……』
「だいじょうぶだ。俺を信じろ、里沙」
それだけ言って、紫苑は立ち上がった。
スマホを千夜に渡しながら、あたりを見回す。
と、不安そうな真名と目が合った。
「棒、あるか? 長い棒」
「えっ、えっと……ものさしくらいしか」
「だいじょうぶだって、里沙。──しーちゃん、外に物干し竿があるよ。短くなるやつ」
スマホに向かって話しながら、千夜がまっすぐベランダを指さす。
何に使うか紫苑の意図を見抜いているからだろう、その的確な返答に知らず、紫苑は笑みを浮かべた。
「あと一分もかかんないよ、しーちゃん」
「わかってる! 何か、布……」
立ったままローテーブルの上を見た紫苑は、マグカップの下の麻製のコースターを引っ掴み、ベランダに出た。
裸足のまま物干し竿を手にすると、地面に向かって一端を下ろしてみる。
さすがに先が地面に付くことはなかったが、二階なのでそのまま飛び降りたとしても高は知れていた。
紫苑はベランダに出てきた真名に竿とコースターをあずけ、すぐに手すりによじ登った。
それから、受けとったコースター越しに物干し竿をにぎると、再度、地面に向けて下ろし──同時に、ひら、と飛び降りた。
「紫苑さんッ!」
コースターのおかげでうまく手もすべり、これといった衝撃もダメージなく駐車場に足を付くことができた。
足裏に砂利が刺さるのだけが痛かったが、我慢できないほどではないし、幸い、物干し竿も曲がっていない。
顔を上げた紫苑は、手すりの向こうからこちらを見下ろしている真名に平気だという代わりにうなずいてみせた。




