ピンチヒッター
「は? なんて?」
反射的にそう問い返した紫苑は、杏の微笑を見て策に乗ってしまったことに気づいた。
「私の代わりに原稿頼むね、って言われて、わかった──って」
「言ってねえ! ぜったい言ってねーよ」
「いえいえ。言ってましたよ。上の空だったのかー。でも、男に二言はないですよね?」
「………………」
もしかしたら言ったのかもしれない、という一抹の不安が、紫苑にそれ以上の抗弁をさせてくれなかった。
おぼえていない紫苑に、杏の断言を覆せようはずもない。
紫苑は両手でぐしゃぐしゃと髪を掻きむしった。
「がー! もうっ、おまえらどれだけ俺を使えば気が済むんだ!」
「そう言う紫苑くんだって、千夜ちんの乙女心をすこしばかり利用したんでしょ? 私は何にもしてあげてないけど……ふたりきりでどんな絵を描いてたのか、追及しないであげることくらいはできますよん」
語尾にハートマークが見えるほどのわざとらしい笑みに、紫苑はへたりとローテーブルに突っ伏した。
杏にはぜったいに勝てない、と思い知らされる。
「いや、マジなはなし、バイト代が印刷代に消えるだけならいいけど、私らの発行部数だと、割引額のがはるかに高いのです。紫苑くんにバイト代を払ったとしてもてーんで惜しくないくらい」
「…………バイト代、くれんのか?」
「さー、それは私の一存では決められませぬ。ところで、もうすぐ夕飯ですから、ひと休みしませんか。全面桜吹雪を描ききってとってもお疲れの紫苑くんに、私が凝った肩とか腰をほぐしてして進ぜましょう」
ローテーブルから顔を上げた紫苑は、両手を突いて立ち上がろうとする杏のはずむ胸に、どきっとさせられた。
大きめのTシャツとアンクル丈のパンツという服装に色気は微塵もないというのに、どうして肩と腹の間がああも出っ張っているというだけで、男の胸はときめくようにできているのだろうか。
杏だから紫苑の動揺にも寛容な態度を示してくれるが、これが里沙だったら、紫苑は初日の時点で部屋を叩き出され、二度と敷居を跨がせてもらえなかったにちがいない。
──ふと、その方が自分にとっては良かったのでは、ともおもったが、女の子に最低の無神経男とレッテルを貼られたままでいられるほど紫苑の神経は図太くなかった。
「その道のプロをやってるうちの母親仕込みなんだけど……女の子にやるのもどうかとおもって、試したことはなかったんです」
その道ってどの道だ、と紫苑は内心で突っ込まずにいられない。
ふつうに考えればマッサージだか、整体だかに決まっているが、いつも肩が凝っている様子の杏自身のみならず、女の子に施せないとはいったいどのようなものなのか、よからぬ想像をするなと言う方が無理なはなしだ。
「はいはい、うつ伏せに寝てもらっていーですか?」
仰向けと言われたら躊躇ったかもしれないが、うつ伏せであれば身構える必要もない。
すなおに従った紫苑の側までやって来て、杏がしゃがみ込む。
紫苑の両腕を体からやや離したので、まさかそこに足でも入れて腰を下ろす気なのかとおもったが、そうでないことはすぐにわかった。
「………………杏」
「ほいな? 痛いですか? でも、そのうちきもちよくなりますって」
たしかに、痛い。
が、それはどうでもよかった。
そんなことよりも、なぜ自分がぐりぐりと杏の足に踏まれているのかを説明して欲しいとおもう。
しかも、肩でも腰でもなく、二の腕の裏側を、だ。




